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  江戸幕府が倒れる  仲條拓躬2023/11/14(火) 18:17 
  バターン死の後進の真実  仲條拓躬2023/11/14(火) 18:16 
  タイパとコスパについて  仲條拓躬2023/11/09(木) 18:11 
  直接対話を嫌う若者の問題点  仲條拓躬2023/11/09(木) 18:10 
  20世紀の戦争の本質  仲條拓躬2023/11/06(月) 20:54 
  日本のマスメディア  仲條拓躬2023/11/06(月) 20:53 
  富国強兵とは  仲條拓躬2023/11/06(月) 20:49 
  日清戦争の始まり  仲條拓躬2023/11/06(月) 20:48 
  受診するときのマナー  仲條拓躬2023/11/02(木) 16:09 
  危ないスパムメール  仲條拓躬2023/11/02(木) 16:08 






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江戸幕府が倒れる
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/14(火) 18:17
No. 7270
 
 
幕府が朝廷の許しをえないまま通商条約を結んだことで、天皇をとうとぶ尊王論が高まりました。また、外国の勢力を追い払おうとする攘夷論も高まりこれらの考えは尊王攘夷運動となってあらわれました。

尊王攘夷運動の拡大をおそれた幕府の大老井伊直弼は、幕府に反対する大名や武士、公家らを処罰しました。それが、世にいう「安政の大獄」です。しかし、1860年、江戸城の桜田門外で暗殺されてしまいました (桜田門外の変)。

このような中、尊王攘夷運動の中心であった長州藩 (山口県) は、下関で外国船に砲撃をおこないました。一方、生麦事件ののちイギリスと薩英戦争を経験し、攘夷ができないと考えた薩摩藩は幕府側について、京都から長州藩士を追い出しました。

この時期に下関の砲撃事件の仕返しとして、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を占拠しました。欧米の強さを知った長州藩は、攘夷ができないことを知り、長州藩を征伐しにきた幕府に従う事を決めました。

攘夷ができない事を知った長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らは、幕府を倒して欧米に負けない国づくりをしようと考えました。そして、坂本龍馬の仲立ちで、西郷隆盛や大久保利通らが実権をにぎる薩摩藩と長州藩とが密かに薩長同盟を結び、幕府を倒す大きな勢力となっていきました。

薩長同盟ののち、幕府は再び長州藩に軍隊を送りましたが、今度は薩摩藩の応援もなく、敗れてしまいました。一方、乱れた世の中をあらためる「世直し」を期待した農民一揆が全国で多く起こるようになりました。

また、「ええじゃないか」とはやしながら熱狂する民衆の騒ぎが東海から西日本にかけておこりました。このような中、15代将軍・徳川慶喜は、徳川家が新しい政権のなかで主導権を握ることを考え、政権を朝廷にかえしました。これが大政奉還です。

一方、西郷隆盛や岩倉具視らは朝廷を動かして、王政復古の大号令を出しました。これによって、長く続いた武士による政治がおわりました。大政奉還ののち、新政府の方針に不満をもつ旧幕府の勢力が、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いをはじめました。

そののち、旧幕府勢力は上野 (東京都)、会津(福島県)などで政府軍と戦いましたが負けました。最後に1869年5月、五稜郭の戦い (北海道)で旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争とよばれる戦いは終わったのです。

 





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バターン死の後進の真実
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/14(火) 18:16
No. 7269
 
 
アメリカとスペインが衝突して、のちに太平洋戦争に繋がる伏線となり、日本にとっては重みのある戦争でした。アメリカはスペインの太平洋・大西洋艦隊を撃破して勝利しアメリカはスペイン領だったフィリピンを獲得し、海軍の拠点を置いたことにより、南太平洋の覇権を狙う日本との対立拠点となってしまうのです。

その、フィリピンのミンダナオ島の山岳地帯で60年間も生活していた旧陸軍中隊長、山川吉雄中尉87歳と中内続喜上等兵83歳とみられる2人が現地で保護されたと過去に報道されたことを覚えているでしょうか。

