北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。
ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」という本も多いですが、それは間違いです。
現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。 外つ国の花に酔ふ人多きこそ 菊や桜に申しわけなき
現在確認できる、上京前の短歌としてはこの一首のみです。 では、本格的に短歌を作り始めたのは、やはりバチラー八重子の影響なのかというと、そうでもないようです。
大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。
違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。
では、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思うようです。
大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。 昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。 この記事の中に、次のような記述があります。
是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ
つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。
もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。 実はまだ道庁のどこかにあったりして。
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