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コタンBBS

違星北斗研究会
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 北斗からの手紙3  [返信] [引用]
さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

 
管理人  ++.. 2008/10/18(土) 23:57 [385]

 
大正十四年二月末頃か三月上旬だったと思ます。私には東京と云ふ 馬の目も抜くとか云ふところへ誰一人として知ってゐる人はありませんでした。(上京したのは二月十五日 でしたが)たったひとり金田一先生とおっしゃる方が居られますと云ふことだけが かすかな よろこび でした 。それで未だお見にかゝつた事のなかった先生を尋ねたものでした。一日一っぱい同じところから そうです成宗村は殆ど戸別毎と云ひたい程さがしたが遂い夜までかゝった事と今思出しました。

 金田一の「違星青年」に描かれていたことが、北斗側の視点から語られています。「大正十四年二月末頃か三月上旬」というのは、金田一宅を訪ねたタイミングでしょう。3月12日に金田一を初めて訪問したことに対して、北斗はハガキを出していますから、3月初めなのかもしれません。
 北斗にとって、金田一を訪ねるということが、上京に際しての一つの目的であったように読めます。
 上京前に金田一のことを誰かから聞いていた、あるいはその著書に触れていたという可能性は高いと思います。
 さて、新事実としては、「上京したのは二月の十五日でしたが」という記述。これは今まで知られていなかったことです。『自働道話』の西川文子の記事で、2月18日よい以前に上京していることはわかっていたのですが、はっきりとした日付はわかりませんでした。
 しかし、この書き方では、2月15日余市発なのか、東京着なのかというのがどちらともとれる気がします。ただし、15日余市発だと、17日東京着、18日に校正終えた西川文子を手伝ったとするには、あまりに時間に余裕がない気がします。やはり素直に東京に着いたのが2月15日と考えるべきでしょうね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:31 [386] [引用]

 
 それから ずいぶん 根気よく あちらこちらを歩き回ったこと も忘れられません。本当に自分が感心する程 根気よかったものでした。手紙狂とそれがら名志狂と云ふ あだ名さへ所有したものでした。御勉強中を幾度かお邪ましたこともありました。私は これでは先生方に ご迷惑かけるからいけない と 気がつきながらも、私は まるで 不思儀な物のけに つかれたやうに訪門したことを忘れられません。
私はアイヌの為に少しでも良い宣伝したい願もあったし アイヌの在りのまゝで 悪い事は無かった事に消してしまほうと企てゝゐましたこと 等もありました。私を一度毎に大きなものを みせて下したのは、あなた様でした。私を外形的思想から求って くれたのも 先生でした。私は先生を思出度 、先生の思を感謝してゐます。


 北斗は「手紙狂」とか「名志狂」というあだ名を所有していたとあります。手紙狂はよくわかります。北斗は本当に筆まめです。
 では「名志狂」は?
 これは「名刺」かもしれないと思いましたが、やはり「名士」でしょうね。確かに名士たちと進んで交わっていました。金田一京助、伊波普猷、中山太郎、松宮春一郎、山中峯太郎、後藤静香等々。
 北斗は仕事の合間をぬって、あるいは休みのたびに、本当に東京じゅうのあちこちを歩き回ったのでしょう。
 北斗は本当に、金田一京助のことを敬愛し、感謝していたことがうかがえる文面です。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:50 [387] [引用]

 
 ここからしばらく、梅子という女性の話になります。かいつまんで話すと、梅子と波子というウタリの女性の上京を北斗が世話し、金田一や松宮や、バチラー八重子に協力してもらい、上京が叶った。
 北斗は彼女らに期待し、東京で、ともにアイヌの未来のために働いてくれるものと思っていたのですが、結局東京で和人と結婚してしまい、北斗は失望した、というような事件があったようです。
 それは、北斗にとっては許せないことだったんですね。この女性は、北斗の恩師たちの力をわずらわせて上京を世話されたのにもかかわらず、よりによって、北斗が一番嫌いな、アイヌであることから逃げ、和人に化けるということをやってしまったわけですから。
 しかし、金田一も八重子も、逆に祝福したようです。それは大人だからなのかもしれませんし、あるいは北斗のようなこだわりがないからかもしれませんが。
  