お二人とも高年齢のため早く帰国させてあげたいのですが、戦線から離脱したことで日本にて軍法会議にかけられ銃殺されるのではと60年の時が経過しても強く恐れていると言います。さらに同じ島の山岳地帯に40人以上の旧日本兵が生活していたといいます。

お二人が所属していた第三十師団は、昭和18年6月、平壌で編成された陸軍の精鋭部隊で対ソ連戦の訓練を受けていました。昭和19年4月、ミンダナオ島防衛のため出陣。第三十師団同16の部隊で構成され、戦死者は1万2000人だといいます。

第三十師団は昭和同19年7月に上陸して、9月にアメリカ海軍による空襲を受け、昭和20年4月、自給自戦を命じられ別々となり、北部のワロエというところに再度集合することになっていました。小人数で山岳部を異動中に終戦を迎えたため引き揚げの時に合流できずに、残されてしまったそうです。

以後、山川中尉らはミンダナオ島南部のブルアム湖近辺を拠点に生活していました。お二人は現在、南部サウスコタバト州ゼネラルサントス市郊外のイスラム教国の支配地域に保護されています。フィリピンでは、北部のルバング島で昭和49年、ジャングルに潜伏していた小野田寛郎陸軍少尉が救出されて以来30年ぶりの奇跡の生還となります。

また、その2年前の昭和47年にはグアム島で、日本兵の横井庄一氏が見つかりました。彼らは戦争の終結がわからず、上官が任務終了を伝えて軍刀を返却したのをみて何とも表現できない不思議な気持ちで胸を打たれてしまいました。

フィリピンといえば、ルソン島での「バターン死の後進」は歴史の教科書に登場する有名な出来事ですが、真実は違います。アメリカ・フィリピン軍が降伏したとき、日本軍は降参した捕虜7万余人を、炎天下の中、十分な水も食糧も与えずに、収容所まで徒歩で移動させ多くの死者がでた。

アメリカはこれを国際法違反の残虐な「死の後進」と非難して、日本兵を死刑にしたのです。この移送で多くの死者が発生したのは、日本軍が計画的な行為や怠慢によるものだとアメリカは指摘しましたが実はそうではなかったのです。

捕虜をバターン半島にそのまま放置していたら食糧も不足しており、マラリヤが多発していたから、捕虜を移送したのは適切な措置だったのです。マラリヤを治療する薬は少なく、日本兵自体にも多数のマラリヤ患者が発生していたのです。

日本軍は徒歩移動が当たり前ですが、アメリカ・フィリピン軍では車両移動が当たり前だったため、徒歩行進によって受けた苦痛は日本側にはわからないことでした。また、日本軍から支給される味噌汁や牛蒡を木の根っこだと食べない捕虜もおり、栄養失調で倒れる原因となったと言います。最善と信じて行なわれた行為が悲惨な結果をもたらしてしまったのも事実なのです。

 





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タイパとコスパについて
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/09(木) 18:11
No. 7268
 
 
「タイパ」とは、タイムパフォーマンスの略語です。一瞬にして世界に情報が流れていく現代において、限りある時間を大切にしようと切実に感じる人が多いのではないでしょうか。タイパを重視する具体的な例としては、映画や動画を倍速で見る。電子レンジなどを利用して調理や食事の時間を短縮する等があります。

映画や動画を倍速で見る若者のことは以前から話題になっていました。インタビューの中には、「1時間の動画を1時間かけて見るのは時間を損した気分になる」というのです。また、倍速が当たり前となった人にとって、普通の会話は間延びしていると感じるそうです。

ある調査によると「タイパを重視する理由」の1位は「自分が価値を感じることに時間を割きたい(49%)」だそうです。自分にとってあまり価値がないものに割く時間を短くし、価値があるとするものになるべく時間をかけたいということです。

「コスパ」は、コストパフォーマンスの略語です。日本では、安くても品質のいい品物を購入することをよしとする風潮があります。消費者としてはあたり前かもしれません。その反面、伝統工芸品などの値段の張るものを買う層が減り、問題も出てきています。

実際、タイパに関連しては既に問題が発生しています。昨年11月、映画を10分程度に編集した違法な動画「ファスト映画」をネット上に公開した罪で東京地裁が5億円の賠償命令を出しました。賠償金額は再生数を考慮してのものだといいます。

