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  日英協約調印を取り巻く環境  仲條拓躬2023/08/29(火) 16:48 
  岸信介の政権復帰  仲條拓躬2023/08/29(火) 16:47 
  現場感を反映した案がない  仲條拓躬2023/08/29(火) 16:46 
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  小話2023年8月分下  仲條拓躬2023/08/29(火) 16:43 
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  2023長崎の旅日記3日目-2  仲條拓躬2023/08/28(月) 17:26 
  2023長崎の旅日記3日目  仲條拓躬2023/08/28(月) 17:26 






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日英協約調印を取り巻く環境
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:48
No. 7210
 
 
一九世紀末から日英同盟協約締結に至る時期のイギリスの外交政策に関して、特徴的なこととして、次の三点を指摘できます。まず、第一に、イギリスは世界中でロシアとフランスの圧力を感じていたこと。たとえば1882年以来のエジプトをめぐるフランスからの挑戦は、1898年のファショダ事件でその頂点を迎えた。

最終的にはフランスの失敗に終わったが、それでフランスの脅威がなくなったわけではなかったのです。またインド北西部国境やペルシャにおいては、ロシアの圧迫に対抗せねばならなかった。さらに、地中海防衛のための二国標準主義の見直しも迫られていました。

第二に、イギリスは南アフリカ問題の対応に苦慮していたこと。すでにソールズベリ首相は1899年9月に、南アフリカ問題への積極的介入が不可避となったことを認めていた。 イギリスにとってこの南アフリカ問題は、単にヨーロッパにおける孤立といった国際関係の面からだけでなく、国内財政の面からも、その対外政策を拘束していたのです。

当初、500万あるいは1000万、最大でも2000万ポンド余と見積もられていた戦争費用でありましたが、実際には1899年だけで4410万ポンド、1910年には9240万ポンドの軍事支出を記録しました。蔵相ヒックス・ビーチは1901年10月に、軍事費の増大に警鐘を鳴らしました。

第三に、国内にアイルランド問題、海外ではエジプトやインドでの社会不安を抱えていたことである。イギリスの政治家たちの第一義的な関心は、これら諸問題に集中していたため、東アジアの問題などは二義的な重要性を持つに過ぎなかったのです。

こうした状況下にあって、イギリスの対外政策上の選択肢は限られていました。ロシアやフランスの圧迫に対して、イギリスは世界規模の植民地における利益を長期的に守るために、ドイツと同盟を結ぶことによって対抗するか、あるいはそのライバルたち(ロシアやフランス)と何らかの協調の道を探るかであった。ソールズベリ内閣の選択は、後者であった。

ドイツと同盟を結ぶことはすなわち、ヨーロッパ大陸内でのドイツのライバルの国々との永遠の対立を意味する、と考えられたからでした。こうしてイギリスは、ロシアおよびフランスとの和解の道を模索することとなったのです。

しかしこの両国との和解の道が、イギリスが一九世紀の伝統的外交政策といわれる「孤立政策」を放棄し、新たに協商・同盟政策に転換したことを意味するものではなかったのです。日本との同盟協約交渉も、イギリスにとってはロシアとの相互理解を求めた伝統的外交政策の延長線上にあった。

したがって、この協約の目的も、一連の対ロシア政策の目的に合致した、あるいはそれを補完する目的のものであったと考えられます。ランスダウンは、この対ロシアと対日本の二つの交渉をつねに両立させていたが、もちろん対ロシア交渉の方が対日本交渉に優先していた。

しかしロシアは、なかなかイギリスに対して交渉の門戸を開いてはくれなかったのです。結果的に、日本との交渉が進展しました。それは1902年1月30日に、日英協約として調印されたのでした。

 





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岸信介の政権復帰
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:47
No. 7209
 
 
昭和32年(1957)2月25日、岸信介は、なりたくて、なりたくて、しょうがなかった総理大臣にやっとなりました。彼はA級戦犯として巣鴨に入れられました。けれども、いわゆる東京裁判で被告としては裁かれず、準A級戦犯として巣鴨に入っていました。でもGHQの政策の変更で多くの人が間もなく出てきたのです。

岸信介はそのなかの一人です。ちょうど先の東京裁判の判決が下り、東条英機以下A級戦犯七人が処刑された翌日、昭和23年(1948) 12月24日に巣鴨を出所しましたが、すぐに政界には復帰できず、27年の講和調印まで公職追放されていました。

ただいろいろなツテがありますから、ともかく食うには困りませんでした。そして講和条約の発効による追放解除を待って、昭和28年(1953) 4月の総選挙で政界復帰したのです。鳩山一郎以上に強力な憲法改正・再軍備論者です。

ですから、吉田茂が敷いた軽武装の通商国家路線など目もくれず、あんなものは愚の骨頂であるとして、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻すこと」を政治目標とし、対米従属関係を一切払拭して「自由独立」体制を確立するという壮大なる政策目標を掲げました。