 「違星君の平取入村当時の思い出」という著者不明の文章に、北斗がアイヌの「純血」にこだわった、という記述がありましたが、案外、この事件なんかが影をおとしているのかもしれませんね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:18 [388] [引用]

 
なんとさびしい事ではありまあせんか。淋しさを知らない人がシャモになるのでせう 。そしてそれが、そを云ふ人の幸福でせう。
学問のある人、金のある人、秀でたる人から先をあらそふてシャモになるし優生学 的にとり残された劣等アイヌだけ票(ママ)本となるかと思ふと残念です。然しシャモになるの急なる理由もあるが、どうでもよい。正しい者がやっぱり正しい。アイヌは亡びてしまってもあったまゝの事跡はやがて残されることでせう。


 このあたりの北斗の思想は、「アイヌの姿」に通じるものありますね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:30 [389] [引用]

 
 さて、今度は各地のコタンをめぐったことに関しての記述です。

先般、ムカワのチン部落に立よった事もありました 。(中略)只一つ私の嬉しかったことは ムカワ村の或る氏族は昔々余市コタンから来たものである 、と云ふ色々私の興味ある研究材料を話してくれました。大そうやさしい方でした。

 鵡川のチンといえば、辺泥和郎のコタンです。この時、辺泥和郎と会った可能性はあるかもしれませんね。

 北海道へ来て(本当にあこがれの地で)私を受け入れてくれるアイヌはなかった ことを淋しがったものでした。然るに今、三年の後になって やっと私を信じてくれる人と会ました。浦川方面のアイヌは心から私を信てくれます。四五日中わざ/\私に会に来る青年も出来ました。なんと云ふ有がたい事でせう。

 本当のあこがれの地とは、平取でしょう。日記など他の文献にもありますが、平取では冷遇されたようです。
 浦河から訪ねてきてくれた青年とは、浦川太郎吉かもしれません。また、北斗は浦河にはよく行っていたようです。(これは浦川太郎吉のお孫さんからお聞きした話です)。
 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:39 [390] [引用]

 
 病気についても語っています。

只残念なことには、私の病気してゐることです。去年の腐敗性キカン が たゞって今年は右の肺炎で寝てしまふ。なんだか死につゝあるやうに心ろさびしくて、そして今のうちに知ってゐる人に御礼の手紙でも出して置きたい様な気がします。思い残すことは何もありませんが。もう一度健康になって今までの目的を少しでも達したいことです。そしてまた永い間の仮面を叩きこわして正味の違星を諸先生の前に晒して虚栄の罪 を詫びたいと思います。イゝ決して死にはしません。が この頃 そんな事ばかり頭の中を支配してゐるのです。

 「去年」(昭和2年)の病気は「腐敗性キカン」、腐敗性気管支炎でしょうか。「今年」(昭和3年)の病気は「右の肺炎」となっています。いずれも4月の発病です。両年とも、鰊漁をした後に発病しています。
 北斗は再起を夢見、「決して死にはしません」と言っていますが、このまま悪くなって亡くなってしまいます。

 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:42 [391] [引用]

 
 二三日前に松宮先生からお手紙来て嬉しかった。岡村千秋先生 が、金田一先生を訪問した時、私の「はがき」が来てあったなどゝ書いてゐました。私の病気してゐるのを岡村先生からお聞きしたのかも知れません。すぐに返事を差上げましたが やっぱり 淋しい心持が はなれません為め ろくなことを書かなかっ(ママ)と思ってゐます。
 (中略)病気ばかりしてえゐて あまり見込もない私はこれ以上名志も学者も知らなくてもよいと思います。又た失礼だとは知り乍ら誰にも手紙を出した事ありません。悪るいんだとは思ますが (且つては手紙狂であったのですけど)幾分か虚栄から遠ざかり得るやうにも存ます。これからも手紙は出す元気は予定されてゐません。


