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  暴力団ルートの公判  仲條拓躬2023/08/09(水) 16:02 
  技術はあるのに定着しない  仲條拓躬2023/08/09(水) 05:47 
  検事に誘導された結果  仲條拓躬2023/08/09(水) 05:44 
  政治家と企業の癒着  仲條拓躬2023/08/09(水) 05:42 
  検察が威信を取り戻す  仲條拓躬2023/08/07(月) 16:05 
  加藤紘一先生の脱税容疑  仲條拓躬2023/08/07(月) 16:04 
  イギリスの伝統的外交政策  仲條拓躬2023/08/07(月) 16:03 
  平和主義者は国を亡ぼす  仲條拓躬2023/08/07(月) 16:02 
  内地への退却について  仲條拓躬2023/08/07(月) 16:01 
  日本の福祉元年  仲條拓躬2023/08/07(月) 15:59 






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暴力団ルートの公判
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/09(水) 16:02
No. 7180
 
 
東京佐川急便事件で検察の威信が、真の意味で問われたのは、暴力団ルートの公判で、政治家の実名が記載された参考人調書を朗読したことでした。概要を説明すると、1992年11月5日、暴力団ルートの第四回公判で、検察側は右翼団体「日本皇民党」総裁の大島竜aの供述調書を全面朗読しました。

この中で、1987年、竹下登内閣が誕生した際、皇民党によってくり広げられた竹下に対する“ほめ殺し攻撃≠阻止するため、自民党前副総裁の金丸信や政調会長の森喜朗ら七人の政治家が活動を中止するよう工作、その解決金として金丸は三十億円を、森は二十億円を提示したことを明らかにしたのです。

法廷で、参考人調書が政治家の実名入りで朗読されるのは、きわめて異例のことでした。ニュースはまたたく間に政界を駆けめぐり、政権発足一周年を迎えた宮沢政権に大きな衝撃を与えました。調書で名指しされた自民党の政治家は敏感に反応し、同時にその狼狽ぶりもひどかった。その様子を、1992年11月6日付朝日新聞はこう伝えています。

「調書で名前の挙がった自民党の梶山静六国会対策委員長は、国会内での否定会見のあと、記者団に『個人の名誉が大事だ。ほかのものは吹っ飛んでもかまわない』。(中略) 野党から早速、山下八洲夫(社会)、 不破哲三 (共産)、大内啓伍(民社)の各氏が質問したが、首相は準備不足もあってか、山下、不破両氏への答弁では、この件をほとんど無視しました。

三人目の大内氏になってようやく答弁をしましたが、それも『公判中であり、政府としてコメントすべきでない』。(中略) 渡辺広康被告らとの会合に同席していたとされた渡辺秀央郵政相は、国会内で質問を浴びせる記者団にむすっとした表情で黙ったまま。

『答えられないのは、やましいことを話したからか』と聞かれ、「失礼なことを言うな」と記者団をにらみつけた。寝耳に水の出来事に動揺を隠せない自民党に比べ、野党は勢いづいた。同紙はこう報じています。

「調書の内容が野党側に飛び込んで来たのは、衆院での代表質問二日目が始まる直前だった。社会党は北村哲男参院議員ら弁護士出身の若手議員三人が、佐川疑惑追及の手掛かりをつかむため裁判を傍聴していた。調書が読み上げられるや、北村氏があわてて国会に駆け戻って、山花貞夫書記長に報告。」

「公明党控室では、市川雄一書記長が通信社のファックスを大声で読み上げ、『皇民党事件で、金丸信氏三十億円、森喜朗氏二十億円で攻撃中止を要請』。開会のベルを待つ代議億円どころの話じゃないぞ』とどよめきが起きました。

記者会見に臨んだ各党は、一様に政府・自民党批判のボルテージを上げた。竹下政権の誕生に暴力団が関与した点は、予算委員会での追及の焦点と見てきただけに、『衝撃的な事実だ。ロッキード、リクルート事件をはるかに超える。真相究明は新たな段階に入った』と山花氏」

検察側が朗読した一通の供述調書は、国会での自民党野党の対決に油を注ぎ、予算委員会での恰好の追及の材料になったばかりか、さらに波紋を広げ、自民党15検察庁という構図に発展するのにさして時間はかからなかったのです。

 





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技術はあるのに定着しない
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/09(水) 05:47
No. 7179
 
 
今や世界的には4分の1のシェアを占める自然エネルギーです。日本では技術はあっても一向に普及しないのはなぜか? 太陽光も風力も、電力会社と経産省が「取り組んだフリ」をし、結局は潰しにかかっているという現実があります。

