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  朝倉義景の命取り  仲條拓躬2024/02/26(月) 15:49 
  ヨーロッパ各国が謝罪  仲條拓躬2024/02/24(土) 16:14 
  竹中半兵衛の才能  仲條拓躬2024/02/24(土) 16:13 
  野村乙二朗先生にインタビュー  仲條拓躬2024/02/22(木) 08:19 
  スリランカに救われた日本  仲條拓躬2024/02/19(月) 16:55 
  これからの注目国はインド  仲條拓躬2024/02/19(月) 16:54 
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  政治への無関心が問題  仲條拓躬2024/02/14(水) 15:48 
  七夕がターニングポイント  仲條拓躬2024/02/14(水) 15:47 






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朝倉義景の命取り
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/26(月) 15:49
No. 7370
 
 
一乗谷五代目のあるじ朝倉義景は、その気になれば、充分、天下を狙える資格がありました。家は名門だったし、実力も備えていました。北には浅井氏の小谷山城という恰好の前進基地もあったわけです。足利義昭もそれだからこそ、義景をたよって訪ねてきたのです。

だが、肝心のところで義景は決断に欠けていました。ぬるま湯のような一乗谷の日々が、戦国武将にもっとも大切な闘争の意欲を、義景から吸い取ってしまったのかもしれません。性格の弱さも朝倉義景の命取りになったのだと思います。

義景は、二度好機を逸しています。最初は義昭がたよって来て上洛を奨めたときでした。このときは、何はともあれ上洛の構えを示して天下に呼びかけるべきだったのに、義景は義昭が愛想をつかすほどに煮えきらなかったのです。義昭は滞在十ヵ月ほどで、一乗谷に見切りをつけて美濃へ移ってしまい、上洛一番乗りは織田信長のものとなったのです。

二度目は、元亀三年(1572) 武田信玄の大軍が、京都を目指して進軍を開始したときです。当時、義昭が糸を引いて反信長連合の包囲網ができあがっていたし、信長の盟友だった家康は、三方ヶ原の一戦で信玄に完膚なきまでに叩きのめされてしまった。順調に主導権を握ってきた織田・徳川同盟は、たいへんなピンチにさらされていたのです。

義景は西方で信長を釘づけにしておくために、湖北へ兵を出していたのですが、信長が長島一揆の蜂起で岐阜へ兵を返すと、何を思ったのか、自分も越前へ引き揚げてしまったのです。 雪で補給路が塞がれることを心配したのかもしれないが、この報らせを受け取った信玄は天を仰いで、義景の腑甲斐なさを嘆いたといわれています。

この二度目の逸機が、結局は朝倉氏の命取りになったのです。信長に各個撃破を許してしまう結果を招いたのです。信長は全力をあげて一揆征伐に当たり、輪中の村々の一向宗徒をなで斬りにして、ついに鎮圧してしまったのです。

翌天正元年(1573)4月、三河路を西進していた甲州の大軍団は、不可解な撤退をはじめました。その旌旗に力のないところから、信玄の死が囁かれたが、それは事実だったのです。愁眉をひらいた信長は直ちに反対勢力の黒幕である義昭に迫って、これを河内へ追い払いました。こうして足利将軍家は、尊氏以来15代230余年にして滅亡したのです。

義昭は術策に溺れて破滅を招いたのです。彼は、空虚な将軍の権力を過信し、信長の実力について目算を誤ったのです。信長包囲陣は乱れはじめました。義景も、信長の鋭鋒が次に自分に向けられるであろうと悟っていたので、国境の城を厳重に固めさせていたが、士気の低下は恐るべきものがありました。

果たして信長は、義昭の処分をすませるやいなや、湖北に軍を進めました。小谷山城の長政からは、火のついたように救援の催促が来るのですが、一乗谷では、義景が命じても何かと口実を設けて先陣に立とうとする者がいないのです。

やむを得ず義景は、みずから軍を率いて敦賀まで出むいたのですが、前線は予想以上に混乱していました。いったん衰運の影が射しはじめると、 崩壊は早いものです。朝倉家に見切りをつけて信長に降る者が続出していて、うっかり前進もできないありさまなのです。せっかく出陣した義景は、持前の引っこみ思案を出して、 一乗谷へ引き揚げてしまったのです。