 北斗は、病気になり、かなりネガティブになっています。かつての社交的で意欲的であった自分、貪欲にいろいろな人と交わり、手紙をやりとりした自分のことを「虚栄」と呼びます。
 松宮春一郎への手紙にも、同様の淋しい心持ちが記されていたのかもしれません。今、この手紙で金田一に弱音を吐いたように。
 松宮春一郎は北斗に山中峯太郎や永尾折三を紹介した人物。世界聖典全集などを出版したらしい。北斗とは金田一京助を介して出会ったのだとおもわれます。柳田国夫や折口信夫、中山太郎などの民俗学者にも顔がきいたようですが、どうやら西川文子(光次郎とも?)とも知り合いであったようです。
 http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20081019/p1
 このサイトを読むと、松宮春一郎の広すぎる人脈に驚かされます。

 岡村千秋は郷土出版社「爐端叢書」の編者。爐端叢書は「アイヌ神謡集」を出した叢書です。

 この金田一、岡村、松宮あたりは、「東京アイヌ学会」のつながりでしょう。
 



 

管理人  ++.. 2008/10/23(木) 23:38 [397] [引用]

 
 さて、ここからも概略にします。

 北斗は、余市コタンの実力者で、金田一もよく知る人物について書きます。
 北斗はこの人物から、ずいぶんときつくあたられたといい、それが自分を伸ばしてもくれたが、心から尊敬することはできなかった、と言います。
 また、その人物の息子のことを、北斗は親友として見ていましたが、その息子もまた、北斗の陰口をたたいているということを知ってしまいます。
 その実力者があまりに北斗を面罵するため、北斗はその人物を避けていましたが、そのうちに彼は死んでしまいます。
 北斗は彼のことを同族のために働いた違人だと思っていましたが、彼が同族の互助組織のお金を食いつぶし、そのために同族の生活が困窮してしまったといいます。
  
 さて、ここに書いてあることがどこまで本当なのかはわかりません。北斗は病床にあり、とても不安定です。
、疑心暗鬼にもなっているでしょう。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:27 [398] [引用]

 
 そして、その時立ち上がったのが、北斗の兄・梅太郎でした。
 最初、兄梅太郎は、北斗が金を稼がず、アイヌ復権の活動ばかりしているので、北斗に対して冷たい態度をとっていました。ところが、組織のお金の整理のために走り回り、各地で自分の弟が有名になっていることを知り、それからは北斗のことを見直したといいます。
 北斗は、兄について
 
 此の頃は本当によい兄となりました 。二十八年、私は本当に兄弟の様な気を初めて致しました。然し遅かった。三年前 だったら本当に……

 といっています。
 「三年前」とは、この手紙が書かれたのが昭和三年」ですから、三年前だと大正14年。上京前のことでしょうか。なにか含みがありそうな気がします。
 

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:31 [399] [引用]

 
なんぼ書いても足りません。三銭でいけなくなりますからこれで失礼いたします。
六月二十日
                    違星北斗  
金田一京助先生

東京へ十日ばかりの旅したいと考いてゐました。十月頃一度上京しやうと予定しましたが 病気してから しっかり 心ろ 小さくなりました。
私はきっと達者になります!! 此の上は静かに時の来るのを待ってゐます。


 これで、この手紙は終りです。
 現在見つかっている北斗の手紙としては、最後のものになります。
 
 結局、北斗はこの手紙を出してから8か月後にこの世を去ります。再び上京したいという夢も叶いませんでした。

 北斗は憧れの地、平取コタンでも受け入れられず、本当かどうかわかりませんが、よりによって父祖伝来の家紋をルーツに持つ違星姓を、「イポカシ」(「醜い」の意)と心ない同族から馬鹿にされた、という話も聞きます。
 どれほど失望したことかわかりませんが、それでも同族のために戦い続けます。

