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  2023長崎の旅日記2日目-2  仲條拓躬2023/08/26(土) 09:38 
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  安保条約改定が成立の夜  仲條拓躬2023/08/17(木) 15:50 






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2023長崎の旅日記2日目-2
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/26(土) 09:38
No. 7200
 
  長崎新地中華街から「出島橋」を渡ります。「出島橋」は、日本最古の鉄製の道路橋です。車が多く、歩道はとても狭いので、歩くときは注意してください。中央・表門メインゲートのみオープンしていました。横から見ると凄さがわかります。中島川に架かる橋で、現在の橋は1910年に現在の位置に移設・改称されたものです。

米国から輸入した錬鉄を用いたピン接合のプラットトラス橋で、日本における鉄製トラス初期の橋のようです。見た目はシンプルな感じがしますが、100年以上も道路橋として使用されていると思うと、感動します。出島橋の下流側から石段の遺構を発見「出島表門橋公園」。キレイに整備されています。

パンフレット情報になりますが、最先端技術の橋は、未来への日蘭交流を象徴する架け橋です。敷地内には鎖国期の復元建物や明治期の建物などがあります。まずは、入って左側を攻めました。「旧石倉(考古館)」へ。こちらは、幕末の復元建物で、幕末の商社の石倉です。坂本龍馬たちの海援隊とも取引されていたようです。

当時、この一帯は石造倉庫が建ち並んでいたようで、大浦天主堂やグラバー邸など建設を行った小山秀之進によって施工されたと言われています。現在は、内部は考古館として使用されており、出島で出土された品、陶器の展示や発掘調査からみえてくる貿易や生活などの紹介をされていました。たくさん展示品があります。外へ出ると、暗くなっていた。

「陶製の門柱」長崎市立博物館から出島に移設されたようです。もともとは出島居留置にあった店舗のものだそうです。柱の横に説明文が書かれています。陶製の門柱をくぐると、「ミニ出島」があります。見応えあります。真上からも写真が撮影できます。

「オランダ石門」をくぐります。「旧出島神学校」。1878年(明治11年)に建てられた、日本最古のプロテスタントの神学校です。「出島」には明るい時間に来ることをおすすめします。

「筆者蘭人部屋」2階の窓の手すりには、当時のオランダでよく使われた緑色の塗料が使われ、窓はガラス窓になっています。「十四番蔵」では、出島と長崎の街を繋ぐ橋が紹介されていました。他にも、蔵の下の発掘遺構や出島の構造などが展示されていました。

「拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)」。こちらは、オランダ商館の首席事務員の住居を復元しました。中では、和時計が展示されていたり、出島から日本全国に伝わった蘭学について紹介されていました。「アマカワ遺構と埋め樽」。「種痘の普及」についての紹介もありました。

こちらは、発掘調査で出土した仔牛の遺体です。食肉用で解体されたのではなく、埋葬された状態で発見。牛痘苗の作成に使われた仔牛の遺体である可能性があります。「出島」の「十六番蔵」と「カピタン部屋」の間に建っている。

「時鐘」正午の合図に撞かれたり、貿易時は積載品が降ろされる時に撞かれたり、3度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向くと記録されているそうです。紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いたものを吊っているそうです。

「カピタン部屋」オランダ商館長のことを「カピタン」と言い、その「カピタン」が使用していた「カピタン部屋」は、「出島」で一番大きな建物でした。外観を見ると、左右から2階へ上れる屋根付きの階段が、お洒落な雰囲気を出していました。

「大広間」当時の豪華な料理などが並んでいる様子が見られます。畳部屋にシャンデリアや洋風家具などが並んでいて、なかなか面白い風景が見られます。「17.5畳の部屋」商館の主要な事務を執る場所のようです。船も展示されていました。

「料理部屋」は、オランダ人たちが費用を負担して建てさせた建物です。料理は、オランダ人や東南アジア人、日本の使用人たちが行っていたようです。食事を作る台所が再現されていました。調理器具などが展示されており、当時の雰囲気を感じ取れます。

「乙名部屋」日本側で「出島」の管理の実務を一手に担ったのが、長崎の有力町人から奉公が選任した「出島乙女」です。こちらでは、「出島」の貿易やオランダ商館員の生活を支えていた「出島乙女」の仕事ぶりを紹介していました。典型的な日本家屋のようです。

外観は暗すぎてしっかり見学することができませんでした。でも、部屋の中は畳部屋などしっかり見ることはできました。ゆっくり見たいのですが、電話がかかってきたので戻ることにしました。その時代にタイムスリップできたように感じます。さあ、帰りも「新地中華街」から乗車して、ホテルへ帰ります。今日も、めちゃくちゃ歩きました。(^_-)-☆

 





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2023長崎の旅日記2日目-1
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/26(土) 09:38
No. 7199
 
 
フォレストヴィラの朝食会場は、フロント近くにあり、ガラス張りで外が広々と見えるところでした。3300円の朝食バイキングは種類も豊富で感動するレベルではなかったものの、普通に美味しかったです。

朝食会場へは7時に行ったので、とても良い席に案内されました。その後は、朝からアクティブに遊びたい方達が多く、すぐに満員となりました。朝食終了後、チェックアウトして、荷物をフロントで預かってもらい、ホテルからもらったパスポートで遊べます。