 





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ヨーロッパ各国が謝罪
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/24(土) 16:14
No. 7369
 
 
2022年12月、オランダのマルク・ルッテ首相が、19世紀半ばまで3世紀近くにわたり奴隷貿易を行っていたことについて、国家を代表して公式に謝罪しました。ハーグで演説したルッテ首相は「オランダ国家は、奴隷にされた人々やその子孫の計り知れない苦しみに責任を負っている。政府を代表して国家の過去の行為を謝罪する」と語りました。

2021年、アメリカでも似たようなことがありました。アメリカのバージニア州政府が、ロバート・E・リー将軍の銅像を撤去したのです。リー将軍は南北戦争で奴隷制維持を掲げる南部連合軍を指揮した英雄ですが、現代の価値観にそぐわないというわけです。

いまかつての列強の国々が、過去の植民地支配などについて改めて謝罪しようという動きが進んでいます。自分の国の歴史を振り返ってみると、必ずしも素晴らしいとは言えないこともあると冷静に受け止めようということでしょう。

こうした動きを加速させたのは、2020年にアメリカで黒人男性が白人警官に殺害されたことをきっかけとした、黒人差別に対する抗議デモでした。2020年、デモは大西洋を越えてイギリスに波及しました。南西部のブリストルで、17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの銅像がロープで引き倒され、抗議者たちによって海に投げ入れられたのです。

ドイツでも、2021年、第1次世界大戦前に植民地支配していたナミビアで行った住民の虐殺を正式に認め、「ナミビアと犠牲者の子孫らに許しを乞う」と謝罪しています。ナミビアに11億ユーロの支援も表明しました。

フランスのエマニュエル・マクロン大統領もルワンダでの大量虐殺の政治的責任を認めています。ヨーロッパはいわゆる列強といわれた時代、植民地支配をした国の住民に本当にひどいことをしてきました。それをようやく認め始めたのです。当時略奪した品物などの返還も始めています。

自分たちの父祖たちが植民地支配をしていた時代の罪を、その後の子孫たちが謝罪するというのはなかなかできることではありません。オランダのルッテ首相は、2020年1月、第2次世界大戦中にナチス・ドイツからユダヤ人を守らなかったことについても謝罪しました。AFP通信によれば、第2次世界大戦前のオランダには約14万人のユダヤ人が暮らしていましたが、戦争を生き延びたのはわずか約3万8000人だったといいます。

 





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竹中半兵衛の才能
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/24(土) 16:13
No. 7368
 
 
竹中半兵衛で有名な竹中家は、西美濃、現大野町のあたりにいた土豪の一家で、土岐・斎藤二代に仕えています。弘治二年に斎藤父子が戦ったとき、重治の父重元は齋藤道三の軍に加わったが、戦後追討されることもなく故郷に帰ったらしく、永禄のはじめには、菩提山城(垂井町)の岩手弾正を討ってその城を奪っています。

この岩手弾正も齋藤道三の家臣で、やはり弘治二年の合戦では齋藤道三方についていた。竹中半兵衛重治は天文十三年(一五四四)に生まれました。父は菩提山城にはいって間もなく亡くなったので、若くして家を継いだのです。

織田信長の鋭鋒が美濃へ向かわなかったら、たぶん一万石相当の領地を守ってそのまま老けていったことだろうが、稲葉山城の攻防戦が激しくなるうちに、のちの天下人の羽柴秀吉とのつながりができて、歴史の表舞台へ登場することになったわけです。

齋藤義竜が亡くなったのち、織田信長は稲葉山城へしばしば攻撃をかけるのですが、どうしてもこの天然の要塞に拠る名城を落とせなかったのです。当主は少年だったのですが、美濃衆が結束して頑強な抵抗ぶりを示したのです。この事実の中へ、のちに戦術家として傑出した才能を見せた竹中半兵衛重治の名がすべりこんでいくことになるのです。

永禄四年の夏、稲葉山城へ迫った織田信長の軍は、重治の十面埋伏の陣に誘いこまれて、あやうく総崩れになろうとした。このとき、後陣に控えていた木下藤吉郎秀吉が命令一下、足軽たちに旗をふらせると、暮靄にしずむ金華山の峰つづきに、点々と松明が点りはじめた。

