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  憲法改正の動き  仲條拓躬2023/08/16(水) 15:52 
  アメリカンジョーク2  仲條拓躬2023/08/15(火) 13:55 
  吉田茂と鳩山一郎の関係  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:40 
  反戦の運動とは  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:39 
  過去に国葬を行った方  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:38 
  昭和39年のころ  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:36 
  アメリカンジョーク  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:35 
  工程表は国民に対して  仲條拓躬2023/08/14(月) 15:34 
  昭和天皇が亡くなる前のお言葉  仲條拓躬2023/08/10(木) 16:21 
  新安保条約法案の可決まで  仲條拓躬2023/08/10(木) 16:19 






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憲法改正の動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/16(水) 15:52
No. 7190
 
 
水爆実験による第五福竜丸事件(昭和29年3月)を契機に、民衆の間でも原水爆禁止運動が拡大してきまして、昭和30年8月6日、広島ではじめての原水爆禁止世界大会が開かれました。

また、米軍基地反対闘争が各地で起こり、同じ年の七月には、東京・立川基地拡張に関して、地元の砂川で闘争がはじまりました。 九月には警官隊と民衆が大激突し「砂川闘争に勝たんかな」がスローガンのように叫ばれ、まさに左翼運動の象徴的な闘争となりました。

そんなふうに鳩山内閣のもとの昭和31年頃までは、しばしば流血の紛争事件が起こり、それには平和に対する国民の強い希望が注ぎ込まれました。こうしてどんどん強まる平和運動は同時に、裏を返せば憲法を護ろう、との護憲運動にもつながっていきます。

それは鳩山内閣が掲げる政策の憲法改正・再軍備は認めないという趣旨ですから、病状もよくない鳩山さんとしては、なかなか思うような政策が実行できなかったのです。それでも使命感を抱く鳩山さんは、議会でも両派社会党が猛烈に反対する中、保革の正面対決であろうが意に介せず、自分の政策を押し出そうと頑張ります。

それにはまず平和憲法鳩山さんからすればアメリカからの押しつけ憲法のどこが悪いかをきちんと調査する必要があるというわけで、懸案の憲法調査会をつくるべく「憲法調査会法案」を議会に提出しました。さらに日本の国防をもっときちんとしたものにしよう、すなわち再軍備の必要性について 「国防会議の構成等に関する法律案」も持ち出しました。

これらが社会党と激突して大揉めしてずいぶん時間を費やした結果、両方とも審議未了で廃案になってしまいます。このことが、「こんなことをくり返していてはたまったものじゃない」と保守合同への道につながるわけです。

さらにいえば、その前に両派社会党が合併しちゃいましたから、ますます民主党の政策を議会で通すのが困難になり、自由党と一緒になって大政党をつくって社会党と対決しなければならない、とより一層、保守合同の必要性が高まったわけです。

というようなことで、第二次鳩山内閣は、理想は高く掲げながらももたもたと何もせず、いつも審議未了で廃案、なにやら保守合同のための内閣と言ってもいいようなものでした。さて保守合同の結果、圧倒的多数の与党となって、第三次鳩山内閣が昭和30年11月22日に発足します(昭和31年12月20日)。

それまで野党の反対もあり、揉みに揉まれてにっちもさっちもいかない状況が続いただけに、こうなると「今度は大丈夫だ」と強気になります。たしかに保守合同の結果、大自民党は三分の二を獲得せんばかりの勢いではありましたが、やはり平和思想の強まる中、革新政党が三分の一を超えていたのです。

もしもこの時、自民党が三分の二を超えていれば、憲法改正の動きがかなり具体化したと思うのですが。しかしなんとか憲法改正に漕ぎ着けたいという思いもあり、やっと憲法調査会をつくるところまではいったのです。しかし改正そのものはまだまだ遠い先の話でした。

 





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アメリカンジョーク2
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/15(火) 13:55
No. 7189
 
 
問 バイデンがペンシルベニア州で勝利したのはなぜか?
答 ペンシルベニアで生まれ、住民が彼のことをよく知っているからだ。
問 トランプがニューヨーク州で敗北したのはなぜか?
答 ニューヨークで生まれ、住民が彼のことをよく知っているからだ。

問 トランプ大統領が在任中に目指した国は何か?
答 Discrimi-nation (差別、 分断)