ポテンシャルがあるのに普及しない原発の安全神話が崩壊した今でさえ、なぜ「それでも原発に頼らざるを得ない」と思っている人が、かくも多いのでしょうか。理由はいろいろ考えられますが、原子力に替わるエネルギーは何か、ということが実感を持って想像できないという問題が大きいと言えるでしょう。

その引き受け手は、地球温暖化や持続可能性を考えると、もはや自然エネルギー(再生可能エネルギー)のほかにありません。あらゆる電源による世界の容量のうち、自然エネルギー由来の電力容量は4分の1を占め、2009年には世界の電気の18%を供給しました (水力含む)。これは、原子力を上回る数字です。

特にドイツや北欧では「第4の革命」と言われるほど自然エネルギーが普及しており、そのため皆が「これで供給は満たせる」ということを実感しているからです。しかし日本では、自然エネルギーによる電力供給は水力が8%、そのほかは1%しかありません。

電力会社と国が自然エネルギーを普及させまいとあらゆる手を尽くし、こうした無残な状態へと追い込んできたために、「普及している未来」が想像できないのです。実際には、日本には太陽光発電、風力発電を導入できる余地が十分にあります。

2011年春に発表された環境省の「再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査」によると、住宅の屋根を除いた太陽光発電のポテンシャルは約1億5000万kWとされています。住宅の屋根を加えた試算では、およそ2億kWの潜在量が見込まれています。

風力発電に至っては、陸上で2億8000万kW、洋上で16億kWという途轍もなく大きな導入可能性があることがわかっています。つまり、あとはそれをいかに実現するかが問題なわけですが、そのために乗り越えなければならない壁はひとつやふたつではありません。全量買取制度を徹底すれば自然エネルギーは定着するのです。

まず必要なのは、自然エネルギーを原発に代わるベース電力として育てるために、普及を促すことです。そこで大前提となるのが、「全量買取制度(フィード・イン・タリフ)」です。全量買取制度とは、風力や太陽光などの発電事業者から電気を決まった価格で一定期間、すべて買い取ることを電力会社に義務づけ、自然エネルギーが産業としてテイクオフするのを助ける仕組みです。

日本では奇しくも、東日本大震災の当日に当たる3月11日の午前、全量買取法案 (電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案)が閣議決定され、国会に上程されました。これが与野党合意の下で成立するのは、エネルギー政策の抜本的な転換のためにきわめて重要なことです。

ただし、自然エネルギーの本格的な普及のためには、この法案の微修正と政省令レベルでの制度の抜本的な改善が不可欠です。政府案では、制度のスタートを目指す来年度の買い取り価格について、住宅用の太陽光発電の場合は1kWh当たり300円台後半、太陽光発電以外の自然エネルギーの場合、一律20円近くの水準とする方針でした。

しかし、ひとくくりに自然エネルギーと言っても、それぞれの特徴は大きく異なります。太陽光や風力発電は初期投資が大きく、ランニングコストが小さくなりますが、バイオマスはまったく逆です。

開発期間にしても同様で、太陽光や風力、バイオマスは比較的短くてすむのに対し、地熱発電は長い時間を要します。そのうえ、地域・自然の条件によっても発電量がだいぶ違ってきます。

そうした特徴の大きく異なるものを、同じ価格で競わせるのはまったくナンセンスです。 普及を目的とするならば、自然エネルギーの種類・規模・地域の実情を踏まえたうえで、それぞれ一定の利回り (15〜20年で6〜8%程度)を見込めるよう、コストに基づいた価格を設定すべきなのです。

ISEPでは、自然エネルギーの普及を進めるため最低限の買取価格および買取期間についてのように提言しています。これは何も、自然エネルギーを特別扱いしろと言っているのではありません。全量買取制度で普及を促す目的は、「技術学習効果」にあります。

スマートフォン、携帯電話、パソコン、液晶テレビなどと同じように、普及に従って性能が上がり、コストが下がる効果が生まれれば、自然エネルギーは経済性においても、既存の電源と互角以上の競争力を持つことになるのです。

 





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検事に誘導された結果
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/09(水) 05:44
No. 7178
 
 
田中角栄のロッキード事件ですが、ロッキード社から丸紅を経由して田中角栄に現金五億円が渡った時期の問題ですが、全日空がロッキード社のトライスター導入を決めた翌日の1972年10月29日午後10時過ぎ、大久保は電話でコーチャンに日本円で1億2千万円用意するように伝えています。

これは全日空社長、若狭得治への9千万円、自民党幹事長、橋本登美三郎への7百万円、内閣官房長官、二階堂進への7百万円、運輸相、佐々木秀世への4百万円、自民党航空対策特別委員長、福永一臣への4百万円、前運輸政務次官、佐藤孝行への4百万円、運輸政務次官、加藤六月への4百万円で、早々に支払われたとされています。

