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平成の時代は阪神・淡路大震災に始まり、東日本大震災、そして熊本地震と続き、その間、その後も様々な災害に見舞われました。大きな震災に限ると、阪神・淡路大震災は村山政権、東日本大震災は菅政権、そして熊本地震は安倍政権が対応しました。
各政権の地震対応を、まずは「政治と官僚の関係」という観点で比較してみると、村山政権は自社さ連立によるものでしたので、政治と官僚が一体とは言えませんでした。ただ、村山さんは自分が専門家ではないとの認識があったので、人に任せることができ、その結果、国民の期待値に近い対応を取ることができました。
民主党政権の菅さんも、官僚と一体ではありませんでしたが、次々に起こる課題に対し、自ら対応しようとしました。それがリーダーシップだと思っていたのかもしれません。しかし、結果は皆様もご存知のとおりであり、国民の期待に応えることはできませんでした。
一方で、安倍政権が大きく違うのは、自公政権であり、政治と官僚が強力なタッグを組んで震災対応ができたことです。その結果、迅速な激甚災害の指定と予備費7000億円の措置に始まり、全省庁が最大限のパワーとスピードで復興に尽力してくれました。
特に、熊本県民に大きな希望を与えたのが国土交通省です。阿蘇方面へのアクセスが遮断された状態でしたが、県民の予想を大幅に上回るスピードで、俵山ルートや長陽大橋の復旧を成し遂げてくれました。また空港、港、熊本城などの創造的復興に全力で取り組んでくれています。
また、災害後のリーダーには、「復興の哲学」を示すことが求められます。村山政権のときには、神戸市が神戸港の創造的復興を政府に申し出ましたが、後藤田正晴副総理から「焼け太りは認められない」と拒否され、原状復旧以上の復興は認められませんでした。
先ほど、村山政権は人に任せたことで期待値に近い結果になったと述べましたが、復興の哲学を示したわけではありません。当時の官僚は創造的復興という哲学は持ち得ていませんので、トップがそれを示さなければ、被災地のリーダーとも共有することができないわけです。つまり、創造的復興の哲学はその当時の政府には存在しなかったと言えます。
菅政権は、社民主義的な対応をしました。それが、被災地の負担ゼロとそれに伴う増税の決断、そして復興庁の設立です。ただ、五百旗頭座長をはじめとする復興会議から創造的復興の哲学は出されましたが、それを実行する体制になっていませんでした。
結果、どちらの場合も創造的復興を根幹に据えることが出来なかったわけです。このことから、リーダーが示す哲学や、政治と行政(官僚)の関係というものは、被災地の復興に大きく影響することが分かるかと思います。
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