ファスト映画だと、細かい部分とかじっくり感動に浸るとか、できないと思ったのですがタイパを重視するあまり違法アップロードの動画を気軽に見てしまう人が多くいるという事実に驚いてしまいました。安い・早いだけでなく、何に重点を置きたいのかという自分の価値観を把握した上で、コスパとタイパを追求してほしいと思います。

 





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直接対話を嫌う若者の問題点
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/09(木) 18:10
No. 7267
 
 
平成生まれの最近の方はガラケーを知りませんでした。中学生の頃からスマートフォンが身近にあった世代は、電話や直接の対話が苦手な傾向があると言われています。これは学生だけの話ではなく、就職して企業の業務を行う段階になっても、電話で話すのではなく、なるべくメールやラインなどでやり取りを行いたいと思っているようです。

現在の若者の傾向として、価値観が異なる相手とは話したくない、相違を受け入れたくないというものがあるようです。意見が違う相手とは交流せず、対立やぶつかり合うことを避けてきた人が多いのです。しかし、仕事をする上で、意見が合わない相手との話し合いはどうしても避けられないでしょう。

相手が話している内容はもちろん、感情を読み取り、相手の考えや落としどころを探っていくという対面でのコミュニケーションは、場数を踏むことで培っていくものだと思います。避けてしまうとこれを鍛えることができないでしょう。むしろ高める機会を意識することが重要だと思われます。

書かれた文章だけのコミュニケーションでは、相手の意図や感情を正確に理解するのは難しいです。特にSNS上では、文章の解釈に誤りが生じやすく、それが対立や誤解を招くことも多々あります。ジョークなどを書いたとしてもSNS等では、ニュアンスが伝わりにくく、皮肉と受け取られるなど、誤解が生じる可能性があります。

対面での会話や交流を減らすことで、個人同士の繋がりや信頼感が弱まる可能性が考えられます。文章が上手い人でも事務的に冷たく見られたり、メールの文面から相手がどういう人かを読み取るのは非常に難しいのです。対面や電話で話すことが、相手の人となりを知っていく近道だと思うのです。表層的なつながりだけでは、寂しいものです。

これらの問題点が考えられますが、SNSやラインを否定しているわけではありません。いずれもコミュニケーションの手段ですから、それぞれの利点を活用しつつ、バランスを取りながら、直接の対話とデジタルコミュニケーションの両方を行う事が望ましいでしょう。

 





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20世紀の戦争の本質
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/06(月) 20:54
No. 7266
 
 
20世紀は戦争の世紀と言われています。その中で、特に日本の運命に深くかかわった戦いは、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、日米戦争、そして湾岸戦争ではないでしょうか。戦争とは軍事、外交、政治、経済、科学、社会、文化などのあらゆる要素が投入される、国家の争いであることは間違いありません。

21世紀に突入した現在、日本がかかわった戦争を振り返ってみると何が現代日本の成功に繋がり、何が誤ってどこが判断の岐路があったのか。そこには現代の日本人に繋がる特有の弱点もあらわにされるかもしれません。

歴史にifはありませんが、別の決断をした場合、日本はどうなっていたのであろうか。20世紀に日本人が経験した最初の戦争は、1904年起きた日露戦争ですが、それ以前の3つの重要な戦争についての戦争の意味を知っておかなければ、20世紀の戦争の本質は見えてこないでしょう。

一つ目は1899年に起きた「ボーア戦争」です。当時、ダイヤモンドや金を狙って南アフリカに進出したイギリスと、先に入植していたオランダ系のボーア人との間に起きた紛争が拡大していったもので、イギリスは勝利しますが、内外世論などの影響で、すぐにボーア人の自治を認めざるを得なくなりました。それまでの大英帝国を中心とする世界秩序が破綻したという意味において、重要な戦争でした。

二つ目の「米西戦争」は、知らない方が多い戦争ですが、のちの大東亜戦争に繋がる伏線になったという意味で、日本にとっては無視できない重みを持っています。1898年、キューバをめぐり、スペインと、周辺国への市場進出を狙うアメリカが衝突しました。