そして鳩山一郎が苦心惨憺して作った憲法調査会の会長として憲法改正・再軍備に懸命に取り組みます。さらに、吉田茂が一人で結んできた安保条約は憲法と同様、アメリカに押し切られたものだから、日本の立場がもっと強く出るように変えるべきであるとして、安保条約の改正まで言い出すのです。

安保条約には期限がありませんから、知らん顔していればなんてことないのですが、日本の立場が無視されているからきちんと改正しなければならんというわけです。正直言うと、憲法改正・再軍備ができれば一番いいのですが、かならずしも情勢が許さないのをいくら岸信介でもよく知っていて、せめて安保条約の不平等を正したかったのです。

試みに、内閣が出来上がった時の世論調査を朝日新聞で見ますと、鳩山内閣の時は(内閣ができて) 「よかった」が40パーセント、「よくなかった」8パーセント、その他・無回答52パーセント、国民は吉田ワンマンの代わりに誰が内閣になっても同じくらいに思っていたのです。

そして石橋湛山内閣は「よかった」41パーセント、「よくなかった」11パーセント、その他・無回答48パーセント、まあ鳩山一郎とあまり変わりません。対して岸内閣は「よかった」が33パーセントと低く、「よくなかった」 13パーセント、その他15パーセント、無回答39パーセントだからといって不人気ではなかったのです。

当然、国民の中には強い国家を望む人もいますから。ただ鳩山一郎の時も石橋湛山の時もいくらかブームらしきものはあったのですが、どうも岸ブームは起こらなかったようです。そんなこともあって岸信介は、最初はかなり低姿勢でした。

ただし防衛問題と、とりわけ憲法解釈に関しては低姿勢をかなぐり捨てて、猛烈なタカ派になるのです。たとえば5月7日の参議院内閣委員会で、大胆このうえなく「憲法は自衛のための核兵器保有を禁ずるものではない」と発言します。

日本国憲法をよく読めば、自衛のための核兵器を持つことを禁じてはいない、それどころか持つべきだと言わんばかりの調子でした。いいですか、核兵器を持つことです。これにはおったまげた社会党がただちに内閣不信任案を提出したほどです。もちろん多数の与党に否決されましたが。

また防衛問題にもものすごく積極的で、国防会議がもってきた第一次防衛力整備計画を即座に了承しました。 陸上自衛隊に18万人、海上自衛隊に艦艇12万4千トン、航空機1300機の整備、と過去から見れば倍には届きませんが、かなりの戦備拡張です。

そして、わが国はこんなに国防に力を入れているのですよ、とこれを手土産に岸信介は6月16日、訪米に出発しました。そこでアイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談し、安保条約改定の話も持ち出し、またアメリカ各地で機会あるたびに堂々と演説して強い反共的な立場を明らかにしました。

要旨は次のようなものでした。
一、自由世界を守るためには日米の緊密な協力が必要である。
二、日本は国力の許すかぎり自衛力を増強しようと努力している。
三、日米安保条約を早急に改定したい。
安保改定の具体的な内容を言うのでなく、まずはプロパガンダとして、日本とアメリカが対等の立場で相互に積極的に協力し合う 「日米新時代」の到来を主張したのです。

 





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現場感を反映した案がない
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:46
No. 7208
 
 
未曾有の事故を経験した今なお、東電の体質、やり方は、何も変わっていません。現在の収束作業の指示体系も、これまでの原発運用と同じく、完全なトップダウンです。東電本店が設計図をもとに考え出した作業方針・作業工程を政府や御用学者と調整し(ここには当然、利権が絡みます)、現地の東電に伝えられ、そこから現場に任される仕事が分担される。

現場では、不都合があっても、言われたとおりにやるしかないこのような図式なのは、汚染水浄化設備をめぐるゴタゴタで明白です。収束作業の確実性やスピードを確保するのは、「現場の質」です。そう考えると、本来は、作業方針・工程は、現場からのボトムアップで決められていくべきものだと思います。

専門家は、かの汚染水浄化設備の仕組みを見て、「そもそも、セシウムや放射性物質を除去する必要はないんじゃないか?」と感じたといいます。どうせ、放射性物質だらけの原子炉に戻すのだから、油分や異物などを取り除く水処理をすれば十分ではないかといいます。

高線量で苛酷な環境にある現場でやる作業は、スピーディであればあるほどいい。そのためには、設備は、できるだけシンプルで確動性の高いものがいいはずです。専門家の主張の内容はともかく、こうした現場感を反映した主張、意見、提案が、現場から上がってくるべきではないかと思うのです。

しかし、残念なことに、原発という職場には、「下から意見を上げる」という文化はまったく育っていません。ずっと「指示されたこと以外をやるのは悪いこと」でやってきたのですから、いきなり、東電のおエライさんが、「どんどん意見を言ってくれ」と言ってもムリでしょう。ではどうするか。「カタチ」=体制を変えるしかないと思います。

具体的には、東電と下請けメーカーとがいままでの主従関係を捨て、同等の立場で主張し合える対策本部を現地に作り、そこに権威を与えるのです。下請けメーカーは、現場知のある管理者を置き、意見を吸い上げ、そこで主張する。

