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研究員たちはぎょっとしましたが、すぐに金属の棒を振り回して追い払おうとしました。 エレナ・キルプは部屋を飛び出し、自動小銃を持ってきてネズミに発射しました。整然と分類されていた種子や木の実や米が、作業台の上で無残に散らばります。作業は一からやり直しでした。バビロフがいてくれたら。 同志よ、彼の不在が重くのしかかります。
同志よ、バビロフはもうこの世にいない。つらいけど受けいれなくては。研究員たちはそう言ってお互いを励ました。だがバビロフは生きていたかろうじてですが。サラトフの刑務所に移送されていて、1942年のクリスマスもどうにか迎えることができたのですが、骨と皮ばかりになって、壊血病にもかかっていました。
この頃、狭い独房で残る力を振り絞って嘆願書を書いています。「私は5歳で、植物交配の分野では豊富な経験と知識を有しております。国のために尽くすことができれば幸せに存じます・・・・・たとえ初歩的なものであっても、自分の専門分野で仕事をさせていただきたい。ぜひともお願いします」だが、回答はありませんでした。
飢饉と飢えをなくそうと誰よりも尽力した男に対して、国家は銃殺ではなく、もっと残酷な運命を用意していました。バビロフは意図的に時間をかけて餓死させられたのです。1943年のクリスマスが来ました。特殊部隊にはまだ攻撃命令が下りない。土のうを積み上げ、大砲を乗せた陣地で待機が続いていました。
レニングラード市民は包囲の中で3度クリスマスを迎えました。市民の3人に1人、30万人が既に餓死していましたが、それでも容赦ないドイツ軍の攻撃に懸命に耐えていました。バビロフの研究所では、1日パン2切れの乏しい配給もとっくに途絶えていました。凍えるほど寒い暗い建物の中で、研究員たちは作業台の前で次々と息絶えていきました。
気高い彼らは、大量に保存されていたピーナツ、エンバク、エンドウマメの標本には一切手を付けませんでした。全員が餓死したけれども、残った標本はすべてが完璧に分類され、記録されていました。バビロフの宿敵トロフィム・ルイセンコはどうなったのか? 彼はその後20年間、ソ連の農業と生物学の発展をはばむ足かせとなりました。
しかし1967年、ロシアにまたも大飢饉が起きたのをきっかけに、著名な科学者3名がルイセンコのエセ科学とその他の罪を公に非難しました。スターリンが死去し、ルイセンコが国に与えた損失が認識されるにつれて、バピロフの名がようやく話題に上るようになりました。植物生産研究所はバビロフの名前が冠され、現在も活動を続けています。
一方、最近のロシアの世論調査で最も偉大な人物を尋ねたところ、ウラジーミル・プーチンをわずかな差で抑えてスターリンが1位になりました。2008年、ノルウェーとスウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドが共同でスヴァールバル世界種子貯蔵庫を開設しました。バビロフの種子標本の現代版です。
場所はノルウェーと北極のあいだに浮かぶ島で、かつては石炭採掘が行なわれていました。現在この貯蔵庫には100万種近い種子が保存されています。ただ最近になって、気候変動で永久凍土層が急速に融ける危険があることがわかり、ノルウェー政府は地下貯蔵庫の断熱強化など対応に追われています。
バビロフの研究所では、標本をひと粒でも口にする者はいませんでした。2年以上ものあいだ、レニングラード市民が餓えて死んでいても、保管している種子や木の実、種芋を提供することもなかった。いったいなぜ?
今日あなたは食事をした? 答えが「はい」なら、研究者たちが生命と引き換えに守り抜いた種子の子孫を口にした可能性が高い。私たちにとって、未来は現実であり、かけがえのないもの。それはバビロフや研究員も同じだったのです。
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