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  昭和25年(1950)4月18日  仲條拓躬2024/01/15(月) 15:39 
  ソ連の緩衝地帯  仲條拓躬2024/01/15(月) 15:38 
  緊急事態に備える  仲條拓躬2024/01/10(水) 21:06 
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  北朝鮮がミサイルを発射する理由  仲條拓躬2024/01/09(火) 21:27 
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  秘密保持と迅速が成功の二大条件  仲條拓躬2024/01/06(土) 09:02 






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昭和25年(1950)4月18日
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/15(月) 15:39
No. 7330
 
 
天皇「日本にとりまして対日講和を成立させることができれば何より先決であると思います」(もう講和問題が話されています)。「国際関係の利害は必ずしも一致していません。四大国間の意思の一致もなかなか困難のように見受けますが、その間の消息は如何でしょう」。

マッカーサー「確かにアメリカとソ連・中共との対立はいっそう強まり、まことに残念ですが、対日講和の成立は早期の講和の見通しがつかなくなりました」。
天皇「米国はアジアにたいする重点の置き方がヨーロッパに比べて少しく軽いのではないですか」。

もう少しアジアをしっかり守ってくださいと、天皇はマッカーサーをしかるわけです。
マッカーサー「米国は従来ヨーロッパ第一主義の政策をとってきております。このバランスの誤りが、いわば中国の悲劇(共産国になってしまったこと)を招いたのだと思います」。

天皇「日本共産党は国際情勢の推移にしたがい、巧みにソ連のプロパガンダを国内に流しております。国民の不安をかきたてようとしているように私には見受けられます」。
マッカーサー「わかりました。 共産党が法律に違反したようなことがあったらどしどし取り締まり、宣伝に対してもこれを厳しく見守ります」。

すると天皇は「こういうイデオロギー国家に対しては、共通の世界観をもった国家の協力によって対抗しなければならないと思います」と言います。
日米が協力して対抗すべきだというわけです。

マッカーサー「共産主義はマルキシズムに立脚した独裁制をもって世界制覇をもくろんでおります。その手段は暴力に訴えて巧みであり極めて危険であります。自由主義諸国も十分その危険を自覚して互いに協力しなければならないと思います」

二人はここで意見が一致しました。そしてこの直後の5月3日、GHQは日本共産党の非合法化を示唆します。さらに6月6日、共産党中央委員24名の公職追放の指令が出されました。徳田球一や志賀義雄ら、共産党の主だった人たちが地下にもぐることになりました。

そして天皇・マッカーサー会談から一週間後、吉田茂が池田勇人大蔵大臣をアメリカに派遣して、「もしアメリカ側からそのような希望を表立って申し出しにくいならば、日本政府としては、日本側からそれをオファーするような形の持ち出し方を研究してもよい」と伝えます。

これは安保条約の前哨戦になる話で、日本を守るための米軍駐留ということをアメリカ側が言い出しづらいならば、日本側からそれを言い出してもいいですよというのです。アメリカ側が日本を命がけで守ると言っている、それならば日本は講和会議の後、いたずらに中立的な武装国家をつくって(独立国になるのですからそれが理想でしょうが) 中国やソ連と対立するよりは、むしろアメリカの傘の下に入ったほうがいいだろうと決め、吉田茂は池田勇人を送り込んだのです。

このことについては安保条約の基礎になる話としてお話しています。いずれにしろ天皇とマッカーサーの会談でそういうことが話し合われ、二人の見解が一致した形で、時の政府が日本の今後のあり方を考え、決定しようとしていたといえるのではないかと思います。そしてこの直後、6月25日に朝鮮戦争が勃発したのです。

 





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ソ連の緩衝地帯
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/15(月) 15:38
No. 7329
 
 
第2次世界大戦後、ソ連は東ヨーロッパを緩衝地帯にしました。西側からアメリカやヨーロッパが攻めてきても、とりあえず東ヨーロッパが戦場になります。ソ連は無事だし、その間に戦争の準備ができると考えました。

ソ連の北側は北極海に面しているからとりあえず安心です。では、南側と東側はどうするのか。南側にはモンゴルという、これもまたソ連の言うことを聞く国をつくりました。モンゴルによってソ連の南側の国境線は守られます。