ドイツを訪れたトランプ大統領が「ベルリンの壁」を見学した後、メルケル首相に言った。
「あの壁はすばらしい。ドイツの技術でメキシコ国境に壁を作ってくれないか」
「多くのアメリカ人はあなたの周囲に壁を作ることを望んでいます」

トランプ大統領の政治スローガンの変遷
「Make America Great Again」
「Make America Hate Again (アメリカに再び憎しみをもたらす)」
「Make America Rage Again (アメリカに再び怒りをもたらす)」

退任したトランプ氏がフロリダからバイデン大統領に電話をかけてきた。
バイデン大統領が何か話すと、トランプ氏が言った。
「Pardon me」

問 トランプ大統領が使った専用機は何か?
答 Hair Force One

退任したトランプ前大統領の別荘に女性から電話がかかってきた。
「もしもし、トランプ大統領をお願いします」
「私はもう大統領ではありません」
しばらくしてまた電話がかかってきた。
「トランプ大統領をお願いします」
「私はもう大統領ではない」
三度目に同じ電話がかかってくると、トランプ氏が切れた。
「何度言ったら分かるんだ。 私はもう大統領ではない」
「それを聞くのがなんとも耳に心地よいので」
「あんたはいったい誰なんだ」
「…ヒラリー・クリントン」

 





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吉田茂と鳩山一郎の関係
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:40
No. 7188
 
 
昭和26年(1951)6月以降、吉田茂の政策はアメリカ依存で日本の独自性がない、と不満をもつ人たちが追放解除されて政界に戻ってきます。その最初に挙げるべき旗頭となった人が鳩山一郎さんで、以下、石橋湛山、三木武夫、安藤正純らが政界復帰します。

岸信介さんは情勢を見るのに聡く、すぐには復帰せずじっと様子を見ていました。鳩山さんは、実はうんと前に、自由党ができた時の総裁でした。ですから当然、総理大臣になれるはずだったのですが、追放が決まったため、復帰するまで党を誰かに任そうということで吉田さんが首相になった経緯がありました。

「留守の間は頼む」「わかった」というはずだったのです。ところが妙なもので、追放解除で出てきた途端に鳩山さんは、脳溢血で倒れてしまいました。吉田さんが、実際はそう思っていなくても「鳩山さんに譲ろうか」という姿勢をちらっと見せた時に鳩山さんが倒れたものですから、やっぱりだめじゃないかと続行することになったのです。

そうすると鳩山さんの周囲はカンカンに怒り、いろんな怨念も絡んで、吉田さんの足を引っ張りはじめました。そういうわけで、吉田内閣は長く続きましたが、党内的には別のごたごたがあったことになります。

対立がどんどん大きくなり、鳩山グループが吉田さんに「早く政権を寄越せ」「いつまでもやっているんじゃない」としつこく突き、対する吉田さんも「うるさい!」と頑張る。自由党内は足の引っ張り合い、狐の化かし合いのようなことばかりになっていくわけです。

昭和26年5月頃、まもなく鳩山さんが戻って来ることを見越して鳩山派が結成されます。この時の自由党内の形勢は、吉田派140人 (うち広川派74人)、鳩山派119人、どっちつかずの中間派が26人でした。まさに勢力伯仲、こういう中で吉田さんが政権を維持するのは大変です。

さらに外側を見ますと、戦前の民政党の大麻唯男や松村謙三といった人たちが新政クラブをつくり、昭和27年2月には国民民主党と合同して改進党を結成。その総裁が重光葵、幹事長が三木武夫というふうに、保守派の中が自由党と改進党の二つに分かれ、さらに左右の社会党の勢いも強く、という次第で、吉田さんの政権運営は困難を極めていました。

強くならないうちにやっちまえ、と昭和27年8月、抜き打ち解散をします。これでまた吉田さんはひどいやつだと言われるのですが、結果としては自由党240人、改進党85人、右派社会党57人、左派社会党54人当てにしていた勢力が伸びないどころか、むしろ右派左派に分かれた社会党が躍進した。

共産党は全滅してしまいましたが。 自由党で当選した人の内訳を見ると、吉田派73人、鳩山派68人、どっちが強いか見定めている中間派が99人という情勢でした。なお、この時は追放を解除された人が329人立候補し、139人も当選しましたから、俄然旧い勢力が出てきたことになります。

 