このような体制にするべきだと考えます。さらに言えば、原子力村利権の恩恵に浴してこなかったさまざまな業界のさまざまな企業、学識者を集め、外部諮問機関のようなものを設置し、一定の発言力を持たせる必要もあるでしょう。

もちろん、組織だけを作ってもダメです。広く知恵を集める前提として、徹底した情報公開が求められます。その公開される情報は、もっともシビアな監視者である一般国民にも共有されるべきなのは言うまでもありません。

これは、「原子力村を解体する」ということです。長年にわたって、東電が綿密に巧妙に作り上げてきた原子力村という利権集団。それを解体するのは、確かに一朝一夕ではできないかもしれません。

しかし、いまも危機が進行している福島第一原発には、時間の猶予はありません。言い方を変えれば、誰もやろうとしなかった「原子力村解体」は、誰もが経験したことのない事態が進行している福島第一だからできる。いや、やらなければならないのです。

 





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蜜月の時代から対立の時代へ
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:45
No. 7207
 
 
令和四(二〇二二)年九月二十九日、日中国交正常化からちょうど五十周年を迎えた。そして、木村武雄が亡くなってから、まもなく三十九年が経つ。彼は、正常化後の日中関係を十一年間見届け、日中関係の絶頂期にこの世を去った。その後の日中関係の展開は、木村の想像の範囲だったであろうか。

中曽根総理との間で日中蜜月時代を築いた胡耀邦は、昭和六十二 (一九八七)年一月に失脚した。その後、江沢民政権、胡錦濤政権を経て、平成二十四(二〇一二)年に習近平が権力を握って以降、日中関係は冷え込んでいる。

木村が現在の日中関係を見れば、残念な思いを抱いたであろう。しかし、それでも彼は、「日中両国の間に諍いがあっては、アジアは永遠に平和にならない」と言ったであろう。わが国は中国との紛争に備えて防衛力の強化を急ぐ必要がある。

そして、中国に対して言うべきことは言わなければならない。しかし、長期的には、中国の変化を見極めながら、安定した関係を目指すべきではないのか。これまで中国は保守派路線と改革派路線の間を揺れてきた。

現代ビジネス編集次長の近藤大介氏は、「ケ小平やその薫陶を受けた胡錦濤、李克強、胡春華らが目指してきたのは、徐々に社会主義色を薄めていき、市場経済型の国を作ることでした」と述べた上で、「習近平が退けば胡錦濤時代のような市場経済路線に戻るだろうと語っている(『維新と興亜』令和四年九月号)。

筆者は、荒尾精が強調した「東亜百年の長計」から日中関係を考える必要があると考えている。アメリカを恐れる日本の指導者たち 田中角栄失脚のトラウマ。木村武雄が亡くなってから七年後の平成二(一九九〇)年十二月、 マレーシアのマハティール首相は東アジア経済グループ (EAEG、 その後東アジア経済協議体=EAEC) を提唱した。

日本、中国、韓国とASEAN(東南アジア諸国連合)からなるグループを形成し、真に対等、相互尊重、相互利益の原則による共同体を東アジアに作ろうという構想だ。しかし、アメリカはこのマハティール構想に過剰に反応した。

ブッシュ(父)政権のベーカー国務長官は、「どんな形であれ、太平洋に線を引くことは、絶対に認められない。EAEC構想は太平洋を二分し、日米両国を分断するものだ」とEAEGを批判した。

日本はアメリカの強烈な圧力によって、EAECに背を向けてしまったのである。 平成三(一九九一)年十一月に開かれた渡辺美智雄外相主催のベーカー国務長官歓迎夕食会で、「アメリカが入らない組織には、日本も入らない」と事実上のEAEC不参加の密約を交わさせられたとも報じられている(『毎日新聞』 平成三年十一月二十九日付朝刊)。

日中国交正常化がアメリカの逆鱗に触れて以来、日本の指導者たちは、主体的な外交を展開してアメリカを怒らせることを異常に恐れるようになった。 田中角栄失脚のトラウマは今なお克服されていないのではないか。

ただ、多くの政治家、官僚、言論人がアメリカを恐れ、アメリカに阿り、EAEG参加に消極的姿勢を示す中で、堂々とEAEG参加支持を表明した人物もいる。 福田政権時代に外務省アジア局長を務めた中江要介、外務官僚の古川栄一、元朝日新聞記者の林理介らである。

中江は次のように述べていた。「マハティール首相構想の場合にもまた、日本は先に米国の顔色を窺っているのである。米国がノーといえば、一緒になって何かとあら探しをする。 米国がアジアの経済圏構想に反対するのは、米国の覇権主義が邪魔されるからであろう。そのしり馬に乗って構想をつぶすのに加担したとすると、それは日本の政治的役割を放棄したことになる。アジアと反対の方向に向いている日本には、アジアでの政治的役割はない」(中江要介『中国の行方』) 木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂・坪内隆彦 (著)。

 





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小話2023年8月分下
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:43
No. 7206
 