園内には1時間前に入れる特典がついているので、念願のVRワールドにむかいました。アトラクションはウルトラ逆バンジーと激流ラフティングをどちらか選びます。皆様は激流ラフティングに並びました。激流ラフティングとウルトラ逆バンジーの両方を楽しむためにはもう一度列に並ぶしかないのです。

ラフティングボートは2隻、各4人乗りです。スタッフさんが1人1人にゴーグルを着けたらスタートです。この少し前にディズニーシーのソアリンに乗っているので画像を比較してしまうと差があると感じました。その後は、ひまわり畑などを通りましたが、お天気で街並みが美しいけど暑いです。

そして、昨日、断念した宇宙のファンダジアにいったところ、待ち時間なしで入れました。係りの方と一緒に30分歩いて見学するような感じでした。次にカロヨンファンタジアへ。本来はカリヨンと呼ぶのですが、ハウステンボスではカロヨンと呼ぶようです。正式に世界カリヨン連盟に認定されている物は日本に3台しかない貴重な楽器です。

他の2台は兵庫県と滋賀県にあります。中に入ると練習用のカリヨンがありました。先へ進むと光の柱がある通路へ出ます。この光に触れると鐘の音が鳴ります。これは「未来のカロヨン」と呼ばれているみたい。光の柱を抜けると、高さ9mもの大きなカリヨンが現れます。数年前まではアトラクションとして使われていました。

その後は封鎖され、放置されてきました。現在カロヨンファンタジアで聴くことのできる曲は3曲、自動演奏(ワイヤーとつながったドラムがオルゴールのように回転する事で音が鳴る)です。人に演奏してもらうことは考えてないとの事でした。ただ、自動演奏でも美しい音色を堪能できるので、個人的には満足です。

3曲の光と音のショーを楽しんだらおしまい、出口へ向かいます。今後は曲のパターンを変えることもあるかもです。出口前では鐘を叩いて鳴らせます。その鐘の音に呼応するように光が灯ります。ぜひ音と光の融合した空間を楽しんでください。

幸せの鐘もあります。手回しカリヨン。ロープを引っ張って回転させる事で鐘が鳴ります。回す速度や方向で違った色を出します。出口には水時計がありました。下の盆に少しずつ水が溜まり、沈む事で歯車が回って時を示すそうです。

ここから向かいにある、アートファンタジアへ行きました。大きなダンスオルガン。以前ハウステンボスでイベント用に使われていましたが、現在は壊れて動かないそうです。楽器の説明のあと、天井から左右までの広い壁面にプロジェクションマッピングが映し出されます。とても美しい映像と音楽で、2人の男女の愛の物語が展開します。春夏秋冬を昭和の感じで演出してあります。個人的にはとても胸を打ちましたので動画をアップします。

その後、ミッフィーとのグリーティングなどをした後、まだ、いろいろと楽しめるところがありましたが限りある時間がやってきました。預けた荷物を取りに戻り、リムジンバスでハウステンボスの入り口まで向かい、お土産を購入しました。

ハウステンボス駅までの周りはとてものんびりとした田舎風景がひろがっていました。在来線電車に揺られ乗ること、1時間半。長崎駅に到着。JR九州ホテル長崎にチェックインしました。口コミや評判がよかったのでデッラックスの部屋を選びました。7階の一番奥の一番大きな部屋です。ホテルの名前とおり、とにかくJR長崎駅に近いのが特徴です。

高速バス・空港バスも長崎駅が発着となるのでアクセス面では申し分ないです。高級感や派手さもない反面、シンプルでスッキリした客室通路。照明は明るめでした。あまりにも条件がよいのでバスツアーの団体とかうるさいかなとおもっていたけど、一番奥の部屋だったので気になりませんでした。カードキーはかざすタイプのものでした。

隣接するアミュプラザ長崎でも最後に買い物ができるので手土産に困ることはまず無いでしょう。さて、荷物を部屋に入れたら、「グラバー園」に路面電車で出かけました。イギリス人のグラバーは1861年、長崎にグラバー商会を設立しました。トーマス・ブレーク・グラバーはスコットランド出身の実業家で武器商人として幕末の日本で活躍していました。

グラバー園の写真を撮ろうとしていたらSDカードがいっぱいになってしまい撮影できなかった。そのあと、大浦天主堂にも行ったのですが、撮影できないのなら行く気が起こりませんでした。お腹がすいたのでオランダ坂を横目に見て日本三大中華街のひとつに出かけました。横浜中華街をイメージしていたので小さくて、びっくりでした。

朝食べ過ぎていてお昼にトルコ料理を食べる予定だったのですが、いけなかったのが残念です。長崎市新地中華街に新しい中華料理店「龍勝楼」に入りました。後から調べて分かったのですが、上海の系列店で、有名店やホテルなどで活躍された料理人が作る本格中国料理です。上海で食べた料理も何を食べてもおいしかった。ここのお店もおいしい。

コース料理を自分でアレンジして注文していたのですが何を食べてもおいしいです。アルコールもいろいろと呑んで、最後に九州の地酒を店長に次いで頂きました。すごく混んでいてひっきりなしに客が入ってきます。その後、コンビニでSDカードを発見して購入できました。グラバー邸から中国料理まで撮影できなかったのは残念です。