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反戦の運動とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:39
No. 7187
 
 
昭和42年(1967)6月5日、イスラエルとエジプトの間で六日間戦争(第三次中東戦争が勃発します。この時は、イスラエルが国防相ダヤン少将の指揮による電撃作戦で一気に攻め入りました。350機が20ヵ所の飛行場を一挙に攻撃、400機以上を地上で破壊するなど、アッという間にエジプト軍を完膚なきまでに叩きつぶし制空権を奪いました。

次いで戦車を主力にした部隊がダーッと侵攻し、シナイ半島、エルサレム旧市、ゴラン高原を占領するなど、ほんとうにイスラエル軍は強かったのです。ですから6月11日にあわてて国連が間に入って停戦し、戦いは6日間で終わったのですが、あのまま続けば世界戦争につながっていくのではないかという危機感は全世界に走ったのです。

かと思えば、文革中の中国が6月17日、初の水爆実験を行ない、核の保有を誇示します。また10月9日には、(キューバ革命における) 英雄児チェ・ゲバラがボリビアで戦死します。世界革命を信じる人たちにとって、ゲバラの言葉「いずこであれ、死がわれわれに不意討ちをかけるならば、それを歓迎しようではないか」は金科玉条とされ、まるで「死ぬことは恐ろしくない」と言わんばかりでした。

このように、社会主義革命が世界的に大きな動きとなった時代でもありました。そして翌昭和43年(1968)3月16日、ベトナム戦争において、ソンミ村という小さな村で、アメリカ軍によるたいへんな虐殺事件が起こります。これが全世界に伝わります。

アメリカ軍はたいへんな被害を出した、これはその復讐戦なのだ。そもそもゲリラ戦だから兵士か民衆かわからない、皆殺せと、兵士でないかもしれない村人百九人が殺されたのです。事件が公表された時、アメリカ人はたいへんなショックを受けました。

我々にも大きなショックでしたが。のちに心あるアメリカ人は言いました。「第二次大戦で戦争犯罪を裁いた(ドイツ人、日本人に対して)が、我々にはもはやその資格はない」これほどアメリカ人は、等しくベトナム戦争でのアメリカ兵の残虐さに衝撃を受けたのです。

アメリカ各地で反戦運動の勢いが高まり、同時に、戦争で一番たくさん死者を出している黒人が暴動を活発化させる事態になります。これが日本にも伝わりますと、国内の反戦運動は火に油を注がれたように広がっていきました。

さらに今度はヨーロッパです。5月4日、パリのカルチエ・ラタンにバリケードが築かれ、立て籠った学生たちのデモが、取り押さえようとする警官隊と正面衝突します。そしていわゆる「花のパリ」で大乱闘事件が毎日繰り返されたのです。

フランス政府の体制への不満からはじまったこの運動は、ちょうど第二次世界大戦でパリに突入したアメリカ・イギリス軍とフランス軍が、ドイツ軍と戦った市街戦のようになってしまいます。さらに19日には全フランスで大々的なゼネストをかける動きにまで発展し、どんどん盛んになる反政府運動は「五月革命」といわれました。

考えてみると、昭和31年(1956)のかのスターリン批判の影響が全世界的にすこぶる大きかったと思えるのです。輝ける「共産党」がまったく信じられなくなったのですから。それで、いまやその呪縛を脱して、実に多様な反体制運動が生まれ出たのです。

全世界的に。かつてのような指導部への服従なんてことは、まず否定されなければならなかったのです。1960年代後半からのものすごい反体制・反社会・反戦の運動とはそういうものだったと思います。

 





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過去に国葬を行った方
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:38
No. 7186
 
 
昭和41年(1966)6月29日、かのビートルズが日本にやって参りました。その時の騒ぎはすごかったといいます。私はビートルズをレコードしか聴くことがありませんでしたが、こういう世界的な大人気者を日本に呼べる時代が来たということでした。

公演は翌日からわずか三日間、日本滞在は合計で102時間、ギャラ六千万円、当時としてはものすごい額です。警備に動員された警察官の8400百人、その経費九千万円。またこの騒ぎで補導された少年少女は6500百人余り、とにかく熱狂的な騒ぎが三日間続いたわけです。