さらに、内戦状態だった中国で毛沢東の共産党(現在の中華人民共和国の支配政党)もソ連が支援しました。ソ連が武器などを供与することで、蒋介石が率いる国民党を台湾へ追いやった毛沢東が勝利し、いまの中華人民共和国ができたのです。

この段階でソ連は、中国を南側の緩衝地帯にしたいと考えていました。ところがやがて毛沢東がソ連に反旗を翻すようになります。東西冷戦時代にはソ連と中国の国境ウスリー川で両軍兵士が衝突。領有権をめぐって両軍とも多数の死者が出ました。

これ以降、ソ連にとっては南の中国が弟分から仮想敵国になるのです。当時、ソ連は中国の国境沿いに多数の軍隊を配置し、中国からの侵略に備えていました。中国は中国で、いつ核兵器が飛んでくるかもしれないという恐怖心から、中国全土の大都市に防空壕をつくりました。たとえば北京の天安門広場の下には巨大な空洞があります。

これは防空壕になっているのです。しかしミハイル・ゴルバチョフ書記長の時代、ソ連と中国の関係が改善されます。さらに、ソ連が崩壊してロシアになってしまったことによって、中国とロシアは敵対する関係ではなくなりました。現在は親密な関係になっていますが、歴史的には中国もソ連もお互いを仮想敵国として牽制し合っていたことがあるのです。

 





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緊急事態に備える
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/10(水) 21:06
No. 7328
 
 
このたび能登半島地震で被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。災害は突然起こるものとはいえ、まさか元日に大地震が起きるという異常事態は滅多にあることではありません。被災された方のお心は察するに余りあります。

東京直下型地震や南海トラフ地震が起こった場合、今回以上の被害が予想されます。各地で地震が起きるたびに、他人事ではないと実感するばかりです。改めて私たちはどのような心構えを持つべきか考えてみなくてはならないでしょう。

突然、震度7のような大災害が起こったら、急いで行動する前に、周囲の状況を確認し、より安全安心な行動を選択するためには冷静さが必要です。関東大震災の例を見るまでもなく、誹謗中傷の流布に惑わされないようにするためにも冷静に考えることが重要です。

災害発生時は、適切な避難場所に移動することが鍵となります。正常性バイアスによって逃げ遅れることが無いように正しく危機を察知することが重要です。倒壊か火災か津波か、迫っている危険性によっても安全な場所が異なるかもしれず、落ち着いて判断すべきです。

事前の備えとして、家庭や職場に非常用キットを用意しておくことも大切です。これには食料、水、医薬品、ライト、ラジオ、応急処置用具などが含まれます。地域や災害の規模によっては、救助や支援がかなり遅くなる可能性が高いことが今回明らかになりました。自助努力は大切なことです。備えあれば患いなしです。

また、正確な情報は重要です。現代はSNS等により、デマが拡がりやすくなっています。公式の発表やマスコミからの情報を確認し、デマに惑わされないようにしましょう。緊急時に、落ち着いて行動することは非常に難しいものです。事前に、自宅にいる時、会社にいる時等を想定して災害時のシミュレーションをしておくと役に立つかもしれません。

 





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ロシアが米国に攻めている
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/10(水) 21:03
No. 7327
 
 
ロシアと北朝鮮が急接近しました。ロシアがウクライナとの戦争で使用する武器を北朝鮮から購入して、その見返りにロシアが北朝鮮に軍事技術を供与したと思われます。その後、北朝鮮は軍事衛星の打ち上げを繰り返し、ロシアの技術で向上しています。

東方経済フォーラム出席のためウラジオストクにきたプーチンが金正恩と会いました。ウクライナ開戦後、アメリカ側に経済制裁されたロシアは、制裁で経済破綻するどころか逆に経済発展しており、人手不足になっています。

ロシアは、アメリカの理不尽な制裁戦略を容認するのをやめ、アメリカの覇権を認めない態度に転換しました。ロシアは中国と一緒に、アメリカ覇権衰退に備え、BRICSを基盤に、制裁されてアメリカ側と永久に断絶しても経済を発展させていける非アメリカ側独自の経済システムの立ち上げを加速しています。