 





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2023長崎の旅日記1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/26(土) 09:28
No. 7198
 
 
長崎へは羽田から飛行機です。JALの航空券を手配しました。離陸するとあっという間に長崎空港です。空港にはランタンが飾ってありました。長崎空港から桟橋までの動く歩道が整備されていました。空港ターミナルビルから桟橋まで約10分、飛行機から船へ乗り継ぎ、ハウステンボスに向かいました。

ハウステンボスのマリンターミナルに到着。荷物は入り口でホテルまで運んでくれるサービスがついているので荷物を預けたら直ぐにパスポートでお目当ての30周年記念のミッフィーの体験型ショップ&カフェに向かいました。四女はとても楽しみにしていました。

オランダ生まれのミッフィーだから、ハウステンボスにはたくさんありました。ナインチェはアムステルダムシティにあります。ハウステンボスのマリンターミナルからは徒歩10分ほど、ホテルからは園内を走るバスの距離になります。

ショップに到着するとカラフルなレンガの壁が目を引きます。娘たちは外観だけ見たのに、もうテンションマックスです。ワクワクな気持ちで店内に入ると大きなミッフィーがお出迎えしており、一緒に写真を撮っていました。ハウステンボスではミッフィーをナインチェと呼んでいるようです。それはオランダ語でうさちゃんという意味だからです。

店内には可愛い商品がたくさんあって、一個一個見ていると天井にも映像が映し出されていました。照明もお花の形でどこを見ても可愛いです。お店の中もミッフィーモチーフをたくさん散りばめられています。カフェの中もレンガの壁がカラフルです。ミッフィーのクッションや椅子がたくさんでカフェに来ただけでフォトスポットがたくさんありました。

子どもたちは気になるカフェメニューである、ご飯がミッフィーの顔になっているカレーやオムライス、一番高いプレートやドリンクなどを注文して撮影会を行っていました。九州産やハウステンボスで育った食材を使用しているそうです。

すべての空間が楽しいようで、あっという間に時間が過ぎてしまいます。世界最大級のミッフィー専門店「ナインチェ」は、お店に行っただけで、とても楽しくなる空間でした。商品以外でも楽しめる要素がたくさんあって、写真スポットとしても最高です。

そうそう、ナプキンやコースターなどもミッフィーです。ミッフィーのセレブレーションクリームソーダの上にのっているシャーベットの下にはクリームソーダ定番のバニラアイスクリームが隠れていたのであふれ出してしまいました。

その後は、自転車を借りに行ったのですが、先着10台という縛りがあり、炎天下の中、1時間も待たされて時間がもったいないです。お店の方は「すみません。9月から規則が改訂になるのでお許しください」というのだが、こんな店、来るわけないだろという感じでした。その間、目の前にあるジュラシックアイランドに行きたかったです。

自転車をやっと借りられたので広い園内を回るのは楽しいです。いろんな場所を散策して観覧車に乗り、日本一広いテーマパークを高いところから見下ろしました。冷房が効いていて気持ちよかったです。ハーバータウンからアムステルダムシティを自転車で散策。

VRを付けて楽しむところは待ち時間がとても長いので翌朝に行くことにした。そこで隣のエリアにあるフラワーファンタジアは比較的所要時間は短いのでそちらに入りました。中に入るとガラス製品がたくさん。ガラスにはホログラムのような映像が映っています。

フラワーファンタジアにもプロジェクションマッピングを使ったスポットがあります。壁に向かって立つと花が咲きます。二階では歩いた所に種がまかれる体験ゾーン。まかれた種が芽をだし、咲き乱れました。咲く花はいくつか種類があるので、楽しみです。

海のファンタジア施設も体験しました。カラフルな深海の世界を体験する感動空間となっています。館内に入るといくつかの展示ブースがありました。壁に映し出されたカラフルなアートに触れると色が混ざりオリジナルのクラゲを自由に生み出せる体験空間です。

深海のパラダイスブースには、大きなスクリーンに映し出された深海の不思議なファンタジーショーを観賞できます。カラフルな小さい魚達やクラゲなど泳ぐ姿を観られます。色彩の美しい映像に心酔していく感じでした。海のファンタジアは一言で言うとデジタル水族館です。さらに先へ進むと床が鏡になった部屋があります。

そして大きなデジタル水槽にも大きな魚も泳いでいます。自分の影が魚になるものもあります。ハウステンボスの新エリアです、光のファンタジアシティを体験してきたので、とても有意義でした。宇宙のファンタジアは一度始まると30分以上かかり、一度に入れるのは24人なので、次の日に行くことにしました。

夜はアトラクションやショーなどを優先するので食事は簡単に済ますことにしました。園内のバスに乗ってアムステルダムシティにあるバーガーショップ「ダム」で食事しようと思っていましたが、閉店となったので、「ソーセージワーフ」で佐世保バーガーやポテト・様々なソーセージとアルコールなどを注文しました。

佐世保バーガーはレタスとスライストマト、ピクルスとオニオンも入っていてなかなかのボリュームでした。佐世保バーガー認定店です。ハウステンボスの夜はイルミネーションでとても綺麗でした。プロジェクションマッピングで映画のようです。お客さんも結構いた印象、22時の閉園まで飲み歩きができるのがありがたかった。