アメリカがスペインの太平洋・大西洋艦隊を撃破して勝利しました。その結果、キューバは独立。さらにアメリカはスペイン領だったフィリピンを獲得しますが、ここに海軍の拠点を置いたことにより、南太平洋の覇権を狙う日本との対立拠点となってしまうのです。

三つ目は、明治日本の最初の本格的な体外戦争である日清戦争です。1894年に起きたこの戦争に勝利して、日本は一躍世界史の舞台に躍り出たといってよいでしょう。


 





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日本のマスメディア
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/06(月) 20:53
No. 7265
 
 
多くの日本人の年配の方は、現在、世界で起こっていることや国内で問題となっていることなどを知るものは、3大新聞、NHK他のTV情報を通してのみだと思います。日本のマスメディアが流す政治、経済情報は、独自の取材に基づく情報は殆ど無く、国内情報は、記者クラブを通じた官庁からの情報を伝えるだけの情けない状態になっています。

海外情報も各国の政府情報をもとにした事を単に伝達するに過ぎないのです。情報の偏りを無くすには、独自の取材をした上で、事実に基づく客観的な情報を提供するのが真のメディアではないでしょうか?

例えば、アメリカは果たして平和愛好国家なのだろうか?とアメリカの現状を探ると、アメリカは今日まで直接、戦争の当事者であった米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争を始め、中南米、中東、アフリカへの軍事介入などを見れば、アメリカの政治、経済の本質は、戦争を抜きにしては語れない状況が、一目瞭然だと思います。

このようなアメリカと、いつまでも行動を共にしていて日本の将来はあるのでしょうか?日本の歩むべき道を主張するメディアの登場を願わずにはいられません。また、中国の経済的な躍進の目覚しさに驚嘆して、中国の経済成長の脅威を説く情報が昨今多く見られますが、本当に中国は脅威となりうるのか?といった視点で、現在の中国の表と裏を客観的な事実をもとに、情報を提供するメディアはいないのかと、残念な気持ちになります。

是非、世界の政治、経済の問題について、独自の取材をし、その上で、事実に基づく客観的な情報を提供するメディアに奮起を願わずにはいられません。だが、事実を語ってしまうと発言を削除されたり、テレビ出演ができなくなったりして、SNSで必死に訴えても消されてしまうのが今の日本です。恐ろしい事です。

 





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富国強兵とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/06(月) 20:49
No. 7264
 
 
政府は、欧米の国々に負けない国づくりをめざすために、国をゆたかにして、強い軍隊をつくるという「富国強兵」の政策をすすめました。なかでも、学校制度、軍隊の整備、税制の整備の3つは、国の基盤を築く上で中心となる改革で、国民生活にも大きな影響をあたえました。

政府は「富国」のために、各地に製糸や紡績、造船などの管営工場をつくり、外国人を雇い入れて欧米のすすんだ技術をとり入れる殖産興業に取り組みました。また、産業を発展させるための資金を得るために、通貨制度の改革や銀行がつくられました。

まず、1871年に貨幣の単位を「円」「銭」「厘」(1円=100銭、1銭=10厘) とし、新しい紙幣と硬貨がつくられました。また、1872年には国立銀行条例が定められ、各地に民間が経営する国立銀行がつくられました。 そして、1882年には中央銀行として日本銀行が設立しました。

政府は殖産興業をすすめるとともに、国の基盤整備のために様々な方面で近代化にとりくみました。1871年、政府の役人である前島密は郵便制度をつくり、郵便切手や郵便ポストをつかって全国に同一料金で手紙をおくることができるようになりました。1869年、東京・横浜間で最初の電信が開通すると、1890年には電話事業がはじまりました。

1872年にイギリスの資金と技術による鉄道が、新橋・横浜間で開通し、その後、伊藤博文が中心となって鉄道事業がすすめられ、1889年に東海道本線(新橋・神戸間)が開通したのをはじめ、東京の上野から仙台(宮城県) や直江津 (新潟県)などをむすぶ鉄道が開通しました。また、汽船の運航がはじまると、 沿岸航路での物資の輸送が活発になりました。

