| TOP | ホーム | 携帯用 | 過去ログ/検索 |

☆★☆最新情報7☆★☆

 
新規投稿 ] 
  糖尿病治療薬を飲んでも透析に  仲條拓躬2025/08/15(金) 13:51 
  仙台・松島の旅行記-2  仲條拓躬2025/08/15(金) 13:49 
  仙台・松島の旅行記  仲條拓躬2025/08/15(金) 13:48 
  日露戦争から満州事変まで  仲條拓躬2025/08/14(木) 14:28 
  マッカーサーが許さなかった本  仲條拓躬2025/08/14(木) 14:26 
  満州合衆国建設の遠因  仲條拓躬2025/08/14(木) 14:24 
  広島の旅行記3日目  仲條拓躬2025/08/13(水) 14:09 
  広島の旅行記2日目  仲條拓躬2025/08/13(水) 14:07 
  広島の旅行記1日目  仲條拓躬2025/08/13(水) 14:05 
  星々の生と死が繰り返される  仲條拓躬2025/08/12(火) 19:00 






[ 一覧 ]
糖尿病治療薬を飲んでも透析に
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/15(金) 13:51
No. 7953
 
 
糖尿病は初期には痛くもかゆくもありません。基本的に自覚症状はないまま進行していきます。では、何のために糖尿病の治療が必要なのかと言えば、合併症を防ぐためです。糖尿病腎症、糖尿病網膜症、糖尿病神経障害の三つが三大合併症としてよく知られているほか、心筋梗塞や脳血管障害といった命に直結する病気のリスクも増やします。

そのため、「自覚症状がなくても治療しましょう」と言われるわけですが、ところが、頑張ってインスリン注射を毎日打っていても、日々糖尿病治療薬を飲んでいても、HbA1cが十分に下がり切らず、結局は三大合併症を引き起こしてしまう人がいます。

なかには、目が見えなくなったり、透析治療が必要になったりする人もいます。インスリン治療や飲み薬による治療を受けていても、です。それはなぜか。軽微な動脈硬化がずっと進んでいて、年数が経てば経つほど抑えきれなくなるからです。

平均寿命が50歳の時代ならハッピーなまま最期を迎えられたかもしれませんが、今の平均寿命まで生きようとすれば、60歳くらいから動脈硬化が進み、末梢血管が障害され、失明や透析ということになりかねません。

血糖値を下げる治療さえ行っていれば安心というわけではないのです。糖尿病は本当に薬を飲み続けなければいけないのか?今、一般的に行われている糖尿病治療の基本は、血糖をコントロールすることです。

血糖降下薬やインスリン製剤を使って血糖値をコントロールすれば、治ったのと同じ状態が保てますよ、というものです。つまり、治す治療ではありません。治ったのと同じような状態を保つために、一生、薬を飲み続けるか、インスリン注射を打ち続けなければいけない。それが、今行われている糖尿病治療の基本です。

患者も、「そういうものなのだ」と納得しているのでしょう。なぜなら、「この薬さえ飲み続けていれば副作用もなく、病気の進行を止めることができ、天寿を全うすることができますよ」と言える病気はあまりないからです。

一般的に、病気というのは一旦なったら治らず、じわじわと悪くなっていくものが多いので、「インスリンさえ打っていれば治ったのと同じ状態を保てる」という説明は、患者たちにはおおむね好意的に受け止められたのでしょう。

ところが現実的には、頑張ってインスリン注射を打ち続けても、HbA1cが10%前後にしか下がらない人もいます。そういう方は、じわじわと毛細血管の動脈硬化が進み、やがて三大合併症を引き起こしてしまうのです。

 





[ 一覧 ]
仙台・松島の旅行記-2
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/15(金) 13:49
No. 7952
 
  仙台に到着して、のどが渇いたので、まず最初に訪れたのが、「ずんだシェイク」で有名な『ずんだ茶寮』です。仙台駅の新幹線中央改札口を出たすぐ近くにあります。ずんだシェイクだけなら、レジのところで受け取り、テイクアウトできます。

大きさはレギュラーとラージの2種類です。クリーミーでミルクーテイストのシェイクに、枝豆の風味がほわ〜んと舌触りはわずかに枝豆の粒感が残っていますが、さら〜りさっぱりとした飲み心地。初めて飲みましたが、これは美味しいです。

仙台といえば、伊達政宗公の騎馬像ですが、仙台城跡(青葉城址)以外にもありました。仙台駅3階牛たん通り奥です。仙台駅構内にも伊達政宗公の騎馬像があるのです。牛たん通りという牛たんのお店が集まった通りの中に、ガラス越しに見られる騎馬像があります。

仙台城跡では大きな台座の上にある伊達政宗公の騎馬像ですが、こちらではガラス越しとはいえ至近距離からその姿を眺めることができます。よく見ないと普通に通り越してしまいます。私が写真を撮っていると次々に観光客が集まってきて撮影会が始まりました。

続いて、仙台駅西口を出て右手に行くと、PARCOがあります。のぼりには大きく「3F ポケモンセンタートウホク」と書いてあります。入口向かって右手にはポケモンセンタートウホクガーデンがあり、大きなピカチュウのトピアリーとツタージャやニンフィアなどのオブジェが飾ってあります。