さらにロッキード社は、全日空がトライスター導入を決定する前後、同社の秘密代理人だった児玉誉士夫に計10億3千5百万円を支払っています。ところが、 田中角栄に約束の現金が支払われたのは、検察側によると全日空がロッキード社のトライスター導入を決めてから10カ月も過ぎてからです。

この点について、 弁護人だった小野正典にふたたび意見を聞いた方によれば、小野は言下に「検察の言うように、もし丸紅の社長が総理と直々に面会して依頼をしたとするなら、機種の選定が決まった段階で、すぐにお礼の電話ぐらい入れるでしょう。ところが、それもしていない。五億円支払いの件だって、もし本当に請託と約束をしているのなら、相手は一国の総理ですよ。すぐに支払うでしょう」と疑問を上げています。

検察側は冒頭陳述などで、約束が履行されるまでの経緯を次のように説明しています。全日空がトライスター購入を決めて8カ月後の1973年6月、榎本は檜山らが田中角栄に約束した5億円について丸紅側から連絡がなかったため、伊藤に電話をして「いったい例のロッキードのものは、どうなっているのか」と催促。

伊藤はすぐに檜山と大久保に報告し、伊藤に指示された大久保がすぐにコーチャンに電話をして、「ロッキード社が5億円を出さない場合、ロッキード社はその製品を日本においてこれ以上決して売ることができないと知ってもらいたいと、檜山が言っている」と支払いを強く要求した。

コーチャンは支払いに難色を示したが、7月初め、大久保に田中角栄に5億円を支払うと電話をかけ、これでロッキード社から丸紅を通じて田中に5億円が支払われることになった。請託の場合と同じように、この約束の履行についても検察のストーリーを支えているのは、榎本から催促の電話があったとする伊藤の調書だけなのです。

伊藤の1976年8月5日付調書。伊藤はこう供述しています。「この五億円の件に関して、次に榎本秘書と私が連絡を取ったのは、昭和48年(1973年) 5、6月だったと記憶しています。会社にいた私に榎本秘書から電話がありました。 榎本秘書は『いったい例のロッキードのものは、どうなっているのでしょうか、いつごろになるのでしょうかね』と私に聞きました。確かに47年(1972年)10月30日にトライスターに決定後、半年以上過ぎておりましたから、例の5億円を催促しているのだなと私は感じました」

ところが、この伊藤も公判では、調書は検事の誘導だったと証言しているのです。第94回公判 (1980年2月20日) での検察側と伊藤とのやりとりを見る。

検事「あなたの供述調書では、あなたの言われた、その金の受け渡しがなぜ遅くなったのかについては、どうもはっきりした記憶がでませんということをまず述べたうえで、次に私の記憶に残っているのはということで、榎本さんの電話の催促のことを供述しているんですが、そういう経過じゃございませんか」

伊藤「なぜ遅れたか 『記憶に残っていない』という表現になっていますが、そんなことは私はぜんぜんわからなかったわけでございますので、わかりませんと申し上げました」

検事「榎本さんの電話の内容は、どういう内容だったのですか」

伊藤「なんか、お電話をいただいたようなことがありますなということから、それはやっぱり催促のお電話じゃなかったのか、というふうに、だんだん固まっていったような感じがします。その辺からもう、その後の調書にあるのと同じ調子で、催促電話だと決めつけられてしまいました」
つまり、検事に誘導された結果の調書だということではないでしょうか。

 





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政治家と企業の癒着
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/09(水) 05:42
No. 7177
 
 
佐川急便事件では、渡邉と政治家との関係について、元佐川急便役員は、詳細に証言しています。小針調書とは若干の齟齬はあるものの、大筋はこうでした。元役員によると、渡邉が政治家とのパイプを持ったのは小針の仲介で、小針が最初に紹介したのは元外相の安倍晋太郎でした。

安倍の死去後は、三塚博と親しくなり、三塚のパーティー券を購入するなど付き合いを深めていきました。また三塚個人だけではなく、三塚に頼まれて安倍派議員のパーティー券も購入したといいます。

この元役員は「最初、小針さんが資金繰りに、困っていたので東京佐川で面倒を見たのがきっかけ。 三塚さんは、安倍さんが亡くなった後、派閥を引き継ごうとして派閥議員のパーティー券を買ってくれと頼んできた。一回につき一千万円から二千万円ぐらい買ったと思う。総額で十億円ぐらいは使ったのでは。この結果、三塚派ができた」と証言しました。