またテレビでは7月17日、「ウルトラマン」が放映を開始します。人間が変身して、「シュワッチ!」と叫んで飛んで行ったり、腕をクロスさせるとスペシウム光線が発射されるのです。初の怪獣番組であり、また変身ものの第一号で、後に仮面ライダーなどが続きます。

当時、女学生がトイレに入り、普段着に着替えて出てきて「シュワッチ!」なんて言うのがはやりまして、どうも若い人たちには変身願望があったのでしょう。きっちり出来上がって落ち着いてしまった時代に対しての閉塞感が出はじめていたような時でした。

そして、この年、初の建国記念の日をつくることになります。戦争に敗け、日本の神話が全否定されて何も残っていない、そこで建国記念の日をつくろうというわけです。古き日本の復活です。2月11日をそれと決めよう、というのは戦前派なら皆知っているのです。

神武天皇が日本の国をはじめた紀元節として昔からお祀りしていたのがこの日で、それを復活しようとしたのです。すると「また神話の復活か」と大論争がはじまり、社会党は憲法が発布された5月3日案、民社党と公明党は対日平和条約が発効された4月28日案(昭和27年4月28日を日本の独立した日、本当の独立記念日とする考え)を出してきました。

ほかにも、それなら終戦の8月15日にしたほうがいいのでは、とかいや立春だ、元旦だ、などさまざまな案が出たのですが、結局2月11日で押し切られます。見事に戦後復興に成功して自信のついた国民の気分も、復興調へと少しずつ変わっていたのでしょう。

ついでにいうとこの年の9月、「国民の祝日に関する法律」が改定され、「老人の日」が「敬老の日」となる。 老骨が敬われなくなったはじまりがこのころなのでしょう。翌、昭和42年(1967)10月20日、あの吉田茂がお亡くなりになり、31日に大々的な国葬が行なわれます。

戦前の昭和史で昭和18年(1943)6月の山本五十六、そして昭和20年(1945)6月の閑院宮載仁親王以来、戦後としてははじめての国葬でした。まあ、国民の考え方としてはいろいろありますから、ときに論争が起こってもそれにともなって大きな政治的衝突とはならず、日本全体の空気としては良き時代、昭和元禄の謳歌が続いていたということです。

 





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昭和39年のころ
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:36
No. 7185
 
 
新幹線の認可は昭和34年(1959)、予算は初年度三十億円でした。その年の夏、十河信二国鉄総裁に世界銀行への借款を勧めたのが佐藤栄作だったことははっきりしています。「こんな大工事は一内閣の期間では完成するはずない。 内閣によっては方針がどう変わるかわからん。世銀からどかんと融資を得ておけば、時の内閣もやらざるを得なくなる。外から縛ることができる」というわけです。

そこで全工事費3800百億円のうち288億円を世銀から借款し、工事期間は五年かかるところ、三年半の突貫工事でオリンピックに間に合わせたのです。いまも時々、東京駅で東海道新幹線に乗るとき、1・2番線階段下の突き当たりの壁にはめ込まれている銅板の文句を読むことがあるのです。

英文もついているのですが略します。「東海道新幹線、この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された。東京・新大阪間 350q、起工一九五九年四月二十日、営業開始一九六四年十月一日」驕りも高慢さも思い上がりもなく、さわやかさいっぱいの文章です。

運輸大臣や国鉄総裁の名前なんかない。日本国民みんなして造ったのだと。これがとにかく五年を三年半に縮めた最大の理由であったのです。そして東京オリンピックです。オリンピックといえば「東京五輪音頭」です。

はあーあ、それ、あの日ローマで眺めた月が 今日は都の空照らす……というものですが、この歌詞はNHKが公募して島根県庁の職員、宮田隆さんの作品が選ばれたそうです。すでに亡くなりましたが、戦時中にフィリピンでの捕虜生活で餓死寸前のたいへんな苦労をされた経験から、もうそんなことがないように「世界平和を願って書いた」とか。

作曲は古賀政男さん、たくさんの人が歌いましたが、三波春夫さんが一番知られています。オリンピックについて中身は詳しくお話しませんが、少なくとも世界中が集まって競技をする大きな祭典で、日本人が心から感じたのは、これでやっと敗戦国から抜け出して国際社会の一員になった、先進国の仲間入りができた、というたしかな思いだったでしょう。