城を空にして出撃していた斎藤勢は、すわや謀られたと浮き足立って、せっかくの包囲を解いて引き揚げてしまったので、織田信長はようやく危地を脱することができたのです。たいそうおもしろい話ですが、出典は『絵本太閤記』です。まじめに取り上げることはできないけれども、竹中半兵衛伝説の典型的な一例として興味深いです。

永禄四年というと、竹中半兵衛重治は十八歳。竜興の周囲には道三以来の重臣たちが幾人もいます。どちらかというと馬鹿にされていた西美濃の土豪の小件が、大事な決戦の采配を振らせてもらえるわけはない。それが、江戸時代の後半期寛政ごろともなると、竹中半兵衛重治が出なければ面白くないということになるのです。

民衆は傑出した英雄に拍手を送るが、無条件にのさばらせることもしないです。彼を抜け、あるいは一矢を酬いる小英雄を見つけ出して、それにも声援を惜しまない。むしろ人気は、そうした小英雄のほうに集まるのです。

竹中重治は半兵衛伝説を生むに足る条件をそなえていました。氏素性と縁のない小城のあるじであり、すぐれた軍師として豊臣秀吉の大業を助け、しかも三十六歳という惜しむべき若さで死んでいます。戦陣にあっては神のごとき明察ぶりで敵将の心理を読んだが、平常は婦人のような柔和な物腰だったといいます。

わずか十数人で稲葉山城を陥す、この重治を、もし竜興が重用していたら、また、竹中半兵衛重治がもし三十六歳という若さで陣歿しなかったらとそうした「もしも」という仮定の上にあれこれと想像を働かせたくなるだけの魅力が、重治にはあるのです。それが竹中半兵衛伝説を産み出したのです。重治は竜興に仕えたが、冷遇されていました。

年が若いうえに、顔立ちがととのいすぎていて、一見いかにも女々しく見えたのだろう。風采が戦国むきのタイプではなかったのです。ふだん竜興が馬鹿にしているので、家臣たちも竹中半兵衛重治を軽んじていました。稲葉山城へ出仕したとき、下を通る竹中半兵衛重治を目がけて、櫓の上から小便をひっかけた者がありました。

重治は自若として汚れをおし拭って自分の城へ帰ったが、北方城主の安藤守就を訪ねて、いきなり兵を少々貸してくださいと頼んだのです。守就の娘は重治に嫁いでいます。おとなしい婿の唐突な言葉に守就が驚いて問いただすと、「いささか恨みに思うことがあるので、稲葉山城を陥そうと思います」という。 守就は肝をつぶして、懇々とその無謀を諭した。

竹中半兵衛重治は「そうですか」といって、来たときと同じように静かに帰っていったが、それから2,3日たつと、城内に人質としてはいっている弟の病気見舞いだと称して、七、八人の家臣に大きな長持を運びこませ、自身も十人ばかり引き連れて登城をしました。

長持には武具がはいっていました。夜半、武装をととのえた重治は、みずから夜番の将を斬り、家臣たちを指揮して、あっという間に城の要所要所を抑えました。城の内で合図の鐘を鳴らすと、ひそかに集結していた竹中半兵衛重治の手勢が城内へ雪崩れこみました。竜興は城内の混乱を鎮めることができず、城を捨てて祐向山城へ逃げこんだのです。

こうして天下の堅城はまことあっけなく落城してしまったのです。稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長が、この事件を見のがすはずはない。すぐに重治のもとへ、稲葉山城を引き渡せば美濃半国を与えようと取引きを申し出ました。

しかし竹中半兵衛重治は、「城を陥したのは、お屋形(竜興)に反省してもらうためで、隣国に売るためではない」といって断わり、やがて竜興に城を返して菩提山へ引き揚げてしまったのです。

これは伝説ではなくて史実なのですが、織田信長さえ手こずった城をわずか十数人で占領するというのも痛快だし、そのあと何の未練もなく、引き揚げてしまうというのも爽かです。人は、「やった」と思い、「さすが」と感心します。竹中半兵衛重治の人気は、こういうところから生まれるのです。

 





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野村乙二朗先生にインタビュー
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/22(木) 08:19
No. 7367
 