 
現在の我々は自身が生きてきた、現代史です。我々はみんな、まさに、この時代を生きてきているのです。それに実際問題としては、データが完全に出切っていない可能性があります。国際的にも情報公開法といって、30年間は資料を出さないことが認められています。ただし手の内をさらすわけにいかない諜報関係の資料は例外で、30年以後も出てきません。ですからこのあとの時代は、これからぼつぼつ資料が出はじめるわけです。これ以降のことをお話してから新たな資料が出てきて「お前の話と全然違うじゃないか」と言われる可能性も山ほどあります。ここでは「現代史はまだ歴史になっていない」と解釈し、以下は大雑把にまとめるというかたちになってしまいます。終わりは脱兎の如しというわけですが、その前に一度振り返って、我々の祖先は何をしてきたのかということをしっかりと勉強するべきだと思います。
昭和20年(1945)8月15日、明治以来の大日本帝国が突き進んできた道が終わり、新しい道がはじまりました。日本の戦後は波瀾万丈である意味でまことに面白い時代でした。石原莞爾平和思想研究会の会報は国会図書館にそろっているので後世まで残り、興味がある方が研究していただければありがたいことです。

ボクシングでは、井上尚也のスーパーバンタム級、ノックアウトで勝利して4団体統一を果たしました。
野球では大谷も素晴らしい、世界に冠たる日本人が、20代にいます。日本の誇りです。

ススキノの首切断事件の動機は「不同意性交以外にも」と関係者が語り、被害者は瑠奈容疑者だけではないといいます。

ラーメン店を悩ますのは、1000円の壁だといいます。

中国の若者失業率、実際は46.5%と約半数が無職だといいます。

ビッグモーターの街路樹への除草剤散布疑惑騒動でフマキラー株が年初来高値です。

上岡 龍次先生は、中国は難易度の高い台湾侵攻よりも難易度の低い日本侵攻を行う可能性が高いといいます。何故なら台湾軍が防衛を固めており人民解放軍を迎撃する手段を整えているからです。それに対して日本政府は中国との戦争は可能性が低いと見なしていることと国防を在日米軍に依存している可能性があるからです。

福原愛の不倫で別れたのに、今度は子ども連れ去り騒動で「本当に残念な人」との批判殺到しても、彼女の主張が通る可能性があるといいます。

睡眠薬で眠った顔にビニールをかぶせて証拠を隠滅しているのに猿之助の罪状がなぜ「自殺ほう助」なのか。捜査関係者が漏らした「上級国民だから」の言葉です。

太陽極大期という人類最大の危機になれば、これ以上暑くなっていくそうです。

エッフェル塔でポーズした自民党女性の記念写真が大炎上しました。

マインバーナカードに息子の問題で、さらには増税ばかり考えている岸田文雄氏の支持率の下落が止まりません。

ビッグモーター問題で有害な除草剤が簡単に買えてしまう日本は異常でしょう。

新商品が大ヒット中のドミノ・ピザの閉店が相次いでいます。ずるいことをするからでしょう。

慰安婦追慕公園を作った画家が、まさかのセクハラ事件で論争勃発しています。

欧米で高まるウクライナ支援過多への不満にプーチン勝利に追い風です。

猫背でいると、頭が前に倒れるので、重力で顔の筋肉が引き下がり、頬や瞼が下がると、無意識におでこの筋肉で、瞼を持ち上げようとして、おでこにシワが作られてしまうといいます。顔のたるみと深く関係している表情筋は、首、肩、胸の筋肉とつながっていて、なかでも、後頭部から背中にかけてある僧帽筋は、顔全体を後ろから引っ張る役目を持っているので、猫背の姿勢が続くと、この僧帽筋が硬くなって柔軟に伸縮できなくなり、表情筋も働きにくくなってしまうのだそうです。猫背は、顔全体のたるみはもちろん、老いを感じさせるシワを作り出したり、血液やリンパが流れる力弱くなるため、血行が悪く、顔のむくみの原因にもつながるので、普段の姿勢を正す習慣を心がけましょう。

自民女性局パリ研修は総額7千万円近くの血税が使われていました。

ススキノ首切断事件、一家で団結した完全犯計画者は父親か。

今夏の猛暑、貧血などで倒れたら、大火傷します。倒れたとしても誰も助けたりしてくれません。

ビッグリモーターのLINEパワハラは常態化されています。

「イチゴ」「レモン」「メロン」のかき氷のシロップは全て同じ味なのです。

世界中からウクライナに向けられる停戦圧力にゼレンスキーの絶望。

薬物問題の日大アメフト部、林真理子先生への忖度報道はあるのか?