ディズニー映画の塔の上のラプンツェルを見て以来、映画の参考になったとされるタイのチェンマイのスカイランタンのようなショーを見てから宿泊場所に戻りました。宿泊するフォレストヴィラは、ハウステンボスのハーバータウンの先にあります。

ハウステンボス直営の3ホテルズの1つですが、ハウステンボスのパーク内ではなく、パークを出てすぐのところにありますので、森林や湖があってとても静かで湖畔のリゾートに来た気分を味わえました。ヴィラは2階建てで、1階のリビングには、キッチンもあるにはあるのですが、食器や電子レンジなどはなく、自炊は難しそうでした。

2階はベッドルームが2部屋あり、洗面所は2階の寝室にもお手洗いも1階と2階の両方にあって、夜中に目覚めた時に下まで降りる必要がなく、とても便利でした。天然温泉にも入れるチケットがあったのですが、少し遠くて夜も遅いので断念しました。

だが、フォレストヴィラのお風呂は独立型で広めでした。ゆっくり湯船にも入れるので、ユニットバスと比べるとやっぱり独立型はいいです。アメニティは歯ブラシくらいで、ムースなどはなく、簡素な感じでした。2日目に続く。

 





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親台派の強烈な反発
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/26(土) 09:13
No. 7197
 
 
日中国交正常化の代償は大きかった。キッシンジャーの逆鱗に触れただけではなく、自民党内の反対派の強い反発を招いた。それに加えて様々な不運が重なり、田中角栄は昭和49(1974)年12月9日に総辞職した。通算在職日数は886日となりました。

日中国交正常化に反対する親台派は、すでに佐藤栄作政権時代から、強い危機感を抱いて反対運動を展開していました。彼らは、昭和46(1971)年6月、全国の言論人、文化人を集め「中国問題二百人委員会」を設立していました。

昭和47年6月には規模を拡大して「中国問題五百人委員会」と改め、日華平和条約が破棄され台湾との外交関係が絶たれることを回避しようと動きました。昭和47(1972) 7月6日に田中政権が発足し、日中国交正常化に動き出すと、党内の反対派、慎重派は全力でそれを阻止しようとした。

すでに昭和40 (1965)年1月には、賀屋興宣らの親台派を中心として党内に「アジア問題研究会」 (A研)が設立されていました。親台派の多くは親米派であり、アメリカの意向をくんで動いていたようにも見えます。自民党衆議院議員を務めた有馬元治は回顧録の中で次のように述べています。

「中華民国との関係を重んずる”親台湾派≠ノも岸信介、賀屋興宣、石井光次郎、灘尾弘吉ら戦前派の長老組と、中川一郎、渡辺美智雄、藤尾正行、中尾栄一、浜田幸一らの戦後派組があってそれぞれニュアンスを異にはしていたが、中華民国と日本の関係断絶が日米安保に影響すること、終戦直後に日本に示された蒋介石総統の恩義を忘れるべきではないこと、などで、日中関係の早急な正常化に消極的な点では一致していた」(有馬元治『有馬元治回顧録』第一巻)。

同年8月3日に開催された自民党の日中国交正常化協議会の常任幹事会では、正常化推進派と慎重派が激突しました。大平が「台湾との外交関係をそのままにして国交正常化について日中双方の合意が成立することは困難だと思う」と発言するや、慎重派は「台湾問題はきわめて重大な問題であり、軽々しく『外交関係の断絶』などという結論を出すべきではない」と声を荒げました。

特に強硬だったのか、賀屋興宣です。彼は「台湾切り捨て、否認ということ自体が、きわめて不条理のものであって、とうてい日本として信義、国益上認むべからざるもの」として強く反発しました。

さらに賀屋は、「日本の天皇制の維持であるとか、日本の戦後の分割占領の防止、また賠償の放棄、二百数十万の軍隊、在留邦人の無事帰還とか、普通ではありえないような厚い好意すら台湾は敢えてしたのである」と唱え、「こちらから断交するとか、国家としての存在を認めないとか、これほど反友誼的、信義に欠ける外交措置があるだろうか」と痛烈に批判した(『戦前・戦後80年』)。

しかし、9月5日の常任幹事会で基本方針案が満場一致で可決され、9月8日の自民党総務会で党議決定されたのです。その前文には「わが国と中華民国との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう、十分配慮のうえ、交渉すべきである」と謳われている。

「従来の関係」について、慎重派は「外交関係も含む」と解釈し、推進派は「外交関係は含まない」と解釈するという玉虫色の表現で決着させたのです。怒号が飛び交った総理帰国当日の両院議員総会こうした玉虫色の合意だったからこそ、日中国交正常化が実現してからも、党内の反発は収まらなかったのです。

田中総理が中国から帰国した昭和47年9月30日に開かれた両院議員総会は大荒れとなりました。首相秘書官を務めていた木内昭胤は、その様子を次のように振り返っています。〈右派議員の突き上げで机をひっくり返さんばかりの雰囲気で、怒号が飛び交うわけですよね。「何をしてくれたのだ」と。台湾派の日本の議員も崖から突き落とされたようなものですから、彼らがカッカするのもわかります。私は後ろの席で見ていたのですが・・・国会の乱闘なんていうものじゃなくて、もっときついものでした〉 (服部龍二 『日中国交正常化』)