ロシアはアフリカ諸国との関係も強化して、非アメリカ的な経済システムを導入してアフリカを繁栄させようとしています。アフリカ諸国の地下資源の開発を手伝い、その資金でインフラなどを整備しています。これは中露協調でやっているのです。

近年の北朝鮮を支えてきたのは、中国だったのですが、ロシアは、中国と協議しながら北朝鮮との関係を強化しています。これは中露合同で北朝鮮を非アメリカ側の仲間に入れる考えです。この先、アメリカというご主人様のいう事だけを聞いていれば平和でいられるということにはならないのではないでしょうか。

 





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北朝鮮がミサイルを発射する理由
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/09(火) 21:27
No. 7326
 
 
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、かつてないペースでミサイル発射を繰り返しています。弾道ミサイルは、そこに核弾頭や生物兵器、化学兵器を載せれば 「大量破壊兵器」になります。日本の上空を通過して太平洋に落下したものもあり、突然鳴ったJアラートの音に驚いた人もいたでしょう。

そもそも北朝鮮の発射の意図は何なのか。1発が何億円もするミサイルを日本の排他的経済水域(EEZ)内外に落として何の利益があるのか。日本が標的になる可能性はあるのか。北朝鮮が求めているものは2つあると考えます。

まず1つ目は、北朝鮮という国家の存続です。1950年に勃発した朝鮮戦争がまだ終わっていません。朝鮮半島は1910年から日本が統治していました。しかし1945年の第2次世界大戦の終結(日本の敗戦)とともに、日本は朝鮮半島から引き揚げます。

このとき北緯38度線を境に、北側をソ連が、南側をアメリカが占領して、それまで1つだった朝鮮民族が分断されたのです。1948年、北朝鮮に成立した朝鮮民主主義人民共和国の初代首相となった金日成が、1950年に朝鮮統一を目指して起こしたのが朝鮮戦争です。

武力で統一しようと38度線を越えて韓国(大韓民国)に侵略、奇襲攻撃を仕掛けたのです。国連(国際連合)の安全保障理事会は韓国への軍事支援を決定しました。アメリカ軍を主体とした16カ国からなる国連軍を結成し、送り込みます。

最初は奇襲攻撃をした北朝鮮が圧倒的に強く、あと一歩で韓国が消滅するところまで攻めていたのですが、国連軍の反撃で押し返され、1953年には朝鮮戦争の休戦協定が成立。 「終戦ではなく、休戦の状態」がいまも続いているということです。

北朝鮮にしてみたら、「朝鮮戦争で、アメリカ主体の軍によって崩壊寸前まで追い詰められた」ことがトラウマになっているのです。何としても自分の国を守るため、アメリカまで届くミサイルを一生懸命に開発している途中というわけです。

このミサイルは、日本が標的になっているのではなく、アメリカを狙っているから東へ発射しているのです。アメリカに振り向いてほしいだけです。もう1つの目標、それは朝鮮半島を統一したいのです。北朝鮮のミサイル発射の目的は「国家としての存続」と、「韓国併合」なのです。

 





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濃姫の謎の生涯について
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/09(火) 21:26
No. 7325
 
 
美濃の齋藤道三の側室(小見の方・明智光秀の縁者)の娘の帰蝶(濃姫)が織田信長と結婚しましたが、その後について残っているのは、ともかくも出来すぎた話だけで、以後はどうなったのか全然判らないのです。没年も記されず、もちろん墓所も判っていないのです。

濃姫はいったいどこへ消えてしまったのか。それについて、一つの推定を下すことはできます。織田信長の嫡子は信忠ですが、信忠の母は生駒氏であることがはっきりしています。すなわち、生駒氏は、織田信長の第二の正室なのです。

本能寺の変で信忠が討死をした時、年齢は26歳でした。これは諾書の記述が一致しています。とすれば信忠は、弘治3年(1557)に生まれたことになります。いいかえると、弘治3年かまたはその前年、すでに織田信長の正室は生駒氏になっているのです。

正室が二人あったということはあり得ないし、誇り高い土岐一族明智氏の血をひいた濃姫が、側室として信長の傍にのこったとも考えられません。とすると、濃姫はその以前に亡くなったのだろうか。これが考えられるひとつの推定です。