要潤が、女性専用のマッサージ店を経営計画に下品すぎる裏の顔です。

魚沼産コシヒカリ生産量の30倍超が流通している異常は、ブランド米「産地偽装」のやりたい放題です。

 





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小話2023年8月分上
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/29(火) 16:42
No. 7205
 
 
アメリカが今も原爆投下を肯定し続ける理由は、核好き自民政権の大罪でしょう。

大沢たかおのキングダムの再ブレークで蘇る熱愛報道に綾瀬はるか「別れろというなら女優を辞める!」 とのことです。

ラクサが日本で大ヒットしています。シンガポール料理は美味しいです。

ビッグモーターは会社のフリした反社勢力です。

セブン、おにぎりへの異物混入で広がる波紋。素早い謝罪にくわえ工場への「ゴキブリ」等の低評価コメントを即消去も製造会社の株価は暴落です。

ビックリモータスの話題が連日報道されています。2022年度の中古車販売市場規模は、3.9兆円です。その市場のトップ企業は推定5800億円、市場占有率は約15%です。そのトップ企業は、以下の「経営理念」を掲げています。常にお客様のニーズにあったクオリティの高い商品、サービス、情報を提供する。目標利益を確保して会社を存続発展させる。社員の生活安定向上を図る。掲げている理念のうち目標利益確保だけしかやっていなかった。上司の設定したノルマを達成すれば高給が与えられ、できない命令に反抗すれば降格。さらに、環境整備点検という名の実地視察で副社長、常務、本部長等の幹部が理念を隅々まで浸透させたのでしょう。

なぜロイヤルホストの業績はコロナ禍前を上回ったのか?。そういえば、コロナ禍ではロイヤルホストによく行っていました。

なぜ日大アメフト部は、薬物情報が執行部に伝わるのが遅れたのか。

昭和レトロでフラミンゴを見ながら食事をするレストラン「メヒコ」が再ブレイクです。

ブロッコリーは野生キャベツから生まれた野菜だといいます。
カロチン、ビタミンA・Cが豊富で、ビタミンCはレモンの2倍です。
皮膚や粘膜の抵抗力を高め、美肌効果があり、シミ・ソバカスを防ぐ働きがあります。

また、癌や風邪の予防効果があります。

羽生結弦の結婚相手は美人ピアニストとの噂です。

山口県上関町の核燃料中間貯蔵施設プランは核のゴミを「永久」貯蔵する羽目になります。

ビッグリモーターみたいな質の悪い企業のCMをタレ流す民放テレビ局は金さえ払えばなんのCMでも流すのであろうか。

台湾に連帯示すのは当然だと麻生副総理の発言を非難する中国。

中国にマイナンバー情報500万人分が大量流出したといいます。

死ぬまで働く日本人に世界はびっくりしています。

不安しかない香川照之、31歳下の元タレント再婚妻。

安倍元総理「国葬」招待者の74%が黒塗り不開示の「黒葬」だったと言っています。

防衛費のためにNTT株を売る岸田政権、国防の重要企業を手放して大丈夫なのであろうか。

山田養蜂場、社長の次男が盗撮や児童ポルノ法で逮捕されました。

インボイス制度で声優が大量廃業の危機、アニメ業界は衰退必至です。

担任の先生が生徒に「お前は厚顔無恥」だと叱ったところ生徒が何を勘違いしたのか「それだけはやめてください」と「睾丸ムチ」と勘違いした。

カナダは60%が水力発電で賄っており、電気代は日本の半額です。

まるで自分のお金のようにバラ撒かれている税金。なぜ国民が納得できない支出と増税ばかりなのか。

迷惑な弾丸登山を行い野宿の横行でカオス化する富士山。入山者数の調整のため安すぎる入山料の大幅値上げもやむなしとの声。

サムスン依存で沈む韓国経済、GDPトップ10から脱落しました。

国土交通省より公示地価が発表されました。全国平均は前年比で1.6%上昇し、2年連続上昇です。伸び率はリーマン・ショック以来の15年ぶりの高水準となっています。

不適切な請求もスルーしているという疑惑。ビッグモーターと損保ジャパンの怪しい密約関係

ウクライナでは東部・南部では激しい戦闘が続いていますが、戦線はおおむね膠着状態です。クリミア橋への攻撃や、ロシアによるウクライナ各地へのドローン・ミサイル攻撃なども目立ちます。ニューヨークタイムズはロシア・ウクライナ両軍の死傷者が約50万人に達したとの推計を報道しています

中国の乱獲や処理水放出で秋刀魚、今年もまた高値です。

ブルーライトカットの効果なしとの研究結果に「JINS、5000円返して!」との声が上がっています。

 





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日中平和に情熱を燃やした木村武雄
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/28(月) 17:48
No. 7204
 
 
木村武雄は田中政権時代から交渉が開始されていた日中平和友好条約の締結を成し遂げたいと考えていました。ところが、「反覇権」条項をめぐって日中間の交渉は暗礁に乗り上げていた。日中共同声明には「アジア・太平洋地域で覇権を求めるべきではない」という条項が含まれていたため、中国の条約案には「反覇権」条項が入っていた。

しかし、日本は「反覇権」が特定の国を対象としたものであると受け取られことを避けたかった。このため、交渉は停滞した。昭和五十一 (一九七六)年は日中双方にとって木村にとっても多難な年だった。中国では、周恩来、毛沢東の死去や四人組の逮捕などの混乱状態が続いていた。

ところが、昭和五十二(一九七七)年七月、前年に失脚したケ小平が復活すると局面が変わった。木村はすでに七十五歳になっていたが、なおも日中平和友好条約締結に情熱を燃やすのだ。同年九月、木村は浜野清吾が率いる日中友好議員連盟の訪中団として北京を訪れた。