撮影スポットという感じで、写真を撮っている人も多くいました。エスカレーターを上がったら右手がポケモンセンターです。上った直後の右手にはまずビクティニとピカチュウのオブジェがあり、その向かって右に大きなモニターがあります。この日は子供たちと一緒にイベントを行っていました。

夕方になり、仙台の郊外にあるホテルシーラックパル仙台にチェックインしました。ホテルの運営はシーラックパル株式会社(本社:東京都港区新橋)各地に数店舗あるチェーン店のようです。雰囲気は悪くありません。お値段三流、設備は一流というのがシーラックパルのモットーのようです。

ホテルから徒歩10分弱の場所に、和食のお店があるのでお土産屋さんで購入した伊達政宗のTシャツを着て、晩飯を食べに出かけました。新鮮なお刺身や仙台名物の牛タンなどがあり、地酒で一杯やり、無事に一日が終わりました。

 





[ 一覧 ]
仙台・松島の旅行記
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/15(金) 13:48
No. 7951
 
  上野から新幹線で仙台まであっという間です。仙台駅から松島海岸駅へ向かいました。満員電車です。今回乗るのは「仁王丸コース」約50分のコースです。乗船チケットは松島海岸駅前のチケット売場で購入しました。この時の出航時刻は9:00、10:00、11:00、12:00、13:00、14:00、15:00です。

私は11時の船に乗ります。遊覧船待ちに最高金賞受賞の日本一牡蠣カレーパンを食べることにしました。二日酔いの最初の食べ物です。一個購入してみました。店内で手作りしている手作りパンのお店なのですが、すでに出来上がっていたので温かくはなかったです。

基本はカレーパンとメロンパンで、カレーのほうは牛タンと牡蠣で、メロンパンはずんだ餅入ということでした。中には休憩所のようなものもあって、エアコンが効いています。外はものすごく暑いので、中で食べることにしました。割ってみると、ゴロッと牡蠣が二個入っています。甘口カレーで牡蠣の風味は少しするかな。

外のカリカリと中の甘口カレーの組み合わせは結構いいかも。牡蠣はぷりっとした牡蠣。物は試しに購入して食べてみましたが、案外普通に美味しいパンでした。松島に来たら一つは食べてみたいパンだと思います。場所も遊覧船乗り場のすぐ目の前なので待ち時間ができたら是非一個購入して食べてみてください。

牡蠣カレーパンを食べた後、遊覧船出発15分前くらいに船の近くへ行くと、すでに乗船する人の行列ができていました。5分前くらいから乗船が始まり、とりあえず1階席、進行方向左側の窓際に座りました。既にすごい人でした。2階へ行くにはグリーン料金600円がプラスでした。船上から見る島々は美しくて50分があっという間でした。

船内では「左側に見えるのは・・・」という風にガイドアナウンスが流れています。手元のコースマップと併せて見ると現在地がわかります。出航して10分ほどで、大小さまざまな島が次々と現れ、島が多い場所なのだと実感しました。

下船するとお昼時なので、どこもお客さんでいっぱいなので、慌てて南部屋というお店に入りました。前回来たときは友人の結婚式で夜は、松島で一泊したのですが、牡蠣のフルコースだったので、本日は、美味しい海鮮丼を食べようと松島までやって来ました。座席はあっという間に満員となりました。早速、注文したのはこの店、一番のおすすめも海鮮丼です。

鮪・甘海老・うに・いくら・帆立・イカ・きゅうりです。一見すると、関東で食べるのと大差ないかな。小鉢、少ない。香の物は、沢庵少し。お味は、ウニとイクラは美味しかったが、あとは、うーん。小ぶりのどんぶりで値段の割には地元のすし屋の方がはるかに美味しいかな(笑)

お昼を食べた後は、五大堂へ行ってみることにしました。すぐにお土産屋さんで伊達政宗のTシャツを購入しました。五大堂は坂上田村麻呂がお堂を建立したのが始まりとされ、現在の建物は1604年に伊達政宗公が再建。東北地方現存最古の桃山建築で、国の重要文化財とのことです。海外からの観光客で大変にぎわっていました。

五大堂前に近付くとすかし橋は2本あることに気付く。数m下には海面が見えている。踏み外しても落ちることはないと思いますが、ふざけていると痛い思いをすることになるかもしれません。近くの五大堂横に建つ、「東日本大震災慰霊祈念碑」がありました。

兄がここで行方不明になっているのでお祈りできて心が落ち着きました。3.11東日本大震と同じくらいの大規模な津波は、平安時代の貞観津波(869年)、江戸時代の慶長三陸津波(1611)と過去2回ほど記録が残っています・

次にひときわ目を引く赤い橋、出会い橋と言われている橋の向こうにあるのが福浦島です。見た目よりは思いの外、広い島で、島内散策で1時間くらいかかるといいます。それでも島から見える景色や福浦橋を渡り福浦島へ。松島海岸と福浦島を結ぶ、全長250mの赤い橋です。 橋を渡るには、大人200円、子供100円です。

松島の赤い橋は、福浦橋以外に渡月橋、透かし橋とあり、総称『松島三大橋』と呼ばれています。橋を渡って福浦島へ上陸。坂を上ると遊歩道になっていまして、景色が眺められる見晴らし台が良い眺めです。茶屋もあります。どんどん進むと遊歩道では無くなり、ハイキングコースのような道になります。