 失意とともに平取を辞して、舞い戻った故郷・余市コタンもまた、この手紙に書かれているように、決して住みよい場所ではありませんでした。
 それでも、北斗は兄・梅太郎という心強い味方を得たことは、大きな救いであったと思います。
 当初、そりの合わない兄であった梅太郎は、病に倒れた北斗を最後まで面倒を見させ、死後も北斗の活動を継承してリンゴ農園をつくり、これに「北斗農園」と名付けています。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:59 [400] [引用]

 
 「力ある兄の言葉に励まされ 涙に脆い父と別るる」

 この短歌も、そういう経緯を考えて読めば、違った意味が見えてきます。


管理人  ++.. 2008/10/24(金) 08:41 [401] [引用]





 その時歴史が動いた「知里幸恵」  [返信] [引用]

 10月15日、NHK総合の「その時、歴史が動いた」で、「知里幸恵」が取り上げられ、その中で、少しだけだと思いますが、違星北斗が紹介されます。
 (たぶん)
 だいぶ前に、NHKの方から問い合わせがあり、すこし
協力しました。
 北斗が、どういう紹介のされ方をするのかはわかりませんが、NHKのこういう番組で、全国に違星北斗のことが知られることになるのはうれしいことです。

 みなさんも、ぜひご覧ください。

 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html
第340回
神々のうた 大地にふたたび
〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜
平成20年10月15日 (水) 22:00〜22:43 総合

<再放送>
本放送の翌週(月) 午後5:15〜 BS-2 全国
本放送の翌週(火) 午前3:30〜 総合 全国 (近畿のぞく)
本放送の翌週(火) 午後4:05〜 総合 全国
本放送の翌週(土) 午前10:05〜 総合(近畿ブロック)

 
 


 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html

 
管理人  ++.. 2008/09/13(土) 11:18 [370]

 
 見ました。
 北斗の名前と写真が、一瞬だけ出ましたね。

 あれだけの露出でも、このサイトのカウンターがウソみたいにハネ上がっていました。これが、TVの力なんですね。

 この番組のリサーチの段階では、スタッフは昭和2年のガリ版同人誌の「コタン」(北斗が中里凸天と二人で作った小冊子)の実物を探していたのですが、結局みつかりませんでした。古書店に売りに出ていたので、実在していることは確かなのですが。
 もしそれが見つかっていたら、もう少し北斗の扱いが大きくなっていたのかもしれません。

 内容的には、まあいろいろとご意見も出てくるとは思いますし、個人的にもいろいろ突っ込みどころはありましたが、多くの人に興味をもってもらえたという意味では、非常によかったのではないかと思います。

管理人  ++.. 2008/10/16(木) 00:41 [384] [引用]





 北斗からの手紙2  [返信] [引用]
 さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

 
管理人  ++.. 2008/09/27(土) 17:15 [374]

 
ちょっと本文を引用してみます。

 拝啓 東京に居りました一年と六ヶ月 その間先生におそはることの多かったことを忘れがたい事と感謝してゐます。自分は何かなにやら もう 煩から悶への苦しみでしたが 先生にこの自分を さらけだして 自分の求めるものを得やうとしたのでした。今考いてみても 本当に先生の御勉強をどんなにか さまだけた事か 又は おいそがしい所を、自分勝手からどんなにか先生のご迷惑をおかけしたことでせう。 私しは 又とない機会なのでしたからどんなにか 愉快に どんなにか おたよりしたことでありました。
 

 北斗は金田一京助のもとに足しげくかよい、また頻繁に手紙を出していたことがわかります。

 さて あの日はもう五分で、あの汽車に遅る所でありました程、時間も かっきり 上野に参りました。  額田君と二人で飛ぶ様に三等に飛び込みました。

 北斗が、上野からの汽車に乗り遅れそうになったというのは、「自動道話」に掲載された北斗の手紙にもありますね。
 額田君と二人で客車に飛び込んだというのは、どういうことかわかりませんが、額田が北斗と一緒に来たということかもしれませんね。「自動道話」には額田は見送りとして名前が出ているので、北斗の荷物を持って入り、そのままホームで見送ったのでしょうか。