もうひとつ、髪をおろして仏門にはいったのではないか、という推定もできないことはないでしょう。斎藤家の菩提所常在寺に道三の画像があって、『諸旧記』も『美濃明細記』も、 「信長公の北の方の御寄進なり」と説明しています。

濃姫が嫁いだ翌々年、母親の小見の方は39歳で世を去っています。そしてその5年後には父親の齋藤道三も討死をとげています。齋藤道三の強引な「国盗り」は、生きているうちはまだしもだったが、討死をした後はあからさまな悪評となって世に流れました。

母親の実家である明智家も、齋藤義竜の攻撃を受けて一家が離散しています。四人の男兄弟のうち二人は齋藤義竜に殺され、二人は仏門にはいったのです。濃姫はあっというまに天涯孤独になってしまったのです。

亡父の画像を描かせて菩提寺に納め、そのあと髪をおろして世を捨てた、ということも十分ありうるのです。帰蝶という名には、何かはかない美しさを連想させるものがあります。のちの天下人、織田信長の最初の正室として、華やかな婚礼の印象を残しただけで、彼女は戦国の歴史の中からそっと姿を消してしまったのでした。


 





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北条早雲にとって油断は悪徳
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/09(火) 21:24
No. 7324
 
 
内紛と混乱に乗じて「国を奪る」、のちには戦国の日常茶飯事となったことだが、それを北条早雲はまっ先にやって見せたのです。伊豆一国を手に入れるとともに、北条早雲は来たるべき戦国という時代の幕を引いたのです。

延徳3年4月、戦国時代はこの時に始まったといってよいでしょう。この「理由のない出兵」についで、北条早雲は、平然としてルールの違反をやってのけています。それが小田原城攻略です。30日間で伊豆一国を制圧した北條早雲は、韮山城にいて、いよいよ関東侵入の準備にとりかかったのです。

次の目標は、箱根の東側、関東の入口を抑えている小田原城です。当時小田原城にいた大森氏頼は、扇谷上杉家に属する文武に優れた名将でした。北条早雲も扇谷定正のために援兵を出したりしていたから、いわば味方同士ということになるでしょう。

大森氏頼が頑張っている限り、北條早雲も小田原城をどうすることもできなかったのですが、その大森氏頼が明応3年(1494) 9月に亡くなり、子どもの藤頼があとを継いだのです。北条早雲は手に唾をして起ち上がりました。

大森氏頼が亡くなって5ヵ月後の明応4年2月、北条早雲は小田原城へ、こんなことを申し入れました。「先ごろ、領内で鹿狩をしたところ、鹿どもがみな箱根の山へ逃げこんでしまった。伊豆のほうへ追い返したいと思うので、箱根の貴領へ勢子を入れることを許してほしい」大森藤頼は、北条早雲の「勢子」がどんな勢子であるか、思ってもみなかった。

「ご随意に」と返事をしました。こうして2月16日、北条早雲の「勢子」たちは、ぞくぞくと箱根の瞼へはいっていきました。その夜半、黒々と闇の中に沈んでいた箱根の山が、突如として鳴動しました。潜んで夜を待っていた物騒な「勢子」たちが、鬨の声をあげて小田原城へ襲いかかってきたのです。

この時、北条早雲は、田単(中国の将軍) 火牛の計を用いたといわれています。1000頭の牛の角に燃えさかる松明をつけて追いこみ、動願する大森勢の中へ奇襲部隊が突っこんで、一気に城を落としてしまったのです。

敵対している同士が欺きあうのは合戦の常ですが、少なくとも味方に近いと思っていた者から騙し討ちをかけられたのだから、大森藤頼は逃れて山中の支城へ落ちのび、小田原城は一夜にして北条早雲のものとなったのです。

「理由のない出兵」の例を開いて、力の時代が始まったことを告げた北条早雲は、今度はこの小田原城攻めで、国を奪い取る手段を選ばないことを天下に示したのです。相手が喪中であろうがなかろうが、構うことはない。おのれの城の生命線ともいうべき裏山へ、やすやすと他人の兵を入れさせるような馬鹿者は、亡んで当然なのだといいます。

油断は悪徳、騙されるほうが悪い。北条早雲が幕を開いた戦国とは、そういう時代だったのです。北条早雲は、旧い秩序が守ってきた道義的なルールを無視することによって、新しい時代の力のルールを押し立てたといってよいでしょう。