所々に見晴らし台があり、松島湾の島々を陸よりも近くで眺める事が出来ます。立派な杉並木も見えますが、東日本大震災時の津波による塩害で多数伐採されてしまったのだとか。現在は新たに植えられた杉がすくすくと成長中です。あまりの暑さに二日酔いで命の危険を感じたので、ハイキングコースは断念して引き返してしばらく休憩所で休みました。

落ち着いてから、伊達政宗の菩提寺ということで瑞巌寺に行ってみました。歴史の空気を感じるすばらしいお寺です。こちらも五大堂と同じく伊達政宗公によって建立されています。1609年に完成、国宝に指定されています。豪華絢爛な本堂内や庭を見学、さすがお洒落な政宗公、見ごたえがありました。そして、松島海岸駅へ戻り、仙台へ向かいます。


 





[ 一覧 ]
日露戦争から満州事変まで
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/14(木) 14:28
No. 7950
 
 
日露戦争の開戦時、日本には幸運なことに伊藤博文という明治の元勲が生き残っていました。伊藤は戦争が始まるや金子堅太郎をワシントンに送り込みます。岩倉使節団に随行した金子はアメリカ暮らしが長く、ハーバード大学の学生時代に無二の親友を得ていました。

その親友がセオドア・ルーズベルトです。金子の親友が大統領になっていることを、伊藤は知っていました。ロシアは弱っているから最初は勝てるかもしれないけれど、日露では国力が違いすぎることを、伊藤はわかっていました。

最後はアメリカに仲介を頼む以外に戦争を終わらせる方法はないと考えていました。だから金子をアメリカに派遣したのです、終わらせ方を計算したうえで戦争を始めたのです。伊藤の読みは当たり、セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争は終わります。

日露戦争の間、日本政府は「勝った、勝った」と世論を煽りましたが、実際は苦戦続きでした。もともと無理をして仕掛けたので、多くの兵が亡くなりました。ロシアにはあと何年も戦争を続ける体力が残っていましたが、日本は陸軍も海軍も兵站が延び切っています。

そこでルーズベルトの仲介で、停戦交渉を始めます。小村寿太郎という有能な外務大臣が粘り強く交渉して、講和条約は日本に有利な内容になり、ロシアは南樺太を日本に割譲しました。ただし、賠償金はとれませんでした。国民は怒りました。

日清戦争で多額の賠償金がとれたので、同じくらいとれると思っていたのです。「日比谷焼き討ち事件」が起きて、新聞も政府を批判する記事を書きます。逆恨みで「こんな仲介をしたアメリカはけしからん」という論調も出てきます。

セオドア・ルーズベルトはどう思うでしょう。「何という国や。友情からえこひいきしてやったのに恨むなんて。こんな国は信頼できない」と思います。日米関係がおかしくなっていきます。日露戦争後、日本は朝鮮進出を加速します。

伊藤博文は、「朝鮮民族は誇り高い。韓国の外交と内政をコントロールできれば十分で、韓国を併合したらだめだ。それをやってしまうと禍根を残す」と考えていました。ところが、その初代総理大臣の伊藤博文がなぜか韓国に暗殺されて、日本は歯止めが利かなくなり、1910年に韓国を併合します。

この年には、冤罪をでっち上げて社会主義者を処刑した大逆事件も起きて、日本は暗黒時代に入っていきます。明治時代の日本は進取の気概にあふれていました。だから中国から革命を志す人がどんどん留学にやってきました。

孫文もそうですし、周恩来も日本で勉強しています。孫文と深い友情を結んで、資金提供をした梅屋庄吉という実業家もいました。渡したお金は、今の貨幣価値にして兆円単位になるともいわれています。

孫文たちは清を打倒するため、何度も蜂起しますが、失敗が続きます。ついに成功したのが1911年、辛亥革命です。孫文は南京で臨時大総統になり、中華民国が成立します。しかし、北京にはまだ、満洲族出身の清朝最後の皇帝、宣統帝 (溥儀) がいます。

孫文は、軍閥の宰相、袁世凱と取引します。「宣統帝の退位と引き換えに臨時大総統の座を譲る」と。しかし、袁世凱はとんでもない人で、自分が皇帝になろうとします。その結果、 中国では、南京に成立した孫文の政府と北京の軍閥政府という対立の構図ができあがります。石原莞爾は立ち上がり満蒙問題の解決には石原莞爾の描いた満州事変を行ったのです。

満州国は決して植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みで建国育成は、歴史上前例のないトライアルです。侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りだと思うのです。

 





[ 一覧 ]
マッカーサーが許さなかった本
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/14(木) 14:26
No. 7949
 
 
ヘレン・ミアーズという米国人女性が書いた、『アメリカの鏡・日本』という本があります。1948年という占領中に原書は出版され、日本で翻訳出版の動きがあった時、マッカーサーが禁止した本です。

その中でミアーズ女史は「アメリカおよび北欧は、日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と繰り返し書いています。多くのアメリカ人は、日本人が「凶暴で貪欲」だと非難しているが、それはヨーロッパとアメリカから、「遅れてきた国、日本」が学んだ事ではないか?

