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長崎新地中華街から「出島橋」を渡ります。「出島橋」は、日本最古の鉄製の道路橋です。車が多く、歩道はとても狭いので、歩くときは注意してください。中央・表門メインゲートのみオープンしていました。横から見ると凄さがわかります。中島川に架かる橋で、現在の橋は1910年に現在の位置に移設・改称されたものです。
米国から輸入した錬鉄を用いたピン接合のプラットトラス橋で、日本における鉄製トラス初期の橋のようです。見た目はシンプルな感じがしますが、100年以上も道路橋として使用されていると思うと、感動します。出島橋の下流側から石段の遺構を発見「出島表門橋公園」。キレイに整備されています。
パンフレット情報になりますが、最先端技術の橋は、未来への日蘭交流を象徴する架け橋です。敷地内には鎖国期の復元建物や明治期の建物などがあります。まずは、入って左側を攻めました。「旧石倉(考古館)」へ。こちらは、幕末の復元建物で、幕末の商社の石倉です。坂本龍馬たちの海援隊とも取引されていたようです。
当時、この一帯は石造倉庫が建ち並んでいたようで、大浦天主堂やグラバー邸など建設を行った小山秀之進によって施工されたと言われています。現在は、内部は考古館として使用されており、出島で出土された品、陶器の展示や発掘調査からみえてくる貿易や生活などの紹介をされていました。たくさん展示品があります。外へ出ると、暗くなっていた。
「陶製の門柱」長崎市立博物館から出島に移設されたようです。もともとは出島居留置にあった店舗のものだそうです。柱の横に説明文が書かれています。陶製の門柱をくぐると、「ミニ出島」があります。見応えあります。真上からも写真が撮影できます。
「オランダ石門」をくぐります。「旧出島神学校」。1878年(明治11年)に建てられた、日本最古のプロテスタントの神学校です。「出島」には明るい時間に来ることをおすすめします。
「筆者蘭人部屋」2階の窓の手すりには、当時のオランダでよく使われた緑色の塗料が使われ、窓はガラス窓になっています。「十四番蔵」では、出島と長崎の街を繋ぐ橋が紹介されていました。他にも、蔵の下の発掘遺構や出島の構造などが展示されていました。
「拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)」。こちらは、オランダ商館の首席事務員の住居を復元しました。中では、和時計が展示されていたり、出島から日本全国に伝わった蘭学について紹介されていました。「アマカワ遺構と埋め樽」。「種痘の普及」についての紹介もありました。
こちらは、発掘調査で出土した仔牛の遺体です。食肉用で解体されたのではなく、埋葬された状態で発見。牛痘苗の作成に使われた仔牛の遺体である可能性があります。「出島」の「十六番蔵」と「カピタン部屋」の間に建っている。
「時鐘」正午の合図に撞かれたり、貿易時は積載品が降ろされる時に撞かれたり、3度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向くと記録されているそうです。紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いたものを吊っているそうです。
「カピタン部屋」オランダ商館長のことを「カピタン」と言い、その「カピタン」が使用していた「カピタン部屋」は、「出島」で一番大きな建物でした。外観を見ると、左右から2階へ上れる屋根付きの階段が、お洒落な雰囲気を出していました。
「大広間」当時の豪華な料理などが並んでいる様子が見られます。畳部屋にシャンデリアや洋風家具などが並んでいて、なかなか面白い風景が見られます。「17.5畳の部屋」商館の主要な事務を執る場所のようです。船も展示されていました。
「料理部屋」は、オランダ人たちが費用を負担して建てさせた建物です。料理は、オランダ人や東南アジア人、日本の使用人たちが行っていたようです。食事を作る台所が再現されていました。調理器具などが展示されており、当時の雰囲気を感じ取れます。
「乙名部屋」日本側で「出島」の管理の実務を一手に担ったのが、長崎の有力町人から奉公が選任した「出島乙女」です。こちらでは、「出島」の貿易やオランダ商館員の生活を支えていた「出島乙女」の仕事ぶりを紹介していました。典型的な日本家屋のようです。
外観は暗すぎてしっかり見学することができませんでした。でも、部屋の中は畳部屋などしっかり見ることはできました。ゆっくり見たいのですが、電話がかかってきたので戻ることにしました。その時代にタイムスリップできたように感じます。さあ、帰りも「新地中華街」から乗車して、ホテルへ帰ります。今日も、めちゃくちゃ歩きました。(^_-)-☆
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