時に北条早雲は64歳、還暦をすぎたこの老人は、実にフレッシュな時代の先駆者だったのです。以後の100年間、北条早雲が身をもって範例を示した戦国のルールを軽んじた者は、例外なくこの厳しい時代から没落していったのです。

戦国の世の没落は、破滅と死とを意味します。逆に北条早雲のルールを骨の髄まで沁みこませた者が、動乱の時代を乗り越えていったのでした。美濃一国を奪い取った斎藤道三がそうであり、天下布武の道を突き進んだ織田信長がそうでしょう。織田信長は業半ばにして本能寺に斃れたのですが、それは「不運にして」と形容すべきではないでしょう。

あの結末を招いたのは、明らかに織田信長の傲慢から生じた油断でした。49年の生涯を無に帰そうとする炎の中で、織田信長は「是非もなし」と呟いたといわれていますが、その時、織田信長の頭の中では、「油断は悪徳」という北条早雲のルールが、痛恨の情とともにあざやかに浮かび上がっていたに違いないでしょう。

 





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昭和天皇の沖縄への思い
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/06(土) 09:04
No. 7323
 
 
昭和天皇が倒れられたとき、ベッドの上で「沖縄には行かなければならなかった」と何度も言ったといいます。新聞にそう報じられました。実際、直前に沖縄に行かれる予定だったのが倒れて叶わなかったので、「残念だ、沖縄には行かなければならなかった」と病床で話されたというのです。

天皇は第二次世界大戦の最後の激戦であったいわゆる沖縄決戦、そして本土決戦までの時間を稼ぐため沖縄軍に頑張って最後まで戦ってもらおうというので、兵隊さんばかりでなく市民、学生さん、女学生さんまで動員して抵抗したことが心にずっと大きくひっかかっていて、「沖縄には行かねばならなかった」と言ったのだなと思っていた。

これは別に間違ってはないのです、そのこと自体。だけれどもそれだけではないのだということがわかったわけです。そうだ、天皇は国防のための本土駐留に関して沖縄を25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション、つくりものの契約として、沖縄に軍隊を駐留してもらいたいと自らアメリカにメッセージを与えました。

そのことのお詫びのために沖縄へ行かねば、と言っていたのではないか。昭和天皇は、大東亜戦争においてもそうなのですが、子供のときから軍人として非常に鍛えられた方ですので、戦術的・戦略的な目は特に秀でております。

ですから、これから中国共産党も出てくる、北朝鮮も共産国になる、ソ連もどんどんアジアへ進出しているといったときに、アジアをその進出から守るためには、グアム、沖縄、台湾の弧を描いた線で守るほうがいいと戦略的にわかっていたのだと思います。

余計な話ですが、大東亜戦争もそうでした。大東亜戦争は戦闘機の制空権の範囲で基地をつくる。さらにその基地から制空権の中に、新たな基地をつくる。制空権の外側では戦争をしない。要するに制空権内で基地から基地へとカエル跳び作戦をするのです。そのアメリカの戦術が大成功しました。つぎの戦争もまた然り、なのです。

それで制空権下の戦略を考えた場合、北海道にどんなでかい基地をもっても、肝心のところへ届きません。それを天皇はわかっていた、だから早い話が沖縄を貸し与えたと。マッカーサーもGHQも、天皇の炯眼といいますか、すぐれた戦略眼を認めまして、では沖縄がいいということになったわけです。

そのことを昭和天皇は亡くなるまで、「申しわけないことをした、沖縄の人たちには長い苦痛を与えたままであった、それをお詫びに行かなければいけなかった」と ベッドの上で言われたのではないだろうか、何も大東亜戦争の沖縄決戦だけではなくて、そういう戦後の複雑な事情もあったのではないかなと思うわけです。

 





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天皇陛下の男の約束
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/06(土) 09:03
No. 7322
 
 
男の約束だか知りませんが、マッカーサーと天皇が余計な約束をしたといいます。昭和天皇という方は律儀な真面目な方でいらっしゃいますので、男の約束ですからといって、会談に関する話は本当にお亡くなりになるまで話しておりません。

話しているのは専らマッカーサーのほうで、軍人なのにおしゃべりなのです。男の約束を知らない方なのですが、どうもこの男の話は当てにならないところがありまして、いろいろと誤解を生むことになるのです。