また、この元役員によると、渡邉と元首相・竹下登の縁ができたのは、安倍派に属していた元衆院議員の故中尾宏の紹介。竹下と縁戚関係にあった小針が保証した形で付き合いが始まり、中尾の仲介で、竹下からもパーティー券を購入したという。この中尾はその後、落選し、雑誌を発行していましたが、その資金も渡邉が援助したといいます。

また、元参院議員、アントニオ猪木との関係についても、こう説明しました。「猪木の主宰した新日本プロレスは最初、テレビ朝日が応援していたが、手を引いたため、佐川会長を通して東京佐川に再建依頼が来た。興行についても、一回三千万円分の切符を買ってやって、それをあちこちに配った。沖縄のアントン牧場では十数億、そのほか、離婚のときの慰謝料や参院選挙の費用・・・・・など、公私の区別なく、全部の面倒を見た。すべて経理上は貸付金として処理をした」

渡邉と政治家との付き合いについて、特別背任罪に問われた平和堂グループの代表の松沢泰生は朝日新聞の取材に次のように答えています。松沢は渡邉の社外秘書とも呼ばれ、渡邉の政界工作資金を捻出する財布ともいわれていた人物です。

「渡辺前社長のところに金をもらいに来ていた政治家は130人ぐらいいる。大口の政治家には一人数十億円、献金総額は数百億円にのぼるのではないか」

「渡辺前社長が渡した額は、最低一回五千万円から一億円。(政界汚職に発展した) リクルートのことがあるから、直接本人に渡した。秘書にも渡さない、政治家は東京佐川の会社まで受け取りに来ていた。 渡辺前社長は、行動記録を含め政界関係の資料は全部捨てたはずだ」

「有力議員のために他派閥の議員を集めて囲む会のようなものを主催していた。20人ぐらい決まったメンバーがいた。お土産で出席者に金を渡していた。場所は料亭だ。同席したことはないが、渡辺前社長が行く日は知っていた」

「私の目の前で、電話一本で大臣を決めたことがある。自民党のボスに頼んだ。渡辺前社長はこれまでに何人か大臣を決めている」(いずれも1992年2月15日付朝刊)

 





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検察が威信を取り戻す
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 16:05
No. 7176
 
 
東京佐川急便事件で、特捜部の捜査能力の低下が厳しく指摘されたことで、法務・検察当局は1992年暮れから、「特捜検察」の威信回復をめざし、再編成の方向で検討を行っています。

それが功を奏したのか、 翌1993年3月6日、特捜部は、前自民党副総裁の金丸信が無記名の割引金融債を購入するなどの方法で、収入を簿外資産として隠し、1987年と1989年度分の所得合計約7億5千万円を隠蔽、所得税約4億円を脱税していたことを突きとめ、金丸と元公設第一秘書の生原正久を所得税法違反容疑で逮捕に踏み切ったのです。

国会議員が在職中の収入をめぐり脱税容疑で摘発されたのは、1990年12月、元環境庁長官の稲村利幸が株の売買益約28億円を隠し、約17億円を脱税したとして在宅起訴されて以来のことでした。

元副総裁の逮捕は、検察当局の予想どおり大きな反響を呼びました。外国メディアの日本特派員もこのトップ級のニュースに飛びつき、ロイター通信は「日本政治の実力者、金丸信と生原正久元秘書が所得税法違反容疑で逮捕されたと日本のテレビ局などが報じている」と、東京発の至急電で伝えたほか、AFP電やAP電も相次いで金丸の逮捕を伝えました。

金丸が以前所属していた自民党旧竹下派にも激震が走りました。旧竹下派の狼狽ぶりを当時の朝日新聞(1993年3月7日付)はこう伝えています。「自宅のテレビで知ったという小渕派の小渕恵三会長は「ただただ、驚いている。政局への影響については考えも及ばない」。竹下登元首相は秘書を通じて「コメントを控えたい」と、沈黙を守りました。

羽田派の小沢一郎氏は、夜九時過ぎに帰宅後、ニュースを伝えるテレビに見入った。堅急事態に派の幹部が集まる話もあったが、「いまは激震のただ中」(幹部)という判断から、この夜はひとまず見合わせることにしたといいます。

他派閥では、三塚派会長の三塚博政調会長が「政治への信頼を取り戻すしかない。今はそれしかいえない」、渡辺派の佐藤孝行総務会長が「突然だった。政局にどう影響するかわからない」と語りました。

わずか半年前、厳しい世論の反発に遭い、政治家たちからの告訴騒ぎに、完膚なきまでに叩かれた特捜検察の見事なまでの威信回復でした。逮捕翌日、「金丸前副総裁を逮捕」の大見出しが踊る新聞を手に取り「涙がこぼれてしまった。これで検察の威信を取り戻せた」と話した検察幹部が仲間たちに語っています。