「国際関係のルールとは、実は暴力と貪欲を合法化したようなものだ。基本原則の中で大国がきちんと守っているのは唯一、各国の政策立案グループが設定した『国益』だけではないのか。日本人が学んだのは、そういうことだった」とヘレン・ミアーズは言うのです。

終戦直後に、堂々とこういう正論を述べたアメリカ人がいたのは素晴らしい事です。マッカーサーがこの翻訳や東亜連盟(現・石原莞爾平和思想研究会)を許さなかったのもよく分かる素晴らしい本です。是非、読むべきだと思います。

 





[ 一覧 ]
満州合衆国建設の遠因
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/14(木) 14:24
No. 7948
 
 
20世紀は、戦争の世紀です。20世紀後半は冷戦で、前半は熱戦でした。19世紀に成立した新興のドイツ帝国は、「3B政策」を構想します。ベルリンからビザンティウム(イスタンブール)、そしてバグダッドにつながる鉄道を敷設する計画です。

鉄道は軍隊の高速移動に適しています。狙いはバグダッドの先にあるインドです。ナポレオンは、大英帝国の力の根源であるインドを狙ってエジプトに遠征しました。ドイツも同じことを考えて、ここにくさびを打ち込もうとしたのです。

これに対して、大英帝国は「3C政策」です。3つの都市を結ぶ三角形ですが、次の2つのラインが重要です。1つはエジプトのカイロから南アフリカのケープタウンを結ぶライン。 アフリカ縦断政策です。

フランスが西アフリカのセネガルから東に向けてとったアフリカ横断政策を断ち切ります。もう1つは、カイロとインドのコルカタ (カルカッタ)を結ぶラインです。ドイツが打ち込んできた楔を、海で食い止めます。

「3B 政策」や「3C政策」という名前は、都市の頭文字を取って後から学者が付けたものですが、わかりやすいです。要するに「ドイツ帝国と大英帝国が世界の覇権を争っていた」というのが20世紀初頭の構図です。

1902年、日英同盟が結ばれます。19世紀末、大英帝国はボーア戦争で大軍を南アフリカにくぎ付けにされてしまったのでした。一方で、南下するロシアは大英帝国の心臓部のインドを脅かそうとしていました。

ロシアと大英帝国の覇権争いは、グレートゲームと呼ばれるほど熾烈なものでした。そこで大英帝国は、日清戦争に勝った日本に目をつけて、同盟を結んだのです。ロシアに対抗する、いわば傭兵として日本を使おうとしたのです。

日露戦争開戦の真実は、日本がロシアの弱みにつけこんだというものです。日英同盟で安心した日本は1904年、 日露戦争を仕掛けます。日露戦争については、「南下するロシアに対し、日本が耐えに耐えた末に乾坤一擲の勝負を挑んだ」と思っている人が多いです。

司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で描いた構図です。しかし、近年の研究によると、史実は逆のようです。ロシア国内は当時、反体制運動などで騒然としていました。19世紀末に結成されたロシア社会民主労働党は1903年、多数派のボリシェヴィキと少数派のメンシェヴィキに分かれ、レーニンが多数派の指導者になりました。

そんな状況につけこみ、日英同盟もあるし、今なら満洲の権益を奪えるかもしれないと思って、日本がちょっかいを出したということのようです。戦争が始まった後も、ロシアでは、「血の日曜日事件」が起きて、皇帝のニコライ2世が国会開設の約束をさせられ、「戦艦ポチョムキンの乱」も起きるというように、荒れに荒れていました。

満洲に構っていられませんでした。司馬氏があの素晴らしい小説を書いたのは冷戦時代で、ロシアに関するデータが十分にそろっていませんでした。アジアで植民地でなかったのは日本と同盟国のタイ王国だけです。

この時を生きていた日本人が抱いた切迫感はよくわかるのでないでしょうか。日本国が白人支配をくい止めなければアジアの民が奴隷にされてしまうという論理から独立保全を助け、満州合衆国を建設しようと石原莞爾は立ち上がることにつながっていくのです。

 





[ 一覧 ]
広島の旅行記3日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/13(水) 14:09
No. 7947
 
 
海軍中佐である祖父と呉生まれの父のところに向かいました。呉市を代表する観光スポットのひとつである呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)は2025年2月から2026年3月末まで休館の上、設備改修と展示内容の見直しを中心としたリニューアル工事が行われています。

そこで、大和ミュージアムの工事期間中でも楽しんでいただけるよう「大和ミュージアムサテライト」が設けられています。大和ミュージアムサテライトは呉市内中心部ビューポートくれの1Fにありました。呉駅からは改札を出て東に徒歩5分ほど、川沿いに立つレンガ色のビルに大和ミュージアムサテライトがあり、幕がかかっていますので目立ちます。

見学には所定の観覧料が必要です。JAFを窓口でご提示すると割引が受けられます。館内展示エリアの通路は車椅子・ベビーカーにも十分な広さ。車椅子の貸出もあります。展示されている図面は、立って見るにはよい高さでしょう。ミュージアムショップもありますが、車椅子で利用するには少々狭いかもしれません。

入場するとまず迎えてくれるのは、1/100スケールの 戦艦「大和」(模型)。全長2m63pですから、なかなか大きな模型です。大和ミュージアムのシンボルである。実際の戦艦「大和」は263mですから、身近な例でいえば、虎ノ門ヒルズのステーションタワーが高さ265.75mで同じくらいです。