  野村乙二朗先生にインタビュー

「行幸された天皇に会えず残念」
「危険な時は日記はつけなかった」  

会員の皆様、お元気ですか。ウクライナ、パレスチナ戦争が続きますと、石原将軍最終戦争論が思い出されます。石原全集七巻の中で〈昭和二十年十二月鶴岡市常磐館で四日間に亘って開かれた「昭和維新論講習会」〉将軍は「今まで私達は最終戦争兵器は電子爆弾であり、世界一周の飛行機と考えて来ましたが、これはまずかった。原子破壊力か何かで正確な方向を以て間違いなくニューヨークやロンドンに原子爆弾をあてて呉れるだけの電波兵器でなければなりません。マッカーサーがいくら研究機械を破壊したから(注、二科研究所の爆弾研究の機会三台を壊して東京湾に沈めた)といって、その辺は心配ありません」(三百四十八頁)とあるのを読み直し、ふと九十四歳になられて、昨年和子夫人を亡くされた野村乙二朗先生に会いたくなり、厚木市の野村さんへ、インタビューとなりました。

会見場所は愛甲石田駅構内の喫茶店です。写真でお分かりと思いますが、大変元気です。十二時二十八分発のバスで帰えられる一時間十分程時間を頂き、インタビューしました。毒舌を混じえたお話を、以下に対談式で公開します。

◆行幸した天皇に会いたかったか。
早瀬:現在取り組んでおられますテーマは何ですか。
野村:太平洋戦争です。石原莞爾の最終戦争です。死ぬ迄に完成させます。ウクライナ、パレスチナ戦が続くと気になってしょうがないです。
早瀬:実は石原さんの昭和20年12月の講演速記録に「電波兵器がある」と予言されています。ウクライナ、パレスチナ戦争はミサイル戦とドローン兵器の戦いになっていますが七十九年前の石原さんの予言通りになった感じがします。ついには北朝鮮の弾道ミサイルも出て来ました。
野村:石原さんはすごく予見能力のある人だった。少しハッタリもあったと思うが、そういう知見を持っていた。電波兵器とありますが、原爆を併用した電波兵器のことですね。予見能力ですよ。
早瀬:今日は石原さんの件で二つ教えて頂きたいのですが。一つは昭和二十三年天皇が行幸され、酒田の吹浦駅を通り秋田に向かわれますが、石原さんが吹浦駅に近い西山農場にいるのを承知の上で立ち寄られたんでしょうか、あの時、なぜ武田さんのみが行かれて、石原さんが行かれなかったのか。なぜなんですかね。
野村:武田さんとしては、石原さんは病床で寝ている訳ですから、連れて行くにも動力が要りますからね。武田さんは自分でリヤカーを曳くだけの力はないから。武田さんは天皇に対しては反感を持っていたはずです。天皇が石原を神にした。ということで頭にきている。武田さんは、石原さんを天皇の所に行かせるとは考えていなかったんですよ。帰って来て石原さんに報告したら、石原さんは膝を震わせていたそうです。石原さんは残念だったんでしょうね。私には、天皇と石原さんの関係というのはよく分からない所があるんだすよね。知見がある鷹揚な天皇にあれだけ石原さんは服従しているのに。
早瀬:満州事変、第二次上海事変、南京事件など侍従武官長がはたして天皇へ正確に伝えていたか、というと疑問ですね。二、二六事件の時は、天皇の決定を叛乱兵たちに伝えて即鎮圧に出ます。
野村:石原さんはあくまでも作戦参謀として、将校たちを理解していた。だが途中天皇の勅語が出ると天皇の命令によって鎮圧にかわっていく。変わり身が速すぎて、他の人は皆んなついて行けなかった。軍の作戦参謀とはそんなものではないですか。機転がきかないと作戦参謀はつとまりませんからね。
早瀬:侍従武官は石原さんの「昭和維新」のことを正しく話されたんでしょうか。
野村:石原さんは天皇には、昭和維新なんてことは言ってないですよ。天皇が何を考えているか、石原さんは知ってるわけですから。