 





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加藤紘一先生の脱税容疑
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 16:04
No. 7175
 
 
石原莞爾平和思想研究会で講演などを行っていた元自民党幹事長の加藤紘一先生が、自分の資金管理団体から毎月送金を受け、自宅マンションの賃料や生活費に充てていた問題に関して、一部の新聞が、流用した9千万円が個人所得にあたるとして、特捜部が加藤本人を所得税法違反(脱税)容疑で立件する方向で捜査を進めているという内容の記事が報じられました。

この報道のあと、加藤紘一先生は「マンションの家賃については、自宅兼事務所で政治活動の拠点。 資金は政治活動費だった」と主張しましたが、世論は「加藤、脱税」の流れに乗り、 加藤紘一先生を糾弾しました。結果、加藤紘一は議員辞職に追い込まれました。

一方、特捜部は、新聞が報じた約2ヵ月後、「衣服や飲食費などは政治活動に必要だったとの見方もでき、一部に公私の区別がつきにくい支出があった」「申告漏れの所得が一般的な告発基準である一億円に達しなかった」「悪質な隠蔽工作はない」「脱税の意識が乏しい」などを理由に立件しないことを明らかにしました。

結局、加藤紘一先生は仙台国税局の税務調査を受け、8千万円の申告漏れを指摘されて修正申告。追徴課税額は、過少申告加算税と延滞税を除いた約3千22万円となりましたが、この一連の騒動について、ある検察幹部はこう言って顔を曇らせています。

「特捜部が立件の方向という」 新聞報道を見て、われわれ幹部はみんな驚いた。それまで、加藤さんを脱税で立件するなどという話は出ていなかったからだ。どうして脱税になるのか。事務所と兼用していたわけだから、どこで「私」とを区別するのか。修正申告はせざるを得ないが、国税も脱税で告発する気持ちなどまったくなかったのです。

あの報道は、一部の特捜幹部が、マスコミを使い、世論をあおるためにリークしたとしか考えられない。世論をあおり、追い風にすることで、加藤さんを潰そうとした可能性は否定できないと語っています。また、加藤紘一先生の事務所は原因不明の火災で全焼してしまいました。このように石原莞爾平和思想研究会の同志が消えていくのは悲しいことです。

 





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イギリスの伝統的外交政策
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 16:03
No. 7174
 
 
第一次世界大戦の原因論やその前史に関しては、現在までに膨大な量の研究史の積み重ねがありますが、そうした中で特に多くの刺激を受けたのがポール・シュレーダーの論文です。彼によれば、1914年にヨーロッパの平和・安定を維持していたシステムを崩壊させたのはオーストリアとハンガリーでした。

そしてオーストリアをシステム安定勢力から破壊勢力へと変えさせた要因について、第一にオーストリア自体の国内的衰退、第二にドイツの世界強国になるための政策、そして第三にヨーロッパ・システムを維持する勢力としてのイギリスの政策、の三点をあげています。この第三の要因は大変ユニークな指摘です。

シュレーダーによれば、イギリスはオーストリアがもつヨーロッパにおける真の機能とオーストリアのイギリスにとっての有用性とを理解しなかったのです。それ故に、「イギリスは、フランスと協力してその影響力を行使できたにもかかわらず、何もしなかった。」

「つまり、バルカンのバランス・オブ・パワーを維持し、またオーストリアやロシアやバルカン諸国を抑制することによって、オーストリアの存続を助けることを通じて1914年の危機を救えるはずであったが、何もしなかった。」のです。

こうして彼は、イギリスの責任を指摘します。なぜなら、1914年にオーストリアは、武力によって自らの崩壊に抵抗することを決定したからです。とは言え、シュレーダー自身もなにもイギリスだけを糾弾するわけではないのです。

「根本的な問題は、すべての国が、オーストリアの崩壊がヨーロッパ・システムにとって脅威となることを認識したにもかかわらず、誰もそのことに対して何もしなかった。」ことなのです。

本書の中でも指摘しているのが、イギリスの第一次世界大戦への参戦は不承の参戦であったし、さらに8月3日の参戦決定も閣内で充分に議論された上での決定とは言い難いものでした。同じ日にグレイ外相が下院で述べたのは。

「もしイギリスが、自国の通商・国土・利益を守るために戦争に参入するのなら、イギリスは傍観する時よりもほんの僅かの損失を受けるだけである。」というグレイ自身の認識の甘さが、そのまま大戦勃発10〜15年前のイギリスのヨーロッパ国際関係に対する認識そのものであったと言ってよいでしょう。