次に見えてくるのは、航空母艦や巡洋戦艦の設計図(複製)です。大正、昭和初期の計画図面ですから、現在のようなパソコンも3D CADもありません。図面には様々な線や寸法が一面びっしりと書き込まれています。軍艦とひとくちに言っても、大きさや役割によって様々です。主に大砲で戦う巡洋戦艦の甲板には大きな砲台がいくつも並んでいます。

一方、航空機を発着させる滑走路をもつ航空母艦の甲板は、平らで見通しがよく、さえぎるものがありません。また乗組員にとって艦は職場であり、生活の場でもありました。図面を見ると、ひしめき合う機械や配管の間に兵員室(寝室)や烹炊所(厨房)、食糧倉庫なども見えます。厳しい訓練、長い航海で一番の楽しみは食事だったとも言われています。

一見なじみの薄い軍艦の設計図にも人々の営みが見えてきます。展示施設の中央には、設計図面を画面上で見られる装置も設置されており、スマホ同様、指先で拡大・縮小しながら航空母艦の設計図面を見ることができます。設計図面を見終えると見えてくるのが、戦艦「大和」にも搭載された零式観測機の実物大模型です。

「観測機」は、大砲の射撃に必要なデータを集める飛行機です。戦艦「大和」の主砲は約42q先まで砲弾を飛ばすことができます。でも、水平線より遠くの目標は地球の丸みが影になり見えません。また、砲弾は飛んでいる間に風などの影響で軌道がずれてきます。そこで上空から観察してずれを補正するのが「観測機」の役目です。

零式観測機は主として戦艦に搭載するために設計されました。機体は2人乗りでコンパクトにまとめられ、海面近くをゆっくり飛んでも安定するよう、複葉機になっています。また、戦艦には飛行機を飛ばすための滑走路がありません。発進は艦の上から発射装置で行いますが、帰ってくるときには水面に降りられるようフロートがついているのが特徴です。

第二次世界大戦前まで、日本は航空機の設計・エンジンの製造、機体の組み立てまで一貫して行える航空先進国の一つでした。そして呉市には軍艦の建造設備だけでなく、航空機の製造・研究拠点もあったのです。リニューアル後の大和ミュージアムでは、航空機に関する展示の充実が図られるようで今から楽しみです。

さて、呉には海軍直営の造船所である海軍工廠が置かれ、軍艦の材料となる鉄の生産から、艦の組み立てまでを行いました。壁面パネルでは、呉で建造されたおもな艦が紹介されています大和ミュージアムサテライトには、館内のミュージアムショップのほかに出入口を出て隣にみやげ処もありますので思い出にポロシャツを購入しました。

続いて、大和ミュージアムのすぐそばにあるてつのくじら館へ向かいました。ここはお勧めです。個人的には大和ミュージアムサテライトより面白かったです。別名海上自衛隊呉史料館、入場無料。なんとこれほど充実しているのに無料なのです。自衛隊の活動を知ってもらいたいということもあるのかもしれません。

「海上自衛隊の歴史」「機雷除去目的の掃海艇の活躍」そして「軍事的な目的(守備的な意味で)の潜水艦の活躍」と、テーマごとにパネルや映像、実物や模型などを使って分かりやすく説明しています。そして実際に活動していた潜水艦「あきしお」の内部も見学できるのです。展示の仕方も面白いです。

例えば機雷をどうやって除去していくか、その方法のいくつかをビデオで紹介していたり、潜水艦の中での乗員の生活を再現していたり、機雷の模型。機雷には接触して爆発するものの他に船の磁気や音波に反応して爆発するものなどがあり、実に科学的なので、見つけてから除去するのは反応させずにやらねばならない。それが、まさに命がけの任務です。

食事の例。乗員の曜日感覚がなくならないように金曜がカレーの日というのはよく知られています。近年潜水艦の静粛化が進み、音を感知しにくくなったので探知そのものが難しくなっているとか。しかも見つけても相手が敵か味方かの判別が難しくなっているそうです。そしてラストは潜水艦あきしお艦内見学です。

艦内のライトも明るくしたり薄暗くしたりと24時間のうちに切り替えている。赤くするのは夜を疑似的に表しています。かなり狭くて過酷です。こんな状況で何日も何十日も大変な任務にあたるのです。驚いたり感心したり非常に興味深かったです。呉にきたら是非、てつのくじら館に行くべきだと思います。

その後はお昼を過ぎていたので慌てて、お店を探してゆめタウンというモールに入りました。すぐに信州そば・そじ妨というチェーン店があったので入りました。海軍カレーを見てしまったので、お蕎麦とカツカレーのセットにしました。会計の時にDカードありますかというので出してみるとポイントを付ける場合は現金支払いのみと言われた。

関東から呉まできて現金などあまり所持していないのでカードで支払いをしたのでポイントは付与しないとのこと。こんなことってどうなの?ただ、嫌な気持ちにさせるだけで観光がつまらなくなったよ(笑)大和ミュージアムの周りの展示物を見ながら散歩して広島へ戻った。グランドインテリジェンスホテルに荷物を取りに行き、お土産を購入へ。