 (略)高見沢様の奥様と、奥様をみつけたら高見沢様もそこに居られました。うれしくて/\涙が、ヲヤヲヤ僕の道楽なんでしから 手紙にまで泣いたことを報告します。

 高見沢夫妻が見送りに来てくれたことに感動して、泣きます。
 北斗は本当に感動屋で、小さな出来事にも感動して涙を流します。北斗自身は、その性分を「道楽」と呼んでいるんですね。
 感動屋で、涙を流すことが「道楽」という横顔が見えてきました。なかなか、興味深いというか……親しみ深く、愛おしく感じます。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:08 [375] [引用]

 
 青森もぶらついたり 室蘭も初めてみたり、また幌別にも寄った事は、嬉しいことです。ここは三百戸ばかり そしてウタリは三十戸ばかりあります。

 北斗が青森をぶらついたというのは、初見ですね。
 まあ、そうでしょうね。津軽海峡は青函連絡船に乗ることになるので、それを待つ時間が何時間かできるわけです。
 室蘭は「見た」といっているので、通っただけかもしれません。北斗は胆振方面に来たのは初めてだと思いますので、室蘭の工業地帯を車窓から見て驚いたのかもしれません。
 幌別の戸数やウタリの戸数については、自動道話にも同様の記述があります。

 (略)知里幸枝さんの弟さんの直志保さんにも会ました 。豊年君もよい青年でした。 

 この知里幸枝さんはもちろん「知里幸恵」のこと。直志保は真志保のことです。
 北斗は、幌別に着いた次の日には、知里家を訪ねているんですね。
 興味深いのは「豊年君」です。日記に出てくる「豊年健治」のことで間違いないでしょう。
 北斗は昭和3年2月末に幌別を訪れますが、「親しい友」が死んでいることにショックを受けます。彼は豊年健治の墓に参り、2年前の夏のことを偲んで短歌を詠みます。
 この豊年君とは、どういう人物でいつごろで会ったのかが、はっきりとはわかっていませんでしたが、幌別に着いた直後に会ったのだということが判明しました。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:40 [376] [引用]

 
八重様は どう思ってゐるかは不明です。けれどもあの手紙 の心もちと ちっとも変わってゐない様です。とにかく 私しを アイヌの信仰の 持ってゐる家に お世話して下さる との事です


 「あの手紙」とあるように、東京時代に北斗はバチラー八重子とは、何度かの文通をしていました。
 北斗は、実際に八重子に会ってみて、また話してみて、意見があわなかったのかもしれません。
 北斗は、八重子にアイヌの信仰を持っている家庭を紹介してくれるよう(これは「平取で」ということでしょう)に頼みます。

 八重様は まだ僕の心根は わかって下さらない様です。けれども僕を愛して下さることは まるでお母様の様です 。私しはこのお母様の様な八重様を どうかして 嬉しがらせたいと 存ます。あまり 失望も さしたくないと思ってゐます。それはあんまり罪深いと思ひますから。

 まず、ちょっと驚きました。北斗が「僕」という一人称を使っていること。まあ、当たり前ですが、これまでのものが「私」と「俺」しかなかったので。

 もうひとつ、そして八重子のことを「お母様」に譬えていうことです。北斗は早くに母を亡くしていますので、18歳年上の八重子の中に母を見てしまうのはいかにもありそうなことだと思います。日記の中では「ヤエ姉様」となっていましたが、北斗の中ではお母様のように思い、思慕しているということだと思います。

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:11 [377] [引用]

 
 北斗が漠然と感じている八重子との微妙な距離感。
 八重子から慈愛を感じ、北斗も八重子を母のように敬愛していますが、その二人の間には、思想上の大きな隔たりがあります。
 その信条の違いは、二人のこれまでの生い立ちからくるものだと思います。二人ともアイヌの将来を憂い、なんとかしなければならない考えていますが、そn二人の間にも見えない溝があります。
 それは世代や性別、性格、生い立ち、受けた教育など、大小さまざまな違いからくる考え方の違いがあり、それが彼らの間にあるのだと思います。それが北斗の八重子に対する不安の原因なのでしょう。
 お互いに慈しみあい、尊敬しあう二人ではあるけれども、その溝は、その後の平取での活動を通じて、より大きなものとなり、決して越えることのできない決定的なものとなってゆきます。