そういう意味でオリンピックは、日本人の気持ちをひとつにまとめる大きな役割を果たしました。昭和三十五年の安保闘争後、浮わついたり無責任になったりしてはいましたが、ここで改めて「国家」を再認識して喜びを分かち合ったのです。

 





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アメリカンジョーク
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:35
No. 7184
 
 
百歳の女性が九十歳を超えて初めて大統領選に投票したことが話題になりました。彼女はその投票行動を説明しました。
二〇一二年「JFKの靴磨きのような黒人に投票したわ」
二〇一六年「悪党役のプロレスラーのような白人に投票したわ」
二〇二〇年「棺桶に片足を突っ込んだような白人に投票したわ」

問 オバマ大統領より先に、「Yes, We Can!」を言った大統領は誰か?
答 クリントン大統領だ。ホワイトハウスのインターンに言った。

二〇〇四年に死去したレーガン大統領が、棺の中から参列した歴代大統領夫妻を見ながら、得意のジョークを飛ばした。
「クリントン夫妻が一緒に眠るのを見るのは初めてだ」

クリントン大統領の一人娘チェルシーさんに娘が生まれた時、クリントン大統領がつぶやいた。
「おじいさんになるのは怖くない。おばあさんと寝るのが怖い」

ブッシュ大統領の業績を記念する「ジョージ・W・ブッシュ大統領図書館」が三億ドルをかけて、テキサス州ダラスに完成した。
周辺住民が言った。
「本一冊読んだことのない男が、なんで巨大な図書館を建てるのだ」

米中央情報局(CIA) がホワイトハウスに対し、国際テロ組織のアルカイダがアメリカ経済を破壊する新たな工作に着手したとの情報を伝えた。
ホワイトハウスが答えた。
「心配ない。 ブッシュ大統領が二〇〇八年にすでに破壊済みだ」

初代のワシントン大統領は、嘘をつくことができなかった。
ニクソン大統領は、真実を語ることができなかった。
トランプ大統領は、嘘と真実を区別することができなかった。

トランプ大統領がホワイトハウスの寝室で眠っていると、あの世のリンカーン大統領とケネディ大統領が現れた。
リンカーン 「分断、格差、横暴と君の悪政は目に余る。 今すぐ劇場に行きたまえ」
ケネディ 「その通りだ。 ダラスをパレードしてもいい」

 





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工程表は国民に対して
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/14(月) 15:34
No. 7183
 
 
福島第一原発事故の収束作業は、東電・政府の発表とは裏腹に、実際は、遅々として進んでいないと断言していいと思っています。にもかかわらず、東電・政府は、「工程表」の「ステップ1」の目標が達成されたと言い、「新工程表」なるものを発表しました。

こうした欺瞞、情報の改ざんは、東電にとってはお手のものやり方も洗練されています。その理由は、ずっとやってきたからです。原子力発電に関する情報、データは、形式上、東電から国 (管轄省庁である経済産業省)への報告義務があります。

たとえば、定期検査の作業報告も、報告書を提出しますが、この作業報告書には、報告用の表バージョンと、自分たちが実際の状況を把握しておくための裏バージョンが存在します。いわば、二重帳簿です。

これは、現場で働いている人間も含め、原発では"常識だといいます。 現場の人間が作成した裏バージョンの報告書が、そのまま国へ報告されるなんて、あり得ません。東電にとって、国への報告書は、あくまで方便です。

事実は、自分たちだけわかっていればいい。正確に報告したとしても、誰がわかるのです。こうして原発は、一種の「ブラックボックス」状態になっていきました。巨大ブラックボックスの中に小さなブラックボックスがさらに言えば、下請けメーカーが東電に出す報告書にも裏と表が存在します。

現場の方も報告書の作成がわずらわしくなった時、「どうせ、上が改ざん、作文するのだから、適当でもいいじゃないか」とすら思ったことがあるといいます。情報改ざんは、原発の隅々にまで浸透しているのです。

東電とメーカーが共有している「本当のこと」もあれば、メーカーだけが把握している「本当のこと」もあるのです。東電は、「原発のことは、自分たちがわかっていればいい」、メーカーは、「この作業については、自分たちだけがわかっていればいい」のです。

大きなブラックボックスの中に、小さなブラックボックスがいくつも存在する状態と言ってもいいでしょう。そして、東電は、この小さなブラックボックスの存在を知っています。「そこは、任せるから、しっかり管理してくれよ」というわけです。