広島駅前のデパ地下がとても充実しています。広島の百貨店「福屋」に入りました。バラエティ豊かにオープンとのことでした。お土産屋さんスイーツやお惣菜の新しいショップが多々ありました。食品専門店をはじめ、こだわりの生鮮やグルメも充実した、駅前のデパ地下が面白いです。駅弁を購入して一杯飲みながら新幹線で帰ってきました。

 





[ 一覧 ]
広島の旅行記2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/13(水) 14:07
No. 7946
 
 
ホテルを出て、広島駅に向かいます。JRで宮島口駅へそこから歩いて、JR西日本の宮島フェリーで宮島へ。清々しい空気のなか、雄大な瀬戸内海と山々、そして厳島神社の大鳥居が見えます。10分ほどで宮島に到着。宮島にはシカがたくさんいます。世界遺産の厳島神社には海沿いを歩いていきます。大鳥居が見えてきました。

干潮だったので、歩いて、大鳥居の下まで行けます。朝早く来たので、まだそんなに混んでいませんでしたが、家族連れや、外国人観光客など訪れる人は様々でした。楽しそうに写真を撮影しています。なんとも良い雰囲気。真下から鳥居を見上げると、すごい迫力 青い空に朱色の鳥居が映えて、とっても綺麗でした。

厳島神社も、満潮時の前回とは違い、水上ではありませんでしたが、それでもやはり美しかったです。宮島の美しさを堪能したら、混む前に神殿へ。厳島神社のおみくじを引いたことはありますか?一度も引いたことがなければ、この神秘的な体験をおすすめします。厳島神社のおみくじは、多くの人々の運命を導く力を持っていると言われています。

おみくじの「平」は、安定や平穏を意味します。これは、吉でも凶でもない中立的な結果です。凶が出たのでおみくじの意味について神主さんを捕まえて語っていただきました。おみくじの「凶」は、困難や試練を意味します。これは、注意深く行動する必要があることを示しています。「凶」を引いた場合、冷静に対処し慎重に行動することが求められます。

前向きな姿勢で挑戦を乗り越えることが重要です。「凶」は、改善の余地があることを示すサインです。これを機に、自分を見つめ直し、成長の機会と捉えましょうとのことでした。「凶」が出る神社としては、厳島神社が有名です。その後、我々の後にお客さんが並び始めると神主さんはさっと立ち去りました(笑)

系図では桓武天皇から平家の流れの海軍中佐である祖父と呉生まれの父。とても関係が深いと思われる清盛神社はこの西の松原の先になります。西灯籠の左手は細い流れの御手洗川が流れており、この川で清めをしていたのかもしれない。西の松原から見る大鳥居と宮島桟橋の眺め。参道をしばらく歩いて行くと清盛神社の赤い社殿が見えてきます。

現在の厳島神社を形作った平清盛をお祀りする神社なので、ここは参拝しておくべきだと思います。厳島神社は参拝者で溢れていますが、清盛神社まで訪れる参拝者は少ないようです。平清盛公の没後770年を期に、御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和29年(1954)に創建されたそうです。

島内に厳島神社の摂社三翁神社が鎮座していますが、そちらから分祀創建されたのが清盛神社です。「平氏にあらずんば人にあらず」、あまりいい印象を持たれない清盛ですが、この地方に於ては音頭の瀬戸を始めとした航路や港の整備などに貢献し、清盛の印象は変わり、寝殿造りの厳島神社の基礎を築いたのも清盛の功績なのかもしれません。

厳島神社参拝のあとは、清盛神社まで足を伸ばしてやってきたのは、宮島民俗資料館です。歴史とか民俗とか書いてありますと興味がわきます。資料館のため写真撮影が出来る場所と出来ない場所があります。鯉の泳ぐ庭園でしばらく餌をあげていました。その後、鬼滅の刃の缶コーヒーを探しに歩き回りました。疲れました。

お昼になったので宮島と言えば、牡蠣や穴子が有名です。みやじま食堂は、表参道商店街の真ん中、郵便局の隣にあります。みやじま食堂といった暖簾がかかっているので、そこが目印です。外観は清潔感のある雰囲気。店内で提供されている食事内容がディスプレイされています。メニュー内容は、牡蠣や穴子を使ったセットメニューが中心です。

一番客でお店に入ると、その後は次々にお客さんが入ってきて、平日でしたが、とても賑わっています。宮島に来たのなら、やはり、穴子と牡蠣は味わいたいです。1階のスペースにてお食事を頂きました。実のぷりっとした牡蠣が入った牡蠣飯と、あなご定食、しらす定食と飲み物はレモンが有名なのでレモンのアルコールを頼みました。

宮島からの帰りは、JR線を使って広島駅に戻り、再び路面電車で、広島城近くまできました。復元された平櫓が見えます。お堀の幅が広いことに驚きました。被爆ユーカリの木の存在を知ったので、実物をみたく散策。80年、頑張っていました。地獄をみたけど、復興の姿も見続けていたのだと思うと胸が熱くなりました。

昭和32年に復元された広島城の天守閣。旧天守閣は、国宝に指定されていましたが、原爆で倒壊してしまったとのことです。天守閣の中は、博物館になっていて、刀剣や甲冑、城下町広島の歴史など展示されていて、勉強になりました。最上階は、展望台になっていて、360度、広島市内を見渡すことができます。