 その思想、信条の違いについて、北斗は次のように語ります。

 (略)神は私しを救ほふが殺そうが、私しは神なんか(助けるタノマレル神)は問題でない、との信仰は、只、私の良心を本尊として進みます。 私しの信仰は やがて ヤエ様にも 放される信仰であるかもしれない 若しやそんなことがあったって 神をもタノマナイ私しは人間を どの程度までタノンでよいでせう。若し私しは孤立することがあったって、私しは、驚くまい、と思ってゐます (略)私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。 

 クリスチャンである八重子と、神をも頼まないと宣言する北斗。
 北斗は決して無神論者というわけではないし、宗教も否定しません。東京では日蓮系の新宗教である国柱会に通ったりしていたのですが、それと影響しているのかしていないのかわかりませんが、北斗のクリスチャンに対する視線は冷徹なところがあります。

 北斗は神の存在は否定はしないけれども、ただ羊のように神に頼り、すがりつくのを良しとせず、自らの信念を「本尊」にして進まなければならないと考えています。
 のちに北斗は吉田はな子に「キリスト教では同族は救えない」と言い放ちますが、すでにこのころから、そういう考えを抱いていることがわかります。
 
 

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:22 [378] [引用]

 
僕のぢ病 も どうも 都合の悪るいものだ これでは 家に立ち寄って そして適当な療治するのが本当だと思ったが、なあーに まかりまちがったて、死程のこともあるまい(中略)然し、大事にはするよ、私しの理想は遠いのですもの
 
 ここでいう「ぢ病」は「持病」ですね。ガッチャキ(痔)ではありません。東京の生活は経済的に安定していたため、活力に満ちているような気もしますが、かといって、完治したわけではないようです。東京時代も北斗は「持病」の発病に悩まされていたのかもしれません。山中峯太郎に会った時、顔が黒いと表現されていますが、もしかしたら、それも病気のせいなのかもしれませんね。

 北斗が、なぜ郷里に余市に帰らず、「いの一番」に幌別に向かったのか不思議に思いましたが、明確な意図があったことが、これでわかります。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 00:50 [379] [引用]

 
また 父も兄も ゐるのだし 私しは父よりも兄よりも 亡き母や それから 私しを愛して下した、石亀石五郎爺や の霊をなぐさめ、姉 の霊をなぐさめるうへに於ても 私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。

 この石亀さんについては誰かわかりません。
 姉については、北斗の八つ年上の長姉と、北斗の生まれる六年前に生まれ、三歳で死んだ次姉がいますが、ここでいう姉は長姉のことだと思います。この姉は、十五歳の時にはまだ生きているので、亡くなったのはそれ以降でしょう。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:44 [380] [引用]

 
 あんまり引用ばかりすると、よくないとは思いますが……この手紙自体が、北斗の思想の塊だと思うので、引用をせざるを得ないですね。
 次はこの当時の北斗の思想そのもの、ともいうべき文です。ちょっと長いですが引用します。(適宜改行を入れています)。