田中角栄は、両院議員総会の冒頭、「国交は昨日をもって開かれ、これから党、政府一体となり、事後措置などをやらねばならない。これから悠久の平和のためになさねばならぬことが多くある。これを党、政府一緒に、国民の皆さんと一緒になってやりたい。了承をえられたく思う」と訴えた。

さらに大平が台湾に関して説明すると、藤尾正行が次のように批判の口火を切りました。「中華人民共和国との国交を得た代りに、台湾との断絶をもたらし、これまでの不正常に匹敵する緊張を生み出した。外電によれば、東南アジア、太平洋諸国はその影響に不安を感じているという」

続いて、親戚である渡辺美智雄も「日華平和条約を廃棄するなら、まず自民党内を一本化して、承認させるべきだ。また条約は国会で批准したものであり、その廃棄は国会に承認させるべきだと思う。外相発言で条約を廃棄できるなら、日米安保条約もいつでも廃棄できることになる」と語った。

浜田幸一や中山正暉は、日華平和条約の廃棄は憲法違反だと突き上げました。しかし、大平は「私は、日中国交正常化の結果、日華条約が働く余地がなくなったと言っているのだ。これについて国会に判断を求めなければならないとは考えない」と述べて、閉会に持ち込んだのでした。

 





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財政悪化に有効な対策を出さず
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/26(土) 09:11
No. 7196
 
 
戦争中の軍人同様、官僚というのは往々にして自分たちのいるところだけでしか責任を感じないと思います。自分たちの組織を守るためにしか動かないのです。さらに言うと、その組織内の論理や慣習にのみ従って新しい発想をまったく生もうとしないのでしょう。

ですから何か問題が起こった時に即座に有効な対策が出せず、常に後手後手にまわります。かつての軍人がまったくそうであり、同時にバブルがはじけ飛んだ後の私たちの周りの官僚および政治家、財界人もそうなのだと言わざるを得ません。

現在の日本をみますと、政治家はほとんど二代目、三代目で苦労知らず、官僚はエリート意識と出世欲のかたまりみたいなもので、一種の偏差値優等生の集団です。この人たちが先に説明しました官僚経済国家、官僚統制システムの中にあって自分たちの好きなように裁量行政ができます。

さらに情報を独占し、天下りのような人事の勝手なルールをつくります。そしてお金も独占しているのです。60年代に非常に安定的な経済成長をつくったシステムを、かつての人たちとは違ってしまった官僚が握るうちに、なんともおかしな国家が出来上がったのかなと思えてくるのです。

今の日本は、財政は大借金を抱えています。ケタが大きすぎてわけがわからなくなりますが、一兆円と言えば、仮に誰かが毎日十万円使って百年それを続けても届かない、まあなにしろすごい額です。

ちなみに日本が戦後、はじめて国債の発行を決めたのは昭和40年(1965)11月19日、佐藤内閣の時です。戦争中は国債で戦って莫大な借金をしましたから、戦後はもうやるまいとガマンしていたのですが、この時は不況でどうしようもなくなって2千5百90億円の赤字国債発行を決めました。これはあくまで特例でした。

ところがそれから40年たって、1200百兆円。極端に言えばまったく手を打たなかった、何かといえばすぐ国債を出してごまかしてきたわけです。日本というのはなんと手を打つのが遅いこと、何ら有効な対策を出さず後手後手に回る事といったらすごいものです。

今、少子化時代と言われていますが、厚生省がはじめてこれに気付き真剣に憂慮したのは平成2年(1990) 6月3日です。一・五七ショックと言われるもので、一人の女性が産む赤ちゃんの数が平均一・五七人と史上最低の出生率が判明したからです。 憂えたままでそれから何の手も打たず、今になってもっと少ない赤ちゃんしか生まれず、大騒ぎしているのもいい例です。

 





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所得倍増から現在
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/17(木) 15:55
No. 7195
 
 
昭和35年(1960)、岸内閣の後を受けた池田内閣が唱えたのが、月給2倍論でした。GNP (国民総生産)を毎年8.8パーセント上げていくと、10年後には2.3倍になる、すると必然的に私たちの月給は一人当たり1.9倍になるというものです。

ただ往々にして間違うのですが、実際は池田内閣ができたからいっぺんに経済成長がはじまったわけではなく、すでに昭和28年(1953)頃から日本人がどんどん働きだして、ある種の高度成長時代に入っていたのです。

朝鮮戦争の神風が吹いたこともあり、日本人の労働力はぐんぐん増してきましたし、昭和30年くらいには国民の生活はすでにかなり裕福になっていました。その頃のお話を同志に聞くとかつては焼酎しか飲めなかったのが、やがてトリスになり、オーシャンになり、サントリーの角(角瓶)になっていったといっていました。

そういえば隅田川でボート選手だった昭和26、27年頃は、先輩が吾妻橋あたりでビールを飲ませてくれるというと感涙にむせぶくらい嬉しかったのが、この頃になるとビールなんてガブガブ飲めるようになっていました。

それにつれて隅田川の水がどんどん汚くなりました。川上にある工場群が大いに稼働しはじめたからです。実際、昭和30年から35年までの5年間でGNPの年平均成長率は8.8パーセントを上回って年10.4パーセントで成長し、一人当たり給料が2.7倍になるほどだったのです。