そして重要なことは、このイギリスのヨーロッパ国際関係に対する認識の甘さと、先のシュレーダーの見解が明らかにすることの両者が、同一の延長線上にあるということです。つまりイギリスのバルカン問題に対する無関心と誤った認識とが、ヨーロッパ国際関係の悪化に多大な影響を及ぼすことになったのです。

本書も基本的にはこの考え方の上に立ち、第一次大戦前のイギリス外交政策の再考察を試みています。本書のいまひとつの試みは、ドイツとの関係の考察です。第一次世界大戦はヨーロッパ大陸内においては、イギリス・フランス・ロシアの三国協商に対してドイツを中心とする三国同盟との対立として一般的には理解されています。

そしてこの対立は、19世紀末〜20世紀初頭にかけてイギリスの外交政策が、《ドイツとの同盟交渉(1898〜1901年)→その失敗→フランス・ロシアとの接近→三国協商の成立→三国協商対ドイツの対立→第一次大戦の勃発》と直線的に解釈される事によって、ドイツとの同盟交渉の失敗があたかも大戦勃発の大きな要因として強調される事なりました。

しかしながら、イギリスにとってドイツとの同盟交渉の失敗だとか、あるいはそもそもドイツにその意志がなかったといった問題は、実は第一次大戦の原因の考察に関してはあまり重要ではないでしょう。第一次大戦に至るイギリスとドイツの対立は、むしろイギリス自身の問題に起因しています。

イギリスはこの時期に「帝国の防衛」という目的のためにロシアやフランスとの和解を必要としました。そして両国との和解を維持するために、イギリスは結果的にドイツと対立してしまったのです。

つまりイギリスは、ドイツの脅威に直面して、ロシアやフランスと和解し協商を結んだのではなく、ロシア・フランスとの和解の結果、ドイツと対立してしまったのです。イギリスにとって、ドイツとの対立はしたがってフランス・ロシアとの和解の代償なのでした。

そしてイギリスのこうしたロシアやフランスと和解を求める外交政策は、19世紀から継続するものでした。イギリスはこの世紀転換期に、ヨーロッパ大陸諸国との何らかの理解をつねに模索していました。その際のキーワードは「帝国の防衛」でした。

この目的のためにイギリスは、平和時の同盟を拒否し、将来の戦争へのコミットメントを回避してきました。そしてイギリスの歴代内閣で慎重に考慮されたこの政策が、後の時代に「孤立政策」と呼ばれることになったのです。

つまりこの時期に、そもそも孤立政策など存在しなかったのです。そして継続性の強調は、「孤立政策」そのものの実体性を否定することでもありました。したがって、この時期をもって特に「孤立政策」から「同盟協商体制」へとイギリスの外交政策が転換をしたとみなす見解は、否定されるのです。

「日英同盟」協約交渉におけるイギリスの外交政策の考察ですが、1902年の「日英同盟」協約を、「反ロシアではない協定」と定義しています。外務省文書や内閣文書に基づいた1960年代以降の諸研究が、ソールズベリが単なる頑固な孤立主義者ではなかったことを明らかにしたが、彼は1890年代を通じて、ロシアとフランスとの協調の機会をつねに窺っていたのです。

1902年1月末に成立するこの協約においても、ソールズベリ内閣は、日本との交渉に先がけてロシアと交渉を行っていました。結果的にはロシアとの交渉が失敗したことをうけて、内閣は本格的な日本との交渉に入ったのです。

しかしこのことは、イギリスが東アジアにおいてロシアと敵対することを意味するものではなかったのです。イギリスにはその意思はなかったのです。日本との同盟交渉は、決して「反ロシア」ではなく、「反ロシアではない協定」の模索の結果なのでした。

日本との交渉よりも優先されたロシアとの直接交渉も、また日本との「反ロシアではない協定」の交渉もともに、1898年1月にソールズベリによって始まる東アジアに関する一連の交渉の中に位置づけられますが、「スコット=ムラヴィヨフ協定」(1899年4月)にみられるように、ロシアとの何らかの相互理解を求めた結果でした。それが、19世紀末のイギリスの伝統的外交政策だったからです。

 





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平和主義者は国を亡ぼす
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 16:02
No. 7173
 
 
地中海のど真ん中、北アフリカの一角(現在のチュニス近辺)に位置するカルタゴは、地中海の覇権大国として君臨していました。もともとはフェニキア人の植民都市で、地中海貿易で富を築いた商人国家です。これと対峙したのが新興の軍人国家ローマです。

まずシチリア島の覇権をめぐって両国は争い、コルプスなる新兵器を装備したローマ海軍が勝利します。これが第一次ポエニ戦争、紀元前264年のことです。以来、カルタゴがローマ軍によって地上から抹殺されるまで、百年余にわたって死闘が繰り返されるのです。

