|
一九世紀末から日英同盟協約締結に至る時期のイギリスの外交政策に関して、特徴的なこととして、次の三点を指摘できます。まず、第一に、イギリスは世界中でロシアとフランスの圧力を感じていたこと。たとえば1882年以来のエジプトをめぐるフランスからの挑戦は、1898年のファショダ事件でその頂点を迎えた。
最終的にはフランスの失敗に終わったが、それでフランスの脅威がなくなったわけではなかったのです。またインド北西部国境やペルシャにおいては、ロシアの圧迫に対抗せねばならなかった。さらに、地中海防衛のための二国標準主義の見直しも迫られていました。
第二に、イギリスは南アフリカ問題の対応に苦慮していたこと。すでにソールズベリ首相は1899年9月に、南アフリカ問題への積極的介入が不可避となったことを認めていた。 イギリスにとってこの南アフリカ問題は、単にヨーロッパにおける孤立といった国際関係の面からだけでなく、国内財政の面からも、その対外政策を拘束していたのです。
当初、500万あるいは1000万、最大でも2000万ポンド余と見積もられていた戦争費用でありましたが、実際には1899年だけで4410万ポンド、1910年には9240万ポンドの軍事支出を記録しました。蔵相ヒックス・ビーチは1901年10月に、軍事費の増大に警鐘を鳴らしました。
第三に、国内にアイルランド問題、海外ではエジプトやインドでの社会不安を抱えていたことである。イギリスの政治家たちの第一義的な関心は、これら諸問題に集中していたため、東アジアの問題などは二義的な重要性を持つに過ぎなかったのです。
こうした状況下にあって、イギリスの対外政策上の選択肢は限られていました。ロシアやフランスの圧迫に対して、イギリスは世界規模の植民地における利益を長期的に守るために、ドイツと同盟を結ぶことによって対抗するか、あるいはそのライバルたち(ロシアやフランス)と何らかの協調の道を探るかであった。ソールズベリ内閣の選択は、後者であった。
ドイツと同盟を結ぶことはすなわち、ヨーロッパ大陸内でのドイツのライバルの国々との永遠の対立を意味する、と考えられたからでした。こうしてイギリスは、ロシアおよびフランスとの和解の道を模索することとなったのです。
しかしこの両国との和解の道が、イギリスが一九世紀の伝統的外交政策といわれる「孤立政策」を放棄し、新たに協商・同盟政策に転換したことを意味するものではなかったのです。日本との同盟協約交渉も、イギリスにとってはロシアとの相互理解を求めた伝統的外交政策の延長線上にあった。
したがって、この協約の目的も、一連の対ロシア政策の目的に合致した、あるいはそれを補完する目的のものであったと考えられます。ランスダウンは、この対ロシアと対日本の二つの交渉をつねに両立させていたが、もちろん対ロシア交渉の方が対日本交渉に優先していた。
しかしロシアは、なかなかイギリスに対して交渉の門戸を開いてはくれなかったのです。結果的に、日本との交渉が進展しました。それは1902年1月30日に、日英協約として調印されたのでした。
|
|