ところが日本の経済学者はいつだって大間違いをする癖があるようで、そんなことできるわけないじゃないか、と池田内閣の政策についてはクソミソでした。そこで池田さんの最大のブレーンだった開発銀行理事の下村治さんがいみじくも言った言葉があります。

「日本経済についてありとあらゆる欠点を並べたててあざ笑う人々を見ていると、私はアンデルセンの『醜いあひるの子』を思い出す。日本経済は白鳥の子らしい特徴をもった発育を示しているのに、あひるの目で見れば異常なのかもしれない」(『日本経済は成長する』弘文堂)

これを読んだ時、「えっオレたちは白鳥なのかな。いや、まだアヒルなんじゃないの」なんて言ったものです。ともかく下村さんは断然たる自信を示しました。そんな時にはやったキャッチフレーズが「国民よ大志を抱け」クラーク博士の “Boys be ambitious.” をもじったものです。また「育ちざかりの日本経済」なんてことも言われました。

さて、そういった政策を受けて、すでに頑張りはじめていた各企業は、「政府の後押しがあるならば」とさらにハッスルします。これまでに続けてきた設備投資をもっともっと進めようじゃないかと積極的になっていきました。生産を上げるための設備投資によって生産が上がればさらに投資するというかたちで生産力をどんどん膨らませていきます。

また国民も、月給が二倍になるというのでマイホームへの夢を膨らませはじめます。それまでは、狭い家に何人もの家族がゴタゴタと一緒に住んでいたのですが、昭和30年代半ばからマイホームへの夢が膨らむと同時に、家族の一人ひとりが自分の部屋をもつことをものすごく願うようになりました。

考えてみれば、これが核家族のスタートだったのでしょうが、人間は夢が膨らむにつれて一人になりたいという思いが強くなっていくようです。そして現在、景気も上がらず、国が借金漬けという状態になってしまいました。

物価が高騰する中、それに見あった賃金の上昇を伴う景気を作る、本当の景気対策は、景気とはお金が回る状態、という基本中の基本に立ち返って、生きたお金を市場から吸い上げないことですから、国が借金をしないことです。

金持ちや大企業、公益と称する団体の票を背景に、それらの人や集団に有利になるように改悪されて来た、税制の在り方を、本来あるべき姿に変えていくことが必須です。法人税率を以前のように戻す。これらを軸に具体的なやるべきことはいくらでも出て来ます。

景気対策についても、一人一人が、周囲に何をしてあげられるだろうか、お金を回して、みんなが潤う良い景気を作り出します。それを呼びかけるのが、本当の景気対策というものです。円安物価上昇に見合う賃金引上げを伴う好景気によるお金の循環、それは、制度や仕組みだけではない、一人一人の心によって生まれるのです。

 





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サラエボ事件とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/17(木) 15:54
No. 7194
 
 
1914年6月28日、サラエボにおいて、オーストリア皇太子がセルビア青年に殺害されました。サラエボ事件です。オーストリアがこの事件に対して、何らかの対セルビア行動をとることを、諸大国のすべてが、当然のこととみなしていました。

オーストリアの国内世論も、軍隊の動員を当然のことと受けとめました。こうしてサラエボ事件によってオーストリアは、過去200年にわたりバルカン半島の安定を求めて対抗してきたスラブ民族のナショナリズムに対して、優位を獲得する絶好の機会を得たのです。

とはいえサラエボ事件そのものは、バルカンにおける局地的な事件でした。ドイツやロシア、イギリスなどが直接関与しない出来事です。その意味で、ボスニア危機やバルカン戦争と同様です。ではなぜサラエボ事件は、ボスニア危機やバルカン戦争とは異なり、ヨーロッパ大戦の引き金となったのか?

ここでオーストリアとドイツとの関係が、大きな意味を持つのです。オーストリア=ハンガリーは、このセルビアとの闘いに勝利するために、ドイツの支援を不可欠とみなしました。ちょうど1909年にドイツの対ロシア圧力が有効であったように、ロシアの対セルビア支援を阻止するためには、今回もまたドイツの支援を必要としました。

外相ベルヒトルトは、オーストリア皇帝の親書を持たせた特使をドイツへ派遣しました。これに対しドイツのカイザーは、7月5日にオーストリア特使と会い、ドイツの対オーストリア全面支持の約束(いわゆる白紙委任)を与えたと言われています。

7月14日になってベルヒトルトをはじめオーストリア閣僚会議は、オーストリア=ハンガリー内の戦争消極派を抑えて対セルビア戦争を決定しました。同23日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに対して最後通牒を送り、同28日に対セルビア宣戦布告された。

ドイツはこのときオーストリア=ハンガリーに対し、可能な限り速やかに対セルビア攻撃に入るように圧力をかけました。これは、オーストリアの即座の対抗攻撃の実行が、ロシアに対してオーストリアの強い意志表示となり、ロシアの対セルビア支援を躊躇させることになると考えたからでした。ドイツは、ロシアの動員に脅威を感じていました。

なぜならドイツの戦略が、シュリーフェン・プラン Schlieffen plan と呼ばれる二正面作戦に支えられていたからでした。シュリーフェン・プランとは、ドイツがヨーロッパ大陸の戦争に勝利するためには、対ロシア対フランスという二正面戦争に勝利せねばならず、そのためにはロシアの動員が完了する前に、電撃作戦でフランスを叩き、その後に全勢力を東方へ向けるというものです。