波の音が、のんきそうに また痛快に ひゞいて来ます。
 裏の鉄道の信号が ガチャンと ひゞくと程なくして汽車がドヾ……とやって来ます。浜には浜なしの花が香よく咲いてゐます  
 この家にゐても 波の音が涼そうに 聞いて来ます。この波の音だって太平洋のかなたより送られて来るんだと思と音の一つ一つが 自然の造り出だされた約束なんでせう。
 この浪の音で思ひ出しました 私し共は常にこの浪の音だけ聞いてゐます (略)けれども音は結果であって初めではない。結果だけで まんぞくして来て なれてゐます。この結果になれてゐることが どうも わからないことです。
 私しはアイヌに生れました。これは どこからか約束されて来た結果です。この結果が運命と云ふもだらうと今思ってゐます。結果は私しのあずかり知ることのない勝手な運命であって 生れ乍らにして、約束の責任のない責任を負ふてゐます。
 それは幸不幸の問題ではなく「動いて行く」と云ふ運命を負されてゐます。罪なくして罪を負されてゐる人間が世の中に沢山あることです。と 又、同時に誉なくして誉を負はされてゐる人間もありますと思ます。
 その人の努力なくして負ふてゐる結果だけ、見つめてみると問題はないんです。然し運命を(私しは運命は凡て私し共の感すてゐるのは結果だけのことを名さしてゐるのではないかと思ます)少し深く考いてみて初めて人間とつかんだやうな気がいたします。
 こんな考はこの文だけでは不完全でせう どうせ私しの考は正しくないのかも 知れません。けれども 私しは この考は 自分を卑下するところから思索をめぐらしたに外なりません。私のすべての出発は自己差別なんです。私しはアイヌをより克く見やうと負け惜みから進めて行くことが自分乍ら哀れです。
 小さな者相手の小さな仕事です。と気が附いてゐながら骨のずいまで浸み込んでゐる私しのうらみは これだけの理性をも きくことが出来ないでゐるらしいと 自分を解ボーしてみます
 そこでアイヌを礼賛も正しくないであらう。よしんば礼賛するべきなにものがあったって 負け惜しみて 云ふ感情を入れては正しいものが見えないであらう。卑下もやめました 礼讃もやめました。やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます


 さて。これをどう読むべきなのか。まだ読み足りません。しばらく時間をください。
 
 

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:58 [381] [引用]

 
とりあえず、先に進みます。

今日も昨夜も八重様と色々な思想的な問題を語り 私しはとても愉快でした。この二三日中に平取りに参ることになることでせう。 どんな家に入られるかヾ今からそこの家を想象してゐます 何せよ第一番にアイヌ語を習らふことが先ですからこゝ二年くらいは何んにも出来ないのではないかしら。

 北斗は数日中に平取入りし、バチラー八重子が紹介してくれたアイヌ文化を保持している家庭に入るということでしょう。これが、「違星君の平取入村時代の思い出」(筆者不明)に出てくる、「忠郎」氏の家なのかもしれません。(忠郎氏の自宅は茅葺の大きな家だったとあります)。
 北斗はこの家でアイヌ語を習うつもりだったようですが、はたしてどの程度腰をおちつけて習うことができたのかわかりません。
 後述の北斗の昭和3年の手紙や、日記などの記述では、平取は北斗にとっては居心地のいい場所ではなかったようです。

 

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:00 [382] [引用]

 
今この聖公会(バチラー宅)に***の娘と(十六七才)その父母(五十前後の人が)居ります 気の毒な人をお世話するのが この八重様の持ってゐる性分なんでせう。その外 茶畑さんと云ふ青年(二十五六)が居ります これは 少し替りやの様で 元 ウシ の土人学校の先生をしたとか て 八重様が申してゐました。なか/\面白い青年で話せます その青年とまるで議論の様に話してゐるので この教会にゐるのも 愉快です。八重様はこの青年客人と僕と外に気の毒な人々のお世話で多忙をきはめてゐます。何か ひま/\に書いてゐる様子です
 金田一先生にお会したら さぞお話が 面白いことだらうと口くせに話してゐます。梅子さん のことも大そうよろこんでゐます。先生からのお手紙を何べんも何べんも読んではくり返してニコ/\してゐます。
デハ これで失礼いたします


 ということで、この手紙は終りです。
 ***と伏字にしたのは病名です。
 茶畑さんの部分は、当時の幌別聖公会の現状、雰囲気がよく出ていると思います。
 梅子さんとは、北斗が東京時代に上京の世話をしたウタリの女性だということです。(次の手紙で明らかになります)。

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:25 [383] [引用]








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