新規参入者が入ってこない産業構造にありがちな、もたれ合い、なれ合いの構図だとも言えます。こうした構図の中では、大きく評価されるべきリスクが小さく評価されていきます。それが、事故の背景として横たわっていることは言うまでもありません。

さらには、進化も生まれづらくなります。福島第一原発事故の収束作業についての「工程表」は民に対しての「表の報告書」。すなわち、方便です。そして、そのことが示すのは、東電は、「福島第一」もブラックボックス状態にしようとしているということです。

 





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昭和天皇が亡くなる前のお言葉
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/10(木) 16:21
No. 7182
 
 
昭和22年(1947)9月12日、ちょうど社会党の片山内閣の頃です。外交官出身の芦田均外相が中心となって、政府が考えている「講和後の日本」のプランを作り、青写真をアメリカ軍にそれとなく見せることにしました。

その内容は、もし冷戦下の米ソ関係が最悪にならずやがて落ち着いた場合は、新しくできた国際連合にすべての安全保障を委ねて防衛その他を考えたい、しかし冷戦状態がどんどん厳しくなっていった場合には、アメリカ軍が駐留し日本を守ることを平和条約に明記するというものでした。

ところが、そんな前例のない、アメリカが日本を偽植民地にするような平和条約は、他の国から文句が出るかもしれません。そこで日本政府としては、日米の特別な合意のもと、要するに話し合いによって日本の防衛をアメリカにお願いする、というかたちにして、その軍の駐留や基地の問題の青写真を秘密文書としてアメリカに見せることにしたわけです。

当時の芦田外相のメモに、この第二案、つまり相談の上、双方が合意して日本の防衛をアメリカにとりあえずお願いするという方針でいきたい、とありまして、ここに後のいわゆる日米安全保障条約(安保条約) の原型があるわけです。

こんなことを言えば日本政府のだらしなさを指摘するようですが、なんだか世界的状況をまったく無視して自分の国のことしか考えていないというか、我が国だけを守ってもらおう、そのためにはアメリカが一番都合いいじゃないかという意図が見え見えです。

また別の話になりますが、芦田外相はこの案を天皇陛下に見せたようです。これに従えば、アメリカ軍がすぐにでも日本本土に駐留する可能性が考えられます。たとえば神奈川県の三浦半島全部を米軍基地にしてもらおうとかいった意見が出てくるような、あまり芳しい話ではないのです。昭和天皇は、こういう日本政府のやり方は非常に不満だったようです。

新憲法において天皇は政治に関与せずですから 「そうかそうか」と聞いているほかないのですが、じつは別の記録によれば、日付もはっきりと昭和22年(1947)9月19日、つまり外務省案ができた一週間後、天皇が自らの構想を、宮内府(新憲法施行により宮内省改め) 御用掛でマッカーサーとの会談にも通訳として同行した寺崎英成氏を通してアメリカの連合軍に伝えた記録が残っているのです。

「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球ほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし日本を守ることにもなる。(中略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄 (および要請があり次第ほかの諸島嶼)の事占領は、日本に主権を残存させたかたちで長期25年から50年ないしそれ以上の貸与をするという擬制のうえになされるべきである」

つまり、日本本土はもってのほかで、沖縄諸島をこのまま軍事占領していくほうがいいのである。それも主権は日本にあるのをアメリカが長期間借りるいささかおかしなかたちなのですが――ことをお互いに承認し合って沖縄の軍事占領を続けたらいかがですか、そう天皇の方から言ったことになる。

そして結果的には、アメリカ軍は「なるほど、名案」とばかりにこのアドバイスに乗っかり、後にはグアム、沖縄、そして台湾を結ぶ弧状の線をアジア戦略の防衛線にするのです。 朝鮮半島に大部隊を置くとか余計なことをせずに、大きな弧を描くようにアジアの防衛線をつくることをアメリカは目論んだのです。

考えようによってこれは、昭和天皇がものすごく戦略的にすぐれた頭をもっていたことになるのであって、片山首相以下、芦田外相ら政府の連中はいったい何を考えているのだ、という話になるのです。

そして後になりますが、昭和天皇が亡くなる前に倒れになった時、新聞にも出ましたが、「沖縄へは、私はどうしても行かなければならなかった」と言っていました。その時は、本土決戦の時間稼ぎのため米軍と戦い、徹底的にやられた沖縄の人にはたいへんな迷惑をかけた、そんなお詫びの心を込めての言葉だと思ったのですが、その後、以上のような話を知り、そうか、こっちだと納得しました。