したがって、もしロシアによるドイツ国境への全面的動員が行われれば、ドイツもそれに対抗して東部国境線に動員せねばならない。そうなれば西方国境は無防備のまま、フランスからの攻撃にさらされてしまう。これは、戦わずしてドイツが敗北することを意味した。

もしそうなれば、ロシアとフランスが要求するであろう外交的解決を、ドイツはすべて受け入れなければならなくなる。したがってロシアの動員は、ドイツの外交上の完全敗北となる、とドイツは結論付けました。この点に、ドイツの参戦が必然的にヨーロッパ戦争へ拡大する要因があったのです。

7月28日、オーストリアによる対セルビア宣戦布告されました。ところがロシアは7月30日、ドイツとオーストリア=ハンガリーの思惑に反し、動員を決定しました。動員の理由として、次の三点をあげることができます。

オーストリアによるセルビア支配を避けるため。なぜなら、それがオーストリアによるバルカン支配へ、ドイツによるトルコ支配へとつながるからです。ドイツとオーストリア=ハンガリーによるバルカンや海峡の支配は、ロシアの死活的利益の脅威となるからです。

ロシア社会のあらゆる層の人々が、セルビアと何らかの関係をもっているため。 1909年と違い、フランスが明確にバルカンでの対ロシア支持を表明しているため。もし今、ロシアがドイツとオーストリアに対して後退すれば、今後フランスからの援助は期待できないかもしれないと考えたからでした。

しかしロシアにとってこの動員は、バルカンにおけるロシアの影響力低下を懸念しての、どちらかといえば防衛的目的からの動員であり、いくらロシアが1909年よりも軍事的に強大化していたとはいえ、オーストリアに対する警告以上のものであったとは考えられない。

対オーストリア戦争の意図もなく、ましてや対ドイツ戦争などは決して想定されていなかったはずです。ここにも、たとえ防衛的目的であっても、相手国には攻撃的と思われてしまうという、国際関係を理解する上での重要なポイントの一つを指摘できます。

ところが、対セルビア援助のためのロシアの動員が、結果的には開戦へと道を開いたのです。ひとたび動員へのステップが始まるや、あたかもすべての国々が、敵対国の動員に対して対抗動員をとることが当然のように考えられたのでした。

ドイツは、翌31日にロシアの動員の解除を要求して、対ロシア最後通牒を発し、翌8月1日に宣戦布告しました。続いて同3日にはフランスに対しても宣戦布告しました。8月4日のドイツ軍のベルギー侵入を機にイギリスも対ドイツ宣戦をおこないました。8月6日にオーストリア=ハンガリーも対ロシア宣戦を、同12日にイギリス・フランス両国が対オーストリア=ハンガリー宣戦を布告し、ここに第一次大戦が始まったのです。

 





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布団の干し方
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/17(木) 15:53
No. 7193
 
 
晴れた日に布団を干して、ふっくらした布団に寝るのはとても気持ちいいです。布団を干すと、布団に含まれた水分を蒸発させ、太陽の紫外線によって殺菌され、ダニ退治にもなります。午前10頃〜午後2時頃までが干し頃で、本来は裏と表をそれぞれ1時間ぐらい干せればいいのです。

ところで、布団を干す時、布団をバンバンと叩く人がいますが、それは、何のためだろう?ホコリを叩き出そうという事だろうが、車が汚れたり、近隣にベランダにほこりが舞って洗濯物を汚したりとこれはやめたほうがいいです。

というのは、布団を叩くと布団の繊維が切れたり、傷んでしまうので、弾力性が無くなり固くなって寿命が縮んでしまうのです。しかも、布団の奥にいるダニやホコリを浮き上がらせてしまい、喘息の方やアドピーの方に物凄く悪いのです。

気持ちとしてストレス解消に威勢良く布団を叩きたくなるのも解りますが、折角、日を吸い込んでふっくらした布団をかえって固くしてしまうのです。しかも、何度も言いますが、集合住宅など密集している場所などでは、バンバンすると、髪の毛やホコリが下階へ落ちたり、音が耳障りでうるさいということに気付いていない厚顔無恥の方かマナーが悪い方が多いのは何故なのでしょう?そいつをバンバンしたいです(爆)

余談ですが、先生が生徒に「お前は厚顔無恥だ!!」と怒ったら、生徒が「お願いですから、そこだけはムチをしないでください」と懇願しました。(笑)

 





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吉田茂が総理大臣を降りるとき
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/17(木) 15:51
No. 7192
 
 
鳩山一郎さんの復党で自由党はうまくいくのかな、と思われた矢先の昭和29年(1954)春頃のことです。日本は戦前から練磨した造船技術をもっていますから、各国からの注文をどんどん引き受けていました。その際に計画造船資金というものが利子補給をめぐり、 要するにピンハネですが、造船汚職が明るみに出てしまったのです。

そのトップに吉田茂さんが一番可愛がっている佐藤栄作さんの名があがったのです。彼は当時、自由党の幹事長で、議会がはじまっていたため逮捕はされませんが、4月20日、検察庁から逮捕許諾が請求されます。