この時、ケ小平は「福田首相に期待している。いろいろなこと、問題もあろうが、この問題に限っては、一秒間ですむことだ。一秒とは、「調印」の二字である」と語った(田才徳彦「日中平和友好条約交渉」『埼玉女子短期大学研究紀要』平成二十八年九月)。これ以降、条約締結への動きが活発になってくる。

結局、「反覇権」条項については、「この条約は第三国との関係に影響を及ぼさない」との一項を盛り込むことで決着がつき、昭和五十三(一九七八)年八月、園田直外相と中国の黄華外相が条約に署名した。条約は十月に批准され、同月二十二日にはケ小平副総理が来日した。中国の国家指導者として初めての訪問だ。

ケ小平は、日中平和友好条約相互批准書交換式に参加し、新日鐵や日産自動社など、日本の代表的な企業の工場を視察した。この訪日の際、ケ小平は田中邸を訪問している。ケ小平が「改革開放」を開始するのは、その二ヵ月後のことだ。

原則を確認の上、「日中友好二十一世紀委員会」の設立を決定したのは、その三日前のことである。木村の最後の願いが叶ったように見える。木村の死去を受けて、自民党山形県連会長(当時)の近藤鉄雄は、「木村先生は自民党の主流にありながらも、常に野党的な反骨、批判精神を持ち続け、時流の中に決して埋没することのない政治家だった」と語った。

十二月十一日に米沢市の市立体育館で行われた告別式では、天皇、皇后両陛下、中曽根総理、インドネシアのスハルト大統領から贈られた生花などが飾られ、故人ゆかりの約三千五百人が出席した。中曽根総理から寄せられた「国家のためかけがえのない偉大な政治家を失い、哀悼にたえない」との弔辞が代読された。木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂・坪内隆彦 (著)参照。

 





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木村武雄の交通事故
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/28(月) 17:46
No. 7203
 
 
木村武雄を、交通事故が襲った。実は、田中が大平と会った五月五日には、「三木おろし」のため第一回会合が東京で予定されていました。山形県各地で時局講演会を行っていた木村は、五月三日に最終の天童市での講演を終え、同日午後十時に東京に向かった。

東北自動車道を走行していたところ、栃木県塩屋町接骨木で、木村を乗せた車が大型トレーラーに衝突した。 前夜からの雨で道路が濡れていたため、大型トレーラーがスリップし、横向きに進路をふさいでいたのです。運転していた秘書の永沢憲は頭の骨を折り、病院に運ばれる前に亡くなりました。

木村も大怪我を負い、意識不明のまま栃木県大田原市の高橋外科病院に緊急搬送された。その後、東京女子医大病院に運びこまれたが、左足の甲から多量の出血があり、額から頭にかけては穴があいて肉が突出し、四針縫う重傷だった。

医師は、完全に回復するのは難しいかもしれないと宣告していたという。ところが、入院から21日目、木村は奇跡的に意識を取り戻したのです。当時のことを木村は、自伝の中でこう書いています。意識が明瞭になり始めた頃、眠っている私の枕もとに石原将軍が現われた。

「おい、木村君、なんだ君は、こんな重大なときに寝込んでいるとは。日本はアジアで孤立してしまったんだぞ。今や世界に見捨てられ、このままでいくと十年後には大変なことになる」将軍が例の厳しい口調でこういうのである。

私は汗でぐっしょりになり、目が覚めた。石原将軍の言葉が耳に残り、責任感にかられて、もうベッドに横になってはいられないと、あちこちに電話をかけはじめた。それからというもの、私の病状は信じられぬほどのスピードで回復し、食欲も出、入院して40日目、どうやら普通食を残さず食べられるほどになったのです。

政界では「木村の現役復帰は難しい」と噂されていたが、木村は復活した。ところがその矢先、7月27日に田中角栄はロッキード事件で逮捕される。親父が「三木おろし」に動き出す最中の事故でした。あの事故によって「三木おろし」の動きが一旦止まってしまいました。そして、七月には田中総理の逮捕です。

あの事故させなければ、と悔やまれます。親父の事故は田中総理の動きを止めるための謀略だったのではないかと言う人もいます。しかし、木村は事故にも田中逮捕にも決してへこたれなかった。その直後『週刊ポスト』のインタビューに答え、こうまくし立てている。

「とにかく田中が拘置所から出てくるときには迎えにいってやろうと思っている。それもウンと派手にだ。大いに示威運動のようにやるんだ。今の国会議員連中は腰抜けになっていて度胸がないから言うべきこともよくいわん。これじゃだめだ。 義理人情がなくなれば、動物の世界と同じじゃないか」

(「元帥・木村武雄が吹く中角栄 義賊論”をどうみる」『週刊ポスト』 昭和五十一年八月二十七日号) 木村はこう述べて、自分の事故によって頓挫した「三木おろし」の運動を再開すると宣言したのである。三木は、衆議院解散によって党内の指導力回復を目指したものの、党内は解散阻止の声に満ち、衆議院解散権の行使ができないまま、衆議院の任期満了を迎えた。こうして同年十二月五日に総選挙が行われることになった。