地中海の制海権をローマに奪われたカルタゴは、起死回生をめざしてイベリア半島に進出、 カルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ 現在のスペイン・アリカンテ)を建設します。だがここでもフランス側から南下してきたローマと衝突します。

ローマを倒さずにカルタゴの将来はない、と観念したカルタゴはローマ遠征の軍を起こします。第二次ポエニ戦争です。そのときの軍司令官が弱冠26歳のハンニバルです。イベリア半島からイタリアに攻め上る道はふたつあります。

ひとつはリグリア海岸(現在のコート・ダジュール)沿い、いまひとつはアルプス越えです。勝ち急ぐハンニバルはアルプス越えを選んだのです。歩兵3万8千、騎兵8千、それにアフリカから連れてきた戦象37頭という大軍勢です。

これだけの大軍勢が標高3千メートルに近い山からの攻撃だが、疲労がすさまじく攻め落とすことができませんでした。そこに目をつけたのがローマの知将ファビウスです。ファビウスはひたすらハンニバルとの決戦を避け、持久戦に徹したのです。

ハンニバルとファビウスの戦いについては、クラウゼヴィッツも「双方が決戦を求めない場合の戦場防衛」の戦いです。ハンニバルがファビウスと引けば攻め、追えば引くの堂々めぐりを繰り返している間に、ローマ軍はイベリア半島を制圧し、カルタゴ本国に攻め込んだのです。

やむなくハンニバルは本国に引き揚げますが、ザマの決戦でスキピオ率いるローマ軍に敗れます。その結果、 カルタゴは戦争放棄、多額の賠償等々の屈辱的な講和をのみ、名実ともに商人国家として再スタートします。もともと商売上手の国民です。

みるみるうちに経済大国に復帰します。一方、ローマのほうの経済復興は遅々として捗らない。となればローマがカルタゴの金をねらうのは自然の成り行きでしょう。「ローマの野望に注意せよ」と、ハンニバルはカルタゴ市民に事あるごとに訴えました。

だが、カルタゴには親ローマ派の貴族がいました。先の講和で人質としてローマに連れていかれ、洗脳された連中です。ローマかぶれの彼らは逆に、「ハンニバルはローマとの戦争をねらっている」と中傷し、ローマの圧力でハンニバルは遠くアルメニアへ亡命をよぎなくされます。ローマ人はしつこい。

追いつめられたハンニバルはとうとう毒杯をあおって自死してしまいます。首尾よく強敵を葬ったローマは無理難題をカルタゴに押しつけます。「しまった! ハンニバルは正しかった」とカルタゴの市民が気づいたときはもう遅い。史上まれにみる残虐さで、ローマ軍がカルタゴを地上から抹殺したのは、前146年です。

後世に名将とうたわれた軍人を擁しながら、なぜ、カルタゴはローマに徹底的につぶされてしまったのか。理由ははっきりしています。第一にカルタゴはもともと商人国家で、軍事には関心がうすく、自国の防衛はすべて傭兵任せでした。

第一次ポエニ戦争の敗北で、ハンニバルの父ハミルカルがスペインに活路を求めたのも、本国では「平和主義」が強くて、軍事力の強化が望めなかったからです。第二は国内の分裂です。ハンニバルがイタリアで転戦している間、本国はほとんど知らん顔でした。

国内のローマかぶれの貴族が市民の「平和主義」と結びついて、ハンニバルを追い出してしまったことはすでに述べた通りです。政治家が国際情勢にうとく、軍事をおろそかにすると、どういうことになるか、 カルタゴの運命ほどはっきり示している歴史はないでしょう。わが日本国も他山の石とすべきだと思うのです。

 





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内地への退却について
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 16:01
No. 7172
 
 
戦争論のなかに「内地への退却」という言葉があります。内地への退却戦が有利な条件として、クラウゼヴィッツはふたつあげています。ひとつは敵国に攻め込んだ攻撃軍の戦闘力の弱体化。これに反して退却軍の戦闘力は国内で増強されるのがふつうです。

いまひとつは補給線。退却軍は退却の際に、戦闘に使われる物資のすべてを破壊しつくす。そこで攻撃軍は自国からの補給に頼らざるを得ず、常にきびしい不足に悩まされます。内地への退却はこのように有利な条件を備えているのですが、一方、これと匹敵するくらいの不利な条件もふたつあります。

第一は攻撃軍が自国内に侵入するために生じる損害。自国を戦禍から守ることは国家防衛の最終目的ではありません。最終目的は勝利なのだから、国土の損害も時には止むを得ないにもかかわらず、これは見過ごしにはできない問題だと、クラウゼヴィッツはいっています。