◆危険な時は日記をつけなかった
早瀬:もう一点は昭和十六.七年の日記が見つからないのですが。書いていたんでしょうか。
野村:石原さんは、ちょっと危険な時は日記はつけませんよね。日記でなく手帳ですか。手帳にもつけてません。満州事変の所も途中からないでしょう。危険な時はつけないです。
早瀬:松井石根将軍は前線にいても縦書きノート一頁に多い時は三頁に亘って書き残してきます。石原さんの場合は人名しかありません。書く時間がないんですかね。
野村:そうでなく警戒しているんです。どんなに味方と思っても石原さんは心を許していません。まして東条さんには忠実ではないです。満州事変の時は基本的につけていない。殆ど分らない形でしか書いてないです。基本的に石原さんがつけている時は、安全な時です。
早瀬:そういえば舞鶴司令官、十六師団長時代は、人の出入りまで書いています。
野村:安全だからです。でも満州事変、大東亜戦の十六.七年のところは、つけてないです。その点はシビアです。石原さんは記憶力がいいですから。日記をつけることはないんです。それに石原さんは警戒心が強いですからね。
早瀬:作戦参謀は手のうちは見せられませんですからね。
野村:松井さんは前振でも残したい、伝えたいですから。石原さんには伝えたい。残したいということは全然ないです。他人に自分のことをらさらけ出すことはしないんです。自分の汚いことを知ってますから。全員を信頼していないんです。信頼する人には凄く感激するんですね。それも先生とか言って。極端です。石原さんには信用する人がいないから。信用できる人間には過大評価とまでは言いませんが、極端だと思っています。
(以上、一部分を紹介します。先生が同成社から出版された「東亜連盟の石原莞爾資料」の一読を、お勧めします)
石原莞爾平和思想研究会 副会長 早瀬利之
1940年(昭和15年)長崎県生まれ。昭和38年鹿児島大学卒業。石原莞爾研究者。著書に、『石原莞爾 満州合衆国』、『石原莞爾 満州備忘ノート』、『石原莞爾 国家改造計画』、『参謀本部作戦部長石原莞爾』、『石原莞爾 北支の戦い』、『南京戦の真実』、『サムライたちの真珠湾』、『将軍の真実・松井石根将軍の生涯』(以上、光人社および潮書房光人社)、『奇襲』(南日本新聞開発センター)、『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書)、『靖国の杜の反省会』『石原莞爾満州ふたたび』『敗戦、されど生きよ 石原莞爾最後のメッセージ』(以上、芙蓉書房出版)などがある。日本ペンクラブ会員、満州研究会会員。



石原莞爾平和思想研究会HP

 





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スリランカに救われた日本
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/19(月) 16:55
No. 7366
 
 
スリランカについて是非、知っておいてほしい話を紹介します。2022年、財政が破綻したスリランカはインド洋に浮かぶ島国で、かつては「セイロン」と呼ばれました。日本でも紅茶のセイロンティーは有名です。

NHKの報道によれば、安倍晋三元首相の「国葬」への参列のため来日したラニル・ウィクラマシンハ大統領はNHKのインタビューに応じ、今後の債務再編に向けて債権国を集めた協議を日本に主導するように求めたとか。日本の協力に期待しているのです。

そもそも、日本はスリランカには頭が上がらない過去があります。第2次世界大戦中、日本軍はインド洋まで進出しました。イギリス軍の基地があったからです。あまり知られていませんが、日本海軍はセイロン島のコロンボの港を爆撃したことがあります。

イギリスの植民地で、イギリス軍がいたからです。戦後、日本がアジアの国々に戦時賠償金を払うことになったとき、当時のセイロンはそれを辞退しました。セイロン島は被害を受けたにもかかわらず、「同じ仏教国だから」と断ったのです。

サンフランシスコ講和会議のセイロン(現スリランカ) 代表ジュニウス・ジャヤワルデネ(のちに大統領)が、対日賠償請求権の放棄と、日本の早期の国際社会復帰を訴えてくれたのです。

敗戦国になった日本の扱いについて話し合う1951年のサンフランシスコ講和会議において、参加していたジャヤワルデネ代表がブッダの言葉を引用しながら、「憎しみは憎しみによって消え去るものではない、慈悲によって消え去るものである」とスピーチして、会議の流れが変わったといいます。