十一月十五日の告示以来、木村は朝五時に家を出て、夜の十時に帰宅するといった壮絶なハードスケジュールをこなしていた。「週刊サンケイ』 (十二月九日号)に載った「“元帥” 木村武雄、山形を快進撃!」と題した記事には「この五月に交通事故で重傷を負った元帥が朝五時から飛びまわっているなんて、実際に会うまでは信じられなかった」と書かれている。

さらにこの記事は、こんな木村の言葉を紹介している。「今の政治は、日本も世界も低調だよ。その原因は、ルーズベルト、チャーチル、ドゴール、毛、周恩来という名だたる政治家がいなくなったからだな。 政治談議がなくなったからだな。誰か一人でもそういう政治家が出ていけば、活発になるのだな。おれが、五月の事故以来、発言しないから低調になったんだな」

この選挙で、木村は見事に当選を果たした。田中角栄もトップ当選した。しかし、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣が発足するのです。木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂・坪内隆彦 (著)。

 





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2023長崎の旅日記3日目-2
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/28(月) 17:26
No. 7202
 
  食事を済ませた後、平和公園に向かいました。平和公園に着いたとき、落雷が鳴り、小雨が降ってきました。なんか、涙なのかと思わせるようなタイミングでした。平和祈念像で黙祷しました。今はとても美しく整備された長崎の街が原爆の被害に遭ったなんて想像できません。立っているだけで汗が噴き出すくらい暑かったですが、小雨で冷やされました。

原版が投下された直後は焼き尽くす熱さはどれほどだったか。このあたりには原爆投下当時、長崎刑務支所があったそうです。建物は一瞬で消え去り、約130人の受刑者らが亡くなったのでした。曲がった鉄骨がいかに高温だったか物語っています。爆心地公園は、70年は草木も生えないと言われたことに抵抗するように草木が生い茂っていました。

原爆資料館ではガイドさんをお願いして説明を聞きました。浦上天主堂の柱被曝当時の地層やお茶碗などの生活用具が砕け散った様子が見られます。今は涼を与えてくれる美しい川も当時は死体で埋め尽くされたそうです。平和公園の石碑に書いてあった油の浮いていても喉が渇いて水を飲んでしまったというのはこのことかと感じました。

この町内の方は防空壕にいた少女一人を残して全員亡くなられたそうです。資料館は、新しくて綺麗なミュージアムです。地下を利用した螺旋通路が美しい。投下時間で止まった時計。投下当時の街が再現されています。廃墟を見つめる浦上天主堂のマリア様の眼差しには言葉がありません。ファットマンのレプリカ。こんなに小さな爆弾一つで…。

本当に恐ろしい兵器です。爆心地側の部分が熱線により焼けた橋げたなど原子爆弾によって破壊された建物の一部が移設されています。原子爆弾の悲惨さ、凄惨さがダイレクトに伝わってきます。やはり本物の存在感は圧倒的です。広島の広島平和記念資料館にも設置されていました。パネル展示のみならず、動画による映像展示も充実していました。

特に、戦後の先進国による核兵器開発競争が加速化し、核兵器実験の様子、核兵器弾頭数が加速度的に増殖している様子。日本の2発の原子爆弾の悲惨さは、まったく核開発競争の抑止につながらなかったという歴史的事実があります。ニュースで核について今も見聞きしますが、その核の実態はこの惨状。子どもたちには心に留めておいてほしいです。

平和公園の後は路線バスでJR九州ホテル長崎に向かいました。長崎空港へ行くリムジンバスの時間はまだなので隣接しているデパートで涼みました。長崎空港は1975年に開港した世界初の本格的な海上空港です。昔からターミナルであり、ところどころ改修はしているものの、クラシックな空港であります。

手荷物検査入り口に異国情緒漂うあたりは何とも長崎らしいです。そして、青とか赤が飛んでいるのに手荷物検査場はソラシドエアーのためか緑色であります。空港はそこまで広くもなく、お土産屋さんもギュッとコンパクトなので疲れません。

JAL手荷物検査近くを歩いていると近藤という名札のついているJALの方に声をかけられました。「荷物をお預けになりますか」私が「機内に持ち込みますので必要ないです」というと「荷物を検査させてください」といわれ、重さを計っていた。7sだった。「問題ないでしょう」というと家族のものも計らせて欲しいと言い出した。

「家族のキャリーバックも機内持ち込み用にしてわざわざ小さいものを購入したばかりで、ANAだが国内どこにいくのも機内持ち込み駄目だといわれたことはないし、国際線のシンガポール航空もルフトハンザも中華航空もこのバックを機内持ち込みで旅をしてきた」と話したのだが、冷酷な悪魔みたいな表情で「航空券を見せてください」「家族の荷物もはかります」と言ってきかない。