明治政府は、日本の近代化をすすめるうえで人材の育成が重要だと考えました。1872年に学制を公布して、6才以上の男女すべてに小学校教育をうけることを義務化し、全国に小学校をつくりました。

しかし、子どもは家事をはじめ、家での大切な働き手だと考える家庭が多く、また、授業料を払えない人もいたため、学制が定められた当初の就学率は高くありませんでした。その後、1890 年になると段々と学校に行かせる家庭もふえ、1900年の授業料の無償化実施以降、ほぼ100%の子どもが小学校に通うようになりました。

小学校教育の整備とともに、帝国大学、高等中学校(のちの高等学校)、中学校のほか、専門学校、師範学校(先生を養成する学校)などが設置されました。また、女子教育もおこなわれるようになり、日本で最初の女子留学生である津田梅子は帰国後、女子英学塾 (現在の津田塾大学)を創立しました。

政府は国を強くするために、欧米のような近代的な軍隊をつくる「強兵」を考えました。1873年に徴兵令を出して、士族や平民にかかわらず、満20歳になった男子に3年間の兵役の義務をおわせました。

富国強兵のためには、国の財政を安定させることが必要でした。政府は、それまでの年貢にかわる新しい税制を整えることで、安定した収入をえようと考えました。そこで、1873年に地租改正をおこない、土地の所有者に所有者名、土地の価格、広さ、税額などがかかれた地券をわたし、土地に対する税(地租)を現金で納めるしくみをととのえました。

しかし、税率を3%としたため、収穫量に対する税の割合は、江戸時代とあまりちがいませんでした。そのため、農民の生活は苦しく、各地で地租改正反対一揆がおこりました。 そこで政府は、1877年に税率を2.5%に引き下げました。

 





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日清戦争の始まり
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/06(月) 20:48
No. 7263
 
 
19世紀終わりごろ、朝鮮の人々は、重い税金や日本人が米を買いしめたことによる米の値上がりなどで苦しい生活をしていました。1894年に西洋のキリスト教に反対する東学という宗教の信者たちが、農民を中心に立ち上がり、政治改革や日本や欧米などの外国人を国から追い出すために反乱をおこしました(甲午農民戦争)。

朝鮮政府は反乱を鎮めるために清に助けをもとめると、日本も清との天津条約に基づき軍隊を朝鮮におくりました。反乱が鎮められた後、日本は朝鮮の政治に口を出すようになり、朝鮮を勢力範囲だと考えていた清と対立が深まりました。

そして、1894年7月、豊島沖で日本と清の軍隊が衝突したことがきっかけで日清戦争がはじまりました。欧米式の武器や軍隊をもつ日本は戦争を有利にすすめ、大国である清をやぶり、1895年4月に日本と清とは下関条約をむすび、戦争はおわりました。

日清戦争の勝利によって日本が遼東半島を手に入れると、満州(中国東北部)をおさえて日本の大陸進出を防ごうとするロシアは、ドイツ、フランスをさそって遼東半島を清に返すように強くもとめてきました (三国干渉)。

三国に対抗する力のなかった日本は、遼東半島を清にかえしました。その後、ロシアは遼東半島の旅順と大連を清から借りうけて支配をしました(租借といいます)。こうした三国干渉でのロシアの動きに対し、日本国民の不満はとても高まりました。

一方、清から独立をした朝鮮は、国名を大韓帝国(韓国)とあらためました。そして、清の力が弱くなったことを知った欧米列強の国々は、きそって清に進出しました。遼東半島を勢力下においたロシアをはじめ、ドイツ、フランス、イギリスも、清から領土をかりうけ支配を強めました。

日本国内では、列強と対等の立場をまもるために、工業化や軍備の拡張がすすめられました。清から得た賠償金も、これらの事業につかわれました。日清戦争後には生糸や綿糸が輸出されるようになり、日露戦争後には世界最大の生糸輸出国になりました。

遅れて発達した重工業では、日清戦争でえた賠償金をもとにつくられた官営八幡製鉄(福岡県北九州市)が1901年に操業を開始して鉄鋼の生産が始まりました。良質の石炭は軍艦島(端島)から運搬されました。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつですが、世界遺産的な価値は島の礎を上陸して見ることができました。