日本はすっかり感激し、その後ODA(政府開発援助)でずっと支援を続けていますが、今回も日本が少しでも恩返しできるといいです。ちなみに台湾も同じ言葉を使い、対日賠償請求権を放棄しました。そのため中華人民共和国が日本と国交正常化をするとき、賠償金を請求するわけにはいかなかったという経緯があります。

 





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これからの注目国はインド
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/19(月) 16:54
No. 7365
 
 
長く人口世界一だった中国が人口減少に転じる一方、その中国を抜いて人口世界一に躍り出たのがインドです。しかもインドは高齢化とは無縁で、人口の半分が30歳未満です。これから世界で最も急成長を遂げる大国になることが見込まれています。

アジア開発銀行はインドの2023年の実質成長率を7.2%と、域内4カ国・地域で最高になると予測します。また、国際通貨基金(IMF)によれば、2022年の国内総生産(GDP)はかつての宗主国のイギリスを上回り、世界5位に浮上すると予想されています。

2027年にはドイツ・日本を抜き、アメリカ、中国に次ぐ3位になるというのです。インドは民主主義国であることを誇っていますが、ロシアのウクライナ侵攻については、欧米の対応とは一線を画しています。インドは歴史的にロシアと親密です。

インドの武器の多くはロシア製です。対ロシア制裁には慎重で、いまもロシアから安価な石油や石炭などのエネルギー輸入を増やしています。インドはアメリカ・日本・オーストラリアとともに安全保障面で協力していこうという「QUAD」(クアッド)の枠組みをつくっているのに、なぜ足並みを揃えないのか。

それは、インドは第2次世界大戦後ずっと「東側、西側、どちらの陣営にもつきません」という立場をとってきました。いわゆる「非同盟主義」なのです。1953年、インドのジャワハルラル・ネルー首相は戦争に反対し、平和維持に努力する諸国によって「第三地域の結成」を提唱し、中立を守るインド外交を説明しました。

いわばインドは第2次世界大戦後ずっと、第三世界の盟主です。いまもその姿勢を守っているに過ぎません。インドこそ、まさに「全方位外交」です。分断が進む世界で、これからインドが国際政治上の存在感を高めていくことは間違いないでしょう。

インドは東京裁判の時でも自分の立場で発言しております。インドのパール判事の発言では、「この裁判は戦勝国による復讐裁判である。欧米諸国がアジア諸国に行なった行為こそ侵略だ!事後法で裁く事は、法の審理を蹂躙する愚挙である。この裁判は国際法違反、よって全被告は無罪!」と発言しているのです。

 





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ピロリ菌には免疫力を高める
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/16(金) 05:34
No. 7364
 
 
胃潰瘍や胃がんの原因とされるピロリ菌が、1万年以上も前から人間と共生してきたことが、米ニューヨーク大学などの研究でわかりました。研究チームは、欧米人や南米先住民など200人以上の胃の中からピロリ菌を採取し、遺伝子を比べたのです。

その結果、ベネズエラの先住民が持つピロリ菌に、東アジアの人々と共通する特徴があったというのです。この先住民は、東アジアの祖先と分かれて南米へと進出したと考えられ、少なくともこの分岐時点にはピロリ菌が存在していた証明となるのです。

この菌が注目されたのは35年前のことなのだが、実は昔から人々の胃の中で暮らし、人と共に移動していた訳なのです。ピロリ菌が昔からあったとわかったことが、治療や予防法の開発に新たなヒントをもたらすだろうと期待されているのです。

ピロリ菌は、口を介して感染し、40歳以上の日本人では8割が胃の中に持っているとされています。免疫力が落ちたときに発症して胃がんに罹患するのです。免疫力をあげることはとても大切なことになります。

ちなみに、楽しくて笑える事があると思うだけで、ストレスが軽減されて免疫力が高められるという、研究結果を米カリフォルニア大学の研究チームがまとめたそうです。笑いの効用は、これまでもハッピーホルモンとして有名でしたが、楽しい予定などを想像するだけで同様の効果があることがわかったのです。

明るい気持ちでいる事が長生きの秘訣になると研究チームは話しています。研究チームは、男性に「お笑い」を見せて、「その時の体内のホルモンの状態を調べました。その結果、ストレスがある時に分泌されるホルモン(コルチゾール)の量が39%減少し、逆に免疫力を高めるとされる成長ホルモンが87%も上昇しました。