家族の鞄を計ったところ10s以下でした。それでも機内に持ち込めないという。「なぜだ」というと「手荷物があるからです」という。「そんなこと言われたことがないJALだけの規則なのか」と言っても無言で他の人を呼んで預けられてしまった。最終便で帰り、次の日は早朝から仕事やバイト学校なので大変なので機内持ち込みにしていたのになぜ、理由もなくこのようなひどい事するのか。

お土産を購入してカバンに入れるスペースを開けていた。また、夜飲む薬も入っていた。JTBを通したためにJALになってしまった。この飛行機は乗るものじゃないと思った。協会関係の団体旅行も二度と使わないと思う。しかも、JALの飛行機は40分遅れて羽田に到着した。終電がギリギリのところ荷物がなかなか出てこない。

家族には疲れているのに悪いが重い荷物を持たせて電車の乗り換えは走らせた。キャリーバックのタイヤが破損した。楽しい旅行だったのに最後に長崎空港で罪人のような扱いをされ本当に嫌な思いをした。子供たちに嫌な思いをさせてとても申し訳なかった。

 





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2023長崎の旅日記3日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/08/28(月) 17:26
No. 7201
 
 
JR九州ホテル長崎をチェックアウトして荷物をフロントに預かっていただき、路面電車を利用して、クルーズの乗船所に向かった。軍艦島上陸ツアーは、連日国内外から多くの方が乗船しており、この日も外国のお客さんが参加していました。船内では、ガイドがオリジナルの資料をモニターに映しながら軍艦島の説明をするのです。

長崎港を出港して約40分、いよいよ軍艦島が見えてきました。黒い鉛の塊のように見える巨大なシルエットはまさに「軍艦」です。島内に上陸後は、安全と文化財保護の観点から、指定されたエリアのみを見学することになります。

軍艦島の大きさは新宿駅とほぼ同じサイズです。小さな島に、最盛期には約5300人もの住民がひしめき合うように暮らしていたというから驚きです。最盛期(昭和34年)の人口密度は東京都の約6倍です。世界一の人口密度で、この記録は現在も破られていないそうです。炭鉱の現場は24時間稼働の不夜城です。

より多くの人が生活できるよう、1916年には日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設されました。農作物を育てる場所がなかったため、アパートの屋上には日本初の「屋上菜園」が設けられました。神社もお寺もあるそうです。火葬はできません。

「端島小中学校」の跡。鉄筋コンクリート7階建てで、1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、図書室、音楽室、7階には理科室などの特別教室があったそうです。世界一の人口密度だった軍艦島は、子どもの数が多く、島には子どもたちのためのプールもありました。

水源のない島のため、真水ではなく海水を使ったプールだったそうです。日本の近代化を支えた産業遺産として2015年、世界文化遺産に登録された軍艦島。閉山から40年以上経った今、実際にその現場に上陸してベテランガイドさんの説明に耳を傾けると、廃墟の中にも当時の様子を想像することができます。

レンガ造りの建物は、鉱山の中枢である総合事務所の跡。内部には炭鉱マンのための大きな共同浴場もあったそうです。坑道の内部はもちろん真っ暗で、気温30度、湿度95%。まるで岩盤浴のような環境の中で、ガス爆発や落盤など死と隣り合わせの危険な作業に従事していた炭鉱マンたち。「一度入ると二度と出てこられないかもしれない…。」

そんな思いを抱えながら降りるこの階段は、「いのちの階段」と呼ばれていたのだそうです。ただし、給料は非常に高かったようで、この島で働いていた方の話によると、給料は孫請の作業員でも県庁の一般職の2倍ほどです。また、全国的にテレビ普及率が25%だった頃、軍艦島のテレビ普及率は100%です。

他にも最新の電化製品などが多くの家庭で普及しており、しかもアパートの家賃は全て無料(会社負担)。軍艦島の人々は非常に豊かな生活をしていたようです。なんと100年以上も前に建てられた7階建てのアパートで、歴史を語るうえで重要な核となるものです。

中庭に吹き抜けの廊下と階段があり、採光や風通しに優れたモダンなデザイン。地下には売店もあったのだそうです。むき出しになった内部には、机などが当時のまま残されています。軍艦島(端島)は世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつですが、世界遺産的な価値は島の礎であるこの護岸にあります。

明治時代、石灰と赤土を混ぜた「天川」と呼ばれる接着剤を使った石積みの護岸は、長い間波に揉まれながらも島を守り続け、特有の景観を形作っています。精選された石炭はこのベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船へと積み込まれたそうです。「緑なき島」といわれた軍艦島ですが、今ではこんなに緑が溢れています。

廃墟かの地面から力強く生える草が印象的でした。船に乗り込み、往路とは反対側を眺め長崎港に戻ります。暑い中のクルーズとなりましたが、九州地方がすべてが雨なのに長崎だけが晴れて無事に上陸できたことはありがたい事でした。

長崎港からは路面バスを利用して平和公園に向かいました。近所の長崎生まれの友人が長崎に行ったら必ず居酒屋で食事をするべきだと教えてもらったのでお昼にやっている居酒屋に入りましたが、おいしくなかったかな。お店は狙いをつけていくべきです。

 






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