ただし、周りはビルが多く、絶景という感じではなかったです。ものすごく暑かったのでかき氷のアイスがとてもおいしかったです。いったん、ホテルに戻り一休みしてから晩飯にはホテルのとても感じよい良心的なフロントの女性に地元のものが食べさせてくれる美味しいところを2件紹介してもらったので、もう一軒に行くことにしました。

近くの「浜ケン」という居酒屋です。よく考えてみると昨日の夜は「イチケン」で今度は「浜ケン」とどちらもケンがついていました。広島駅近くに存在感十分の外観が渋い居酒屋でした。入り口の目の前に大きな白黒の魚河岸の写真が貼られ、その横には水槽がおかれている。1階はかなり賑わってして満席でした。

2階へ案内されました。古びた木造の階段を上がると4人掛の少し大きめの木のテーブルとベンチシートがある。早速、乾杯です。付き出しの雑魚のさつま揚げみたいなものはとてもおいしかったです。ハマチの刺身はびっくりするほど大きい。広島の醤油で食べる。刺身の盛り合わせにさらに追加して新鮮なお魚をいろいろ食べました。

店内は団体客で随分と騒がしい。大きな声で話さないと聞こえない。戦後のバラックのような建物がある。不思議な光景です。和食なので地酒がうまい。刺身は新鮮で美味いし、分厚く切った鰤刺身は食べ応え充分で皆さん、お代わりするほど満足していました。食いまくり値段は往復の新幹線代より高かったが、丁寧な仕事が伺える良い居酒屋でした。なにより、皆さんが非常に喜んでくれて、私はそれだけで大満足でした。

 





[ 一覧 ]
広島の旅行記1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/13(水) 14:05
No. 7945
 
 
東京駅から新幹線で広島に向かう前に東京駅で好きなお弁当を購入して、東京駅改札内の鬼滅の刃大規模広告キャンペーンを撮影しました。ボックスシートでお弁当を食べながら広島駅に向かいました。いつもは飛行機で広島に行くのですが、新幹線は初めてです。

広島駅についたらフリーきっぷを購入しようと路面電車事務所をうろうろしました。それもそのはず、あと3日で新幹線の近くまで路面電車が入り込む工事をしている最中だったのです。なんとかフリーキップを手に入れてからグランドインテリジェンスホテルに向かいました。ホテルまでは徒歩3分です。

エントランスに入ると中世ヨーロッパをモチーフとしているようで、シャンデリアがキラキラしていてテンション上がりました。とりあえず荷物を預けて観光に出かけます。ホテルのフロントの優しい女性に最寄り駅を教えてもらい長崎でも何度も利用した路面電車に乗って、本日の目的地である原爆ドームまで出かけました。

乗り心地は長崎と一緒でした。走る事、数分ほどなくして原爆ドーム前駅に到着しました。1945年8月6日に広島市に原爆が投下され爆心地から160mにあった、大正初期に建てられた楕円形ドームのあるレンガ造り3階建ての洋風建築物で当時の広島県産業奨励館は爆風と熱線で大破したが中心部は奇跡的に残り被爆の悲惨さを後世に残しています。

終戦から80年以上が経過した現在も、核兵器の廃絶と世界平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑としての役割を果たしています。核兵器の廃絶と恒久平和を世界に訴えるシンボルとして世界三大負の遺産「原爆ドーム」が1996年世界遺産に登録された。

ちなみに世界三大負の遺産とは、セネガルのゴレ島、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所、広島の原爆ドームです。これらは、奴隷貿易、大量虐殺、核兵器という人類の負の歴史を象徴する場所として、後世への教訓とするために世界遺産に登録されています。

戦争や人種差別など、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す言葉です。その後の予定としてはお昼を有名な「長田屋」のお好み焼きを食べる予定でしたが、めちゃくちゃ行列が出来ていたので断念しました。

お好み焼き村のお好み焼き屋さんに行ってみました。時間が中途半端だったので、ギリギリ入れたという感じです。外国人ばかりでした。チーズのお好み焼きを頼んだところでかくておなか一杯になってしまいました。

お昼を食べた後は、『原爆の子の像』を見ました。像の高さは9mで頂上に折鶴を捧げ持つ少女です。少女は被曝して1000羽以上の鶴を折ったが亡くなってしまいました。石碑の碑文。これは僕らの叫びです。これは私達の祈りです。世界に平和を築くための。

この像は2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに同級生たちが「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ、全国の3200余りの学校や世界9か国からの寄付などにより1958年5月5日完成したものです。

次に『平和記念公園』平和公園一帯は、学生生活を広島で送られた、丹下健三氏による設計だそうです。平和記念公園内『平和の鐘』は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、鐘をつく人の己の心を写し出す鏡が入れられています。平和の鐘の天井には戦争の原因のひとつである国境線のない世界地図が書かれてあります。

すべての核兵器と戦争のない平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとして作りました。この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつきました。鐘の音を広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人ひとりの心にしみわたらせることを願っています。

次に『原爆供養塔』は、犠牲になった無縁仏を供養するための原爆供養塔。身元が判明した段階で犠牲者表に名簿が記載されるそうです。『折鶴奉納場』の脇に、原爆供養塔納骨名簿が貼られています。