 





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受診するときのマナー
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/02(木) 16:09
No. 7262
 
 
病院などで診察を受けるときには、清潔な服装や下着などで受診したいとはいえ、熱があるのに入浴していく必要はありません。最低限、清潔な下着に着替えるだけで十分だと思います。それより心がけたいことは、脱ぎやすい服装で受診することです。

聴診のときには、前開きの洋服にしましょう。医師の前で着脱に時間がかかると、ほかの患者の待ち時間が増え、迷惑をかけることになってしまいます。多くの病院では、採血室やレントゲン室が診察室とは違う場所にあるため、移動します。

検査のたびに何十分もかけて脱いだり着たりしていたのでは、迷惑な話です。医師に診察してもらいたい部分が出しやすい服装を心掛けるのも大切なことです。たとえば足首を捻挫して受診するとき、タイツやパンティーストッキングを履いていると、別室でわざわざ脱がなければなりません。

そういう場合は、靴下のように、その場ですぐ脱げるものを履いていきましょう。男性は、待合室でネクタイを外して置くと、その分、時間が短縮されます。もちろん、ネクタイを締めるのは、診察室から出たあとです。

診察を受けるときは、化粧をしないでいくのが常識であり、最低限のマナーです。電車に乗って遠くの病院にいくのだから、素顔では恥ずかしいという人もいるかも知れませんが、医師が正確な診察を行うためには、肌の状態や顔色も重要な判断ポイントになります。

勤め帰りで化粧を落とす余裕がない場合でも、口の中や喉を診察することが予想される場合は、待合室で口紅を落とすことだけでもするべきです。とくに、皮膚科の診察を受けるときは、化粧はご法度です。化粧をしていたのでは、皮膚科医は正しい診察はできません。

化粧と同じく、香水も診察の邪魔になります。患者の発する特有の口臭が、診断の判断になる場合もあるからです。肝臓病、腎臓病、糖尿病などは体内に悪臭物質を生み出し、肝臓の場合は動物のような臭い、腎臓の場合はアンモニアの臭い、糖尿病の場合は甘酸っぱい臭いがします。

香水はこれらの匂いを感じさせなくしてしまいます。また、本人か診察室を出た後まで香りが残り、ほかの患者の診断にまで影響を与えることになってしまいます。爪の状態も診断の助けになりますので、マニキュアも落としていくのがマナーです。

 





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危ないスパムメール
   投稿者: 仲條拓躬    
2023/11/02(木) 16:08
No. 7261
 
 
スパムとは、企業などが宣伝を目的にインターネット利用者やスマートフォン利用者に一方的に送り付ける電子メールのことです。毎日、何十通以上も受信するとさすがにうんざりします。内容はアダルト関係からサプリメントの通販、ウイルスメールまで様々です。

法律がないなら、自衛するしかないのですが、スパムの中には、今後の送信を止める方法が書いてあるものがありますが、これに送信してしまうと、このアドレスは有効だと教えるようなものです。そういうわけで、スパムを受信時に自動削除するプログラムを使うくらいの自衛策しかなさそうです。

このスパムメールが巧妙に送られてくるという事例を紹介します。たとえば1通のメールマガジンを受信します。タイトルは「大手電気メーカーの最新情報」です。そのメルマガを開いてみると出会い系やアダルトの広告が多数掲載されているのです。

誰かが悪いイタズラで購読手続きしたのだと思い込み、記載されているアドレスで購読停止処理をしまうと、この手続きから1週間もしないうちに、数十通のスパムメールが毎日届くというものです。これは、メルマガだと思い込ませる、巧妙なスパムメールなのです。

相手に自分のメールアドレスを有効だと教えてしまえば大変なことになります。さらに巧妙なスパムメールも存在します。通常のメルマガを登録したときに自動返信される、登録完了のお知らせメールが配信されてきます。

自分が登録した覚えがないメルマガなので、解除URLにアクセスして購読解除し手しまったらアウトです。このような危ないメールが日進月歩で送られてくるわけですから、年配の方や子供たちは簡単に引っかかってしまいます。皆様、気をつけてくださいね。

 






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