いずれにしろ男の約束を守ったのは天皇で、守らなかったのはマッカーサーでした。ただ、マッカーサーが離さなかったことも、松井さんの手記と寺崎さんの残したもの、その他のことでいくらか明るみに出てきております。

日本の戦後に昭和天皇がいかにかかわったか、マッカーサーにどんどん意見を言い、マッカーサーもそれを取り入れ、あるいはそれに影響されて占領政策を進めていった、といってもいいかと思います。

とにかく戦後日本の形づくりのために昭和天皇は大変な仕事をなさっていた、そのことがわかるかと思います。ですが、考えようによって、これは憲法違反なのです。ご存じのように昭和21年に憲法が審議を経て成立し、翌22年に公布されました。

そこでは天皇は象徴であって政治には一切かかわりなしとされ、現在でも皇室は政治には一切かかわりはないのです。ですから女帝がどうだのといっても、皇室典範の改定は内閣の仕事であり、皇室は一切発言をしない、できない、天皇家は政治には一切口出しをしないと決められているわけです。

ところが、昭和天皇はどんどんマッカーサーに話をして、政治に口出しをしています。世の中に出さないという男の約束があるから憲法違反にならないのか、そんなことはないと思うのですけれども、まあその辺は皆さん方がご自身でお考えいただきたいと思います。

いずれにしろ戦後日本の占領期間というのは、ある意味では天皇とマッカーサーの合作ではなかったろうかと思われるところが若干あるわけで、そこに歴史を知ることのおもしろみもあり、楽しさもあると思います。

 





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秘密保持と迅速が成功の二大条件
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/01/06(土) 09:02
No. 7321
 
 
「奇襲は戦闘上、不可欠な作戦である、だが奇襲がすばらしい成功を収めた戦例はまれだ」とクラウゼヴィッツは述べています。机上で戦争を考える連中は奇襲がすばらしい作戦だと思いがちですが、実際には奇襲くらい難しいものはないのです。なぜなら奇襲には準備がいるが、極秘のうちに進められなければならないからです。

敵に知られたら奇襲にはならないです。準備が短期間なら秘密も守られやすいのだが長期となると困難です。大きな奇襲作戦が実行されにくいのはそのためです。秘密と並んで奇襲に欠くことのできない条件はスピードです。準備も実行も可能なかぎり迅速に行なわれなければ、失敗は目にみえています。

このふたつの条件を満たすには「旺盛な士気と厳格な軍規とそして卓越したリーダーが求められる」とクラウゼヴィッツはいい、「奇襲作戦の雄」としてふたりの武将をあげています。フリードリヒ二世とナポレオンです。

もしクラウゼヴィッツが真珠湾攻撃を目にしたら、その大成功ぶりに舌を巻き、この作戦を主導した山本五十六海軍大将に脱帽したことでしょう。いうまでもないのですが、クラウゼヴいが、クラウゼヴィッツの『戦争論』は陸戦を対象にしています。

彼は実戦主義者だから、みずから経験したことのない海戦を論じないのは当然です。まして航空戦が戦争でこれほど目覚ましい役割を果たすとは、想像もしなかったにちがいないでしょう。

昭和16年(1941) 12月8日未明、太平洋上から発進した日本軍の三百五十三機の攻撃で、米戦艦四隻、その他二隻を撃沈、戦艦四隻、巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、その他二隻を撃破、二百三十一機の米軍航空機を撃墜破したのです。

日本側の損失は航空機二十九機と特殊潜航艇五隻。損益計算からいって、これほどの戦果は珍しいです。さらにこれで米太平洋艦隊は壊滅し、太平洋の制海権は日本軍のものとなりました。戦略的にも大成功です。

この作戦に従事したのは南雲忠一中将の指揮する第一航空艦隊です。航空母艦六隻を基幹とする機動部隊ですが、これだけの大艦隊が米国側に察知されず、奇襲攻撃に成功するにはよほど綿密な作戦計画と周到な訓練が必要でした。じつはルーズベルト大統領はこの奇襲作戦を察知していたといいます。しかしルーズベルトだって、これほどの大損害を蒙るは思ってみなかったのです。

 






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