『平和記念公園』の献花台は、テレビでいつも映し出されているところです。平和祈念式は、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌・平和記念日に平和記念公園で行われます。そして資料館の中は外国人でいっぱいでした。

資料館は原爆前の広島市民の様子、当日、その後、復興への道、現在と順を追って見られます。一度は行くべき場所だと思います。そして気分は沈みます。何故こうなったのか。それを知る資料館は戦争において中々ありません。広島の復興について街の中はエネルギーに溢れています。広島の方は優しく明るくエネルギッシュだと感じました。

観光から戻って夕方にホテルに到着。荷物はすでにお部屋に運んでおいてくれました。エレベーターもおしゃれです。お部屋はツインルーム。ヨーロピアンクラシック調のお部屋です。ベッドサイドにはコンセントが2個あり、便利でした。お風呂はバスタブと洗い場もあり、入浴剤も置いてありました。ホテルの湯船に浸かったのは久しぶりです。

洗い場付きのバスルーム。洗面所も使いやすいです。洗面所の引き出しの中には入浴剤にコットン、綿棒、ヘアゴムのセットとアメニティも豊富でした。トイレもセパレートで使いやすい。クローゼットにはハンガーが4本とズボンプレッサー。スリッパは通常のものと使い捨ての両方ありました。ソファーもあって、くつろげました。

小さいテーブルもあったので、朝食を食べたりできて便利でした。晩飯にはホテルのとても感じよい良心的な女性に地元のものが食べられる美味しいところを紹介してもらったら2件教えてもらいました。まずは、近くの「イチケン」という居酒屋でした。行ってみると「予約していますか」と言われましたが、ひとテーブルだけ開いていました。

ギリギリ入れました。隠れ家的な居酒屋さんです。店内は和風でカウンターにテーブル、奥はお座敷といったかんじでした。隠れ家的なのにお店はお客さんでいっぱいになりました。飲み物は一通りあります。私の好きな地酒もそろっていました。店員さんの対応もすごく丁寧でハキハキしており気持ちよくすごすことができました。お料理も本当においしいです。

基本的には和食かなと思いますが洋風などもありました。一番びっくりしたのはごぼうの天ぷらです。隣の方が注文していたので驚いたところ、おすそ分けしていただきました。お隣さんは実は川崎の方でした(笑)がぶがぶ地酒のんでかなりの料理を注文しましたのでおなかいっぱいです。その後は広島の夜の街を散策してからホテルに帰りました。

 





[ 一覧 ]
星々の生と死が繰り返される
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/08/12(火) 19:00
No. 7944
 
 
星間ガスから様々な質量の星が生まれ、それぞれの一生を終えて、再び物質を星間ガスに返します。これが銀河の中で何世代にもわたって繰り返されています。それはあたかも、地球上で人間をはじめとする様々な生命が生まれ、やがて命が尽きると土に還ることを彷彿とさせます。また、生命の活動はその母体である地球の環境にも影響を与えます。

過去数十億年にわたって徐々に地球大気の中で酸素が増えてきたのは、植物による光合成のおかげでしょう。そして今、産業革命以降の人類の活動のために大気中の二酸化炭素が増え続けています。銀河もまた、星が生まれ続けることで徐々にその姿を変えていきます。

星間ガスは星に転化することで徐々にその量を減らします。一方で、超新星爆発から放出された重元素のために、星間ガス中の酸素や鉄の量は徐々に増えていきます。星が生まれ死ぬことで、銀河の進化が進むのです。

宇宙の年齢が約1億年の頃に最初の星が誕生します。これが、銀河形成の歴史が始まる瞬間です。一方で、宇宙大規模構造の形成は暗黒物質の重力によって脈々と進行しています。重力を支配し、星や銀河を作る原動力となりながら、自分自身はあくまで黒子として粛々と我が道を行くといった風情であろうか。

より大きなハローが登場し、より多くのバリオンガスがそれらに取り込まれることで、星形成の原料となる物質が増えていくのです。このため、宇宙全体での星形成活動はどんどん活発になっていくのです。

遠方の銀河の観測から、宇宙全体での星形成活動がそのピークを迎えるのは、ざっと宇宙誕生後20億年から50億年といったところ、赤方偏移で言えば3から1程度の時代であることがわかっています。

初代の星や銀河が誕生してから現在までを朝から夕方までの1日になぞらえて、この時代を「宇宙の正午」 (cosmic noon)という言い方が研究者の間で最近流行っているといいます。初代の星が生まれた頃は「宇宙の夜明け」 (cosmic dawn) です。

このピークを過ぎると、宇宙全体での星形成活動は下火になっていくわけですが、それにはいくつかの理由があります。暗黒物質ハローに取り込まれたガスは、時代とともに高温で低密度になっていきます。

そのようなガスは冷えにくいため、星が生まれることもなくなります。このような状況になっている典型的な例が、銀河団です。我々の銀河系のような立派な銀河が数百あるいは数千という数で、重力で束縛されて密集している領域を銀河団といいます。

重力で束縛された一つのシステムとしては宇宙で最大のものです。その総質量は実に太陽の1000倍にも及び、その大半が暗黒物質です。もちろんバリオンガスも存在し、銀河団の強大な重力のために1億度もの高温にまで加熱されて、X線で輝いて見えるのです。

 






     + Powered By 21style +