第二は内地への退却が軍隊および国民に与える不利な精神的影響。いくら内地への退却が戦争全体の計画上、意義があるとしても、そのことを軍全体や国民に周知徹底させることは難しい。国民は犠牲となった地方の人々の運命に同情し、軍に対する不満を募らせます。

軍は軍で、指揮官への信頼を失うだけでなく自分自身への信頼まで失いかねない。内地への退却の成否はこれらの条件の兼ね合いにかかっているというのです。わが国は13世紀のモンゴル・高麗連合軍の侵入以来、外国軍隊が日本の国土を戦場とすることは絶えてなかった。

それだけに大東亜戦争の最終段階、昭和20年(1945) 4月から6月にかけて行なわれた沖縄の徹底抗戦は、衝撃的でした。牛島満司令官の自決で終わりを告げたこの戦闘は、敵戦力を可能なかぎり叩き、本土侵攻をできるかぎり引き伸ばすことを目的とする防衛戦だった。

これには本土からの特攻隊の攻撃も加わり、結果論でいえば、一応の成果をあげました。なぜなら日本軍の死に物狂いの抵抗をみたアメリカは、ポツダム宣言を発して降伏のチャンスを日本に与えたからです。

しかしこの戦闘で日本軍の戦死者は約10万、少年、少女をふくむ県民のゲリラ隊や一般住民の死者はほぼ同数の9万4千。米軍の戦死者は約1万4千でした。日本軍はほぼ90パーセント、県民は25パーセントというきわめて高い戦死率です。

この戦例をみたらクラウゼヴィッツも前言を撤回し、殲滅戦争下の内地での退却戦は代償があまりにも高くつきすぎる、といったことでしょう。クラウゼヴィッツの時代には戦争といえば陸戦と海戦でした。しかし第二次世界大戦以後、空戦が加わり、大きな役割を演ずるようになったのです。

その意味では日・独両国に対する空からの無差別爆撃は戦場が内地となる新しい戦例でしょう。サイパン、テニヤンを基地とする超長距離爆撃機B−2による米国の日本本土爆撃(日本側からいえば本土空襲)は昭和19年11月に始まりました。

とりわけ昭和20年3月9日の東京大空襲以後の無差別爆撃は、ほとんど連日のように行なわれ、8月15日まで全国66の主要都市を焼き払いました。空襲で生命を落とした非戦闘員市民は90万人、負傷者は130万人に達しました。

さらにダメ押しのように広島、長崎に原子爆弾が投下されました。米軍の徹底攻撃の伝統はここにもみることができるでしょう。いまや空戦は航空機からミサイルの時代。ロシアのウクライナ侵攻を見ているとミサイル防衛網の設置は急がなくてはならないでしょう。

 





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日本の福祉元年
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/07(月) 15:59
No. 7171
 
 
歴史的と言ってもいい沖縄返還で、戦後日本は完全に終わり、新しい日本の歴史がはじまりました。同時に、条約の批准とともに佐藤内閣の役割は終わり、昭和47年(1972)6月に佐藤首相は辞意を表明します。それにしても佐藤内閣は長かったのです。

昭和39年(1964)のオリンピックが終わった後に発足したのですから8年間です。国民もいいかげん飽き飽きしていたのですが、沖縄返還という大仕事があったせいかもしれません、まあ続いたのです。

そして自民党は次の総裁を誰にするかでまた激しい権力闘争があったのですが、福田赳夫氏を抑えた田中角栄氏がここで登場してくるわけです。7月7日、田中内閣が成立します。角さんとくれば「日本列島改造論」、これは総裁になる前の6月に「首相になれば実行するぞ」と発表していました。

すなわち地域開発の推進、さらに日中国交正常化という大仕事を田中角栄氏はすぐにやりました。日中国交回復は内閣をつくると同時くらいでしたから、国民もアッと驚きました。実はこれは角さんの仕事ではなくて、後で「オレが前から裏交渉をしていたんだ」と言う人も出てきたのです。

それは、三木武夫氏です。でなければあれほど早くできるわけがないともいえますが、いずれにしても9月29日に角さんが日中共同声明に調印したのです。国民も田中内閣に大いに期待します。日本列島改造論を表看板に、翌昭和48年(1973) 春ぐらいから田中角栄首相は次々と、ブルドーザーのごとく政策を強力に実行していきました。

公共事業は支出が前年比32パーセント増の大規模なものとなり、老人医療をタダにする法案、老齢年金の大幅増加など、これで日本の社会保障が国際水準に近づいたと言われるほど福祉に力を入れ、昭和48年は日本の福祉元年とさえ呼ばれたのでした。

 






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