さらに、事前に「おもしろいものを見せる」と伝えていた男性では、見る前から、こうしたホルモンの変化が認められたといいます。笑いにまつわる研究では、米メリーランド大チームが、「冗談をよく言う人は心筋梗塞になりにくい」という結果を発表しています。

 





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北野たけし内閣の組閣名簿
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/16(金) 05:33
No. 7363
 
 
過去に北野たけしが、国会議員として当選した場合、総理大臣になれるように頑張り、「たけし内閣」の閣僚については、すでに構造は固まっているとたけし演説です。まず、外務大臣は石原慎太郎氏。江沢民はヒトラーだと言えるのは、石原氏をおいてほかにいません。

たけし内閣の外交方針は、「嫌いな国とは付き合わない」。これを推進するには、まさに石原氏が最適です。中国が南京大虐殺のことをごちゃごちゃ言ってきたり、アジアの国々が戦時賠償の話をぐだぐた言ってきたら、もう即、断交。ロシアが北方領土を返さないようなら、大使も企業を引き上げさせる。

だいだい日本がODAやら何やらで、どれだけ国民の税金を使っていると思っているのでしょうか。明らかにカネ目当てで言いがかりをつけてくる国が多すぎる。そんな国とは、たかられる前に断交します。

北朝鮮なんて、国交がないくせに、あれをよこせだの偉そうに難題をふっかけてくるのですから。外交も人付き合いと同じで、すべての国と仲良くする必要はない。むしろ、頼りになる、信用できそうな国と蜜に付き合っていればいいのです。ただ、石原氏の場合、「NO」と言ってアメリカとも断交しそうでちょっと心配なのですが。

大蔵大臣は、莫大な借金を抱えているわけですから、とにかくケチな人間を選びたい。候補としては、「お金を貸すから奢ってくれ」なんて私に頼んできたこともある西川のりお氏。私の家に来ると自分の靴をカバンの中にしまい、私の靴を履いて帰ろうとする、せんだ光雄氏が有力です。

しかし、スケールの大きなケチということになれば、やはり千昌夫氏しかおりません。千氏はロールスロイスを買っても、決してクーラーをつけないのです。私が乗ったとき、あまりに暑かったので窓を開けました。

すると千氏は、「ばかやろー、クーラーつけてないのがばれてしまうじゃないか」って怒り出した。汗でぐしゃぐしゃになりながらロールスロイスを運転しているのです。あれだけの借金を背負っても、まったく動じないところも素晴らしい。

国防の要たる防衛庁長官には、世界最強といわれるグレイシー一家のホイス・グレイシーを、堂々たる戦いで破った格闘家、桜庭和志氏を起用したい。桜庭氏は大観衆の中で敵をからかったり、驚くような戦法で戦うなど、実に頭がいい。大きな敵との戦い方を知っているのです。日本の防衛を任せるのにふさわしい人物だと考えます。

最も重要だと思われる文部大臣には、もう戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏しか考えられません。私の内閣が続く限りお願いしたい。国家公安委員長とか、法務大臣とかも兼務してもらいたいくらいです。(笑)

 





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政治への無関心が問題
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/14(水) 15:48
No. 7362
 
 
選挙のたびに投票率の低さが騒がれ、政治への無関心が問題になっています。「投票しましょう」と言うキャンペーンが行なわれていますが、何も変わる事はありません。政治に関心を持って頂き、国民が政治を変えるという志がなければ日本は衰退してしまいます。

有権者を鼓舞して投票率をあげているのは旧統一教会主体の自由民主党と創価学会が率いる公明党だけではないでしょうか。投票率が低いと組織票が強くなるのです。この件について最も罪が重いのは、国民自身なのです。

インボイスやマイナンバーで国民のお金の動きをわかるようにしている政治家が裏金をつくり税金は払いませんという。政治家を信頼できないのであれば棄権するべきではないと思います。我々の税金は好きなように自分のわからないところで使われています。

日本の政治は口利き政治、利益還元政治だとは言われています。そういった体質は今後も続くのでしょう。国の予算で地方を縛る仕組みが、諸悪の根源だと、私は思っています。このシステムが地方に利益誘導する政治家しか選挙に勝てないのです。

