昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。
二月廿九日 水曜日
豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った
永劫の象に於ける生命の 迸り出る時の嬉しさ
あの歌を思い出す。
永劫の象に君は帰りしか アシニを撫でて偲ぶ一昨年
この「永劫の象」とは何か。 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?
長らく考えてきました。 永劫とは?
キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。 それとも……
哲学か。
かもしれない。 北斗は西田幾太郎の『善の研究』を読み込んでいました。 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。
ニーチェか。 そうかもしれない。 というか、よくわからない。
永劫。永劫の象。
本当に「象」でいいのだろうか。 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。
永劫の「ぞう」か? 永劫の「像」? そういう像があったのか? 「蔵」? もっと、哲学的な概念的な言葉。 「相」か?
「永劫の相」……なんかありそう。 検索してみると、あった。
「永劫の相」スピノザ。
スピノザか。スピノザなのか? 北斗はスピノザを読んでいたのか?
本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。 スピノザ、読んでみるか。
| |