これを衆議院がオッケーすれば逮捕できるのを、犬養健法相が「まかりならん」と指揮権発動したのです。検察庁がやろうとしていることを法務大臣が頭から抑えつけるのは前代未聞ですから大騒ぎになり、責任をとって犬養さんはすぐに辞めることになります。でも佐藤逮捕はありませんでした。

当時はほんとうに佐藤さんがポケットに金を入れたのだろうかと思われていましたが、今になれば、一説に、鳩山、三木、河野さんらを自由党に戻すため、戦前戦後にいろいろと困って抵当に入っていた鳩山さんの音羽の御殿(今でもありますね)を救おうとして、佐藤さんが二千万円という大金を都合して渡したと言われています。真実はわかりません。

当時は鳩山さん一派はむしろ佐藤さんをガンガン追及していました。おかげで幹事長を辞めざるを得なくなった佐藤さんは、以来、徹底的な鳩山嫌いになります。そして、その後日本の政治が動いていくなかで鳩山政策へのアンチテーゼの役割を佐藤さんが果たすこととなるのです。

そういうわけで吉田ワンマン内閣が頑張れば頑張るほどごたごたが起こる状況下、政界というのは裏で何が行なわれているのかはわかりません。自由党内の鳩山派、改進党、そして「八人の侍」の日本自由党が密かに会合を開き、吉田打倒のためにはこの際、合同しようという話が密かに進んでいたというのです。

それには自由党内の岸派も含まれていて、11月24日、三者がパッと一緒になって日本民主党が成立しました。吉田さんもおったまげたでしょう。せっかく裏でお金をかけて鳩山さんを復党させたのに、自分の子飼いの佐藤さんや犬養さんが首を斬られただけで、連中は飛び出して別の党をつくったのですから。総裁は鳩山さん、幹事長は岸さんです。

このへんが岸さんの動きの速いところです。手足をもがれてままならぬ状態の吉田さんは、「ちきしょー」と臨時議会を召集してただちに解散を主張しましたが、緒方副総理ら党人グループに「それは無理だ」と反対されます。

頑固な吉田さん、それならばと今度は緒方さんを罷免する。逆にそれがあだとなって大野伴睦さん、松野鶴平さんらに責任を追及され、ついに「アカーン、自由党総裁を降りまーす」と辞意を固めたのです。ということは総理大臣も降りることになります。

党総裁は緒方さんが引き継ぎ、追い出された格好で吉田さんと佐藤さんは自由党を離れて無所属になる。こうして吉田さんの時代はあっさり終わりを告げました。つまり、ここで吉田さんの敷いた路線は一度パァになったわけです。

 





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安保条約改定が成立の夜
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/17(木) 15:50
No. 7191
 
 
雑誌「世界」五月号の、デモ隊をさらに奮起させる大論文が話題になります。これが後々まで語られる名論文でして、清水幾太郎の「今こそ国会へ請願のすすめ」というものでした。一部を読みます。

「今こそ国会へ行こう。請願は今日にも出来ることである。北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群れが東京へ集まって、国会議事堂を取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る。それは新安保条約の批准を阻止し、日本の議会政治を正道に立ち戻らせるであろう」

これが評判になりまして、その呼び掛けに応えるかのように「さあ国会へ行こう」と、各地から多くの人びとが上京してきて、五月から六月にかけて毎日数万の請願デモが国会に押し寄せました。そしてそのクライマックスは六月十五日夜でした。

デモ隊が議事堂の門を突き破って中に突入したことから、警官隊がデモ隊に襲いかかり、それこそ数万人同士の大乱闘になりました。それで午後七時頃、東京大学文学部の学生だった樺美智子さんが、南門でしたか、大混乱のなか転んで踏みつけられて死亡したのです。

その後も火が焚かれ、ライトがつけられて一晩中戦争のような状態が続きました。後の東京消防庁の発表では、重傷43人を含む5百89人が負傷したということですが、もっと多かったのではないでしょうか。それでも岸さんは動じません。

6月16日の会見で、記者から「国民が大きな社会不安をもっている。人心刷新が必要ではないのか」と、暗に「辞めないのか」と質問されても、「私は諸君とは見方が違う。デモも参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」と剛毅な答弁をしたのです。

これが「それでも後楽園は満員だ」とワンポイント・センテンスで伝わりましたから、なにをとさらに反発をかいました。ここでさすがに臨時閣議が開かれることになり、治安が保てないという理由でアイゼンハワー大統領の訪日は中止してもらうことに決まります。

それでも死んだつもりで自然成立の日まで押し切っちゃおうという覚悟でしょう、デモは続けど、とうとう6月19日がやってきます。夜12時が過ぎれば新安保条約は自然成立です。国会を取り巻く約35万人のデモ隊からも、時刻が12時を過ぎた瞬間、心からの大きなため息が漏れたということです。

岸さんはといえば、回顧録によると、18日から19日の朝にかけて佐藤蔵相と二人でブランデーをなめなめ時を待っていたようです。19日の朝がくるとひと言、「棺を蓋いて事定まる」自分が死んだ後にはこの事が理解されるだろう、という意味だと思いますが(出典は中国の「晋書」だそうです)、そんなせりふを残して官邸を去り、私邸に戻ったそうです。こうして岸内閣の目標だった安保条約改定が成立したわけです。

 






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