国と地方をあわせた税金の無駄使いが減りません。国会議員が地方への予算配分に影響を与えることが出来ないようにすれば利益団体が選挙する事がなくなります。そうなれば国家を真剣に考えている候補が勝ちやすくなるはずだと思うのです。

当初、国民のために改革してくれると思っていた総理大臣が、180度転回して増税しか考えない時代です。解散総選挙を主張する方もいますが、増税で固まった政党に老人が投票する中では、国民にとっては選択肢がなく、単に時間と税金を浪費するだけで、失望感を増幅するだけです。

族議員として地元や業界のために予算の分捕りに汗を流し、国益をないがしろにして、自分の票と金のために、利権を貪り、税金を無駄にしています。改革に逆行し阻止するのが宿命でなければ票と金を獲得できないのも確かなことなのです。

選挙の時だけは、無党派層を取り込んで当選したいがために出来もしないことまで詐欺みたいな事を言い出す方もいます。このままでは、日本経済は借金に押し潰され、破綻してしまうのではないでしょうか。

数の力だけで法案を通す永田町のやり方を変革しない限り、政治をよくなる道がないのでは。変革のためには、選挙区に、日本の未来を真剣に考える候補者が立ち、それを国民が支援するしかこの国を救う方法は無いでしょう。

他にあるならば教えて欲しいものです。この国に生きる一人一人の有権者には、自分の国の政治に対して責任があるはずです。関心がない、頭が悪いから解らないでは済まされないところまで来ているのです。

 





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七夕がターニングポイント
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/02/14(水) 15:47
No. 7361
 
 
昭和12年七夕の盧溝橋事件は、蒋介石にとって驚く出来事が起こりました。まさか、日中の全面戦争に発展するとは思っても見なかったことです。日中戦争への拡大は、当時の日本政府も、蒋介石も、望んでいなかったのです。

日本も不拡大方針を決め、和平交渉の道を模索していたのです。蒋介石は、共産党を倒して国内を安定させるのが、原則方針だったので、対日戦争は避けたかったのです。当時の中国軍は約5百万人、蒋介石の直系軍は2百万人で、数では日本軍の7倍です。

だが、それでも正面から対決できる力量ではなかったのです。日本軍で訓練を受けた軍人蒋介石は誰よりもそれを知っていて、実際、戦争突入後、蒋介石の国民党軍の弱さは嫌というほど証明されています。

共産党や、張学良らの軍閥が裏工作しているので、蒋介石が先に日本軍と戦うことは、共産党が息を吹き返す恐れがあるのです。延安で辛うじて生き延びていた共産党にとって、「抗日」は唯一の活路でした。

共産党がそう言わないと、まず自分たちが蒋介石率いる国民党の餌食になってしまうからです。共産党を先に討滅しては蒋介石の絶対的権力が固まることを恐れていたのです。そこで共産党は蒋介石を抗日に追いつめたのです。

この時、七夕がターニングポイントで、現在の日本国と中国の運命を変えた出来事と言っても過言ではありません。この七夕の出来事では、様々なドラマがあったのです。七夕に位置づけられた共産党軍は天下の戦局を握るキャスティングボード的な存在だったのです。

この時の共産党軍はたいしたことはなかったのですが、この瞬間では、日本軍、国民党などの大物を手玉にとっていたのです。歴史には、しばしばこのような運命的なシチュエーションが訪れて、実力以上にさせる瞬間があるのです。

あらゆる時の中で、運命はいかにも奇妙な気まぐれから、行き当たりばったり、いかにも平凡な人間に身をまかせる事が往々にしてあります。そしてこれは世界歴史のもっとも驚くべき瞬間でありますが、重大な運命を左右する糸が、一瞬だけ手に握られたのです。共産党がその機会をつかんでしまい、同時に共産党自身をも高めてしまったのです。

文明9年の七夕の歌合せで日野富子が詠った歌です。
「偽りの ある世ならずは ひとかたに たのみやせまし 人のことのは」

偽りが全くない世の中であれば、これほど人の言葉を頼みにするまでもないでしょう。
裏切りや偽りの多い世の中だからこそ、人の言葉を信じることを大切にしたいのです。

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   II  ・・・七夕
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