地上戦が終わった直後から軍事占領され、そのまま沖縄を四十年上米軍の占領下に置いたことに対して、もちろんこれは政治的な介入ですから公式に言ったわけではないにしろ、結果的にそうなったことを本当に悪かった、そういう思いを昭和天皇はずーっと抱いていての言葉だったのかもしれません。

 





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新安保条約法案の可決まで
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/10(木) 16:19
No. 7181
 
 
石原莞爾平和思想研究会の同志であった藤本敏夫さんは、全学連の委員長時代、学生運動関連で実刑判決を受けて獄中で歌手の加藤登紀子さんと結婚しました。有機農法実践家、大地を守る会初代会長、鴨川自然王国・理事長を務めていました。

一緒にお酒を呑み語り合っていたのですが、農林水産大臣に建白書を送った後、58歳の若さで旅立たれてしまいました。藤本さんが委員長だった全学連は社会党と労働組合に加え、安保改定反対に全学連が動き出しました。

全学連というのは昭和23年(1948)に結成された全日本学生自治会総連合のことでして、はじめは共産党の統制下にあったものが、そこから離れ、昭和33年(1958) 12月に執行部を共産主義者同盟(通称ブント)として結成し、安保闘争をはじめました。

いっぽう共産党系の民主青年同盟(民青)が独自に反対運動を起こしていましたから、二つの対立がかえって「負けるもんか」と運動を激しくしていきました。やがて全学連が力を強め、安保闘争の前面に立つようになってきます。

ただ社会党、総評、全学連がガンガン反政府運動を進める中で、一般の人たちはまだそれほど乗っかってはいない状態で、いってみれば、もっと素朴に平和国家、護憲を望み、軍事条約などには加入しないで今まで通りのやわらかい安保でいいんじゃないの、といった程度の反対でした。

少なくとも、お酒を飲みながら不賛成をぼやくくらいの雰囲気だったと思います。ところが国会では、先の「極東」の範囲などをめぐって社会党が猛反対するものですから、議論が果てしなく続きます。議論を重ねるほどに、なにかしら条項に不備が出てきて揉める、の繰り返しでした。

にっちもさっちもいかなくなる中で、昭和35年(1960)6月19日には安保条約の日本の批准を見込んでアメリカのアイゼンハワー大統領の来日が決まります。そうなるとなおさら、新安保条約を衆議院で批准させることが岸内閣の大命題になります。

条約というのは衆議院を通過させれば、参議院の議決がなくとも三十日後には自然に成立することになっています。 従って、5月19日までに衆議院で可決すればお迎えした時にめでたく成立していることになるのです。 岸内閣は是が非でもその日までに安保条約の衆議院通過を決意します。

しかし議会は入り乱れてとてもそんな状況にならぬまま、とうとう5月19日になってしまいました。野党は、「今日をなんとか乗り切れば」と衆議院議長、清瀬一郎さん(東京裁判の日本側の弁護士で、東条英機を弁護した方です)を議長室に押し込め、スクラムを組んで表に出させないよう、いわゆる缶詰状態にしてしまいました。

一方、強行突破を期する岸内閣はその日の夜十時過ぎ、本会議開会を知らせる予鈴を鳴らし、安保特別委員会を開きます。そして野党が欠席のまま政府と与党だけで委員会を通し、こうなるともう時間との戦いですから、ただちに本会議にもっていこうとします。

ところが議長がいません、どうしようか、やむを得ないというので警官隊五百人を導入し、議長室の前でスクラムを組んでいる社会党議員を一人ひとりゴボウ抜きにして排除して中から議長を救い出し(という表現でいいのかどうか分かりませんが)、担いでいって衆議院本会議の議長席に座らせます。

そこで清瀬さんが「ただいまより本会議を開会いたします」と押しくら饅頭状態でマイクにしがみついて宣言する有名な写真が残っています。こうして与党だけの本会議で法案はたちまち採決されました。

大野伴睦や河野一郎ら、自民党の反主流グループも欠席していましたが、それでも午前零時六分、議長は本会議閉会を宣言し、この大事な法案はわずか数分で可決してしまったのです。

 






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