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舞台はパリ。1898年のある朝、キャンバス地の袋を積んだ馬車がロモン通りを走っていました。袋の中身は、はるばる東欧のボヘミアから取り寄せたくず鉱石です(その中にはウラン原子も含まれていたはず)。
馬車が停まったのは粗末な小屋で、以前は近くにある医学校の死体置場でした。小屋で待っていたのが31歳のマリ・キュリー、それまでの物質観を塗り替えた科学者です。(我らの炭素原子は目の網膜に存在していた) 薄汚れた大きな袋を見てマリは小躍りします。
エックス線発見からまだ数年しかたっておらず、マリと研究仲間で夫でもあるピエールは、皮膚や壁さえも透過する驚きの性質が生まれる仕組みを突き止めたかったのです。夫妻のお目当ては岩石に含まれるピッチブレンド鉱石でした。
現在は閃ウラン鉱と呼ばれ、エックス線に似た放射を生み出す物質です。ひもを切って袋の口を開けると、鈍い茶色の鉱石が出てきました。松葉も混ざっていて、さわやかな香りが漂う。これからピッチブレンドから物質を分離しなければならない。
それは想像を絶する重労働で、のちにマリは「その作業が生活のすべてとなり、まるで夢の中みたいだった」と書いています。劣悪な環境のなかで夫妻はウラン含有量が50〜80パーセントのピッチブレンドを精製しました。
抽出された物質はガラス容器に入れて壁際に置かれました。これだけでも十分に立派ですが、マリとピエールはもっと希少な獲物を狙っていました。2人はさらに3年かけて何トンもの鉱石を精製し、1グラムのわずか10分の1という微量の物質の分離に成功します。
それが、マリがラジウムと名づけた物質でした。ほとんどの物質は高温にさらされると性質が激変しますが、貴重なラジウムは極端な温度にも全く影響を受けないことがわかりました。不思議な性質はほかにもありました。自発的にエネルギーを出すのです。
化学反応ではない未知の仕組みが働いているようです。マリはそれを放射能と呼んだ。計算すると、ラジウムが発するエネルギーは同じ量の石炭を燃やした時よりはるかに大きい。放射能は化学的なエネルギーの10万倍にもなりそうだ。
マリとピエールはこの時点では理解しきれていなかったが、これは分子がもつエネルギーと、もっと深いところに蓄えられたエネルギーの違いでした。実験小屋の棚には、ピッチブレンドの精製に使用したビーカーや瓶がずらりと並ぶ。
ある夜、夕食後に小屋に行ってみた夫妻は驚いた。ガラス容器がぼうっと光を発しているのです。マリはガス灯をつけようとする夫を制した。瓶やフラスコや試験管がどれも青っぽく光っているのです。
「粗末で貧相な小屋で光を放つ試験管、それは地上の星だった」とマリは後年記しています。放射能を有する原子の内部で何かが起きています。青い光はそのせいに違いない。マリの出した結論は正解でした。
何千年ものあいだ、原子は不可分なものとされてきました。そもそも原子を意味するatomという単語が、ギリシャ語で「切り分けられないもの」という意味です。だから原子は物質の最小単位となります。
夫妻が見た「地上の星」は、原子それ自体が一つの世界であり、誰も知らなかった舞台で、誰も見たことのない活動が行なわれている証拠でした。しかも化学反応の影響を受けないときている。謎を解くには、新しい戦略、新しい自然法則、新しい技術が必要です。
マリ・キュリーが使ったノートや料理本は、1世紀以上を経た今でも放射能をもっています。1906年、ピエールが馬車にひかれて即死します。マリはその後2年間精力的に研究を続け、66歳、再生不良性貧血で死去しました。
放射線を日々浴び続けたせいではないかといわれています。マリは、自分が世に送り出したラジウムが医療や産業に貢献すると信じていたから、その危険性は頑として認めなかった。しかし先見の明を持つ作家H・G・ウェルズが、ほどなくその不吉な側面に気づいてしまいます。彼は科学の最新成果を取り入れて、胸踊る物語に仕立てる天才でした。
タイムマシンを登場させ、宇宙人の襲来を描いたウェルズは、原子が兵器になる未来世界を想像しました。1914年に出版された『解放された世界』のなかで、彼は「原子爆弾」という言葉をつくり、無力な一般読者に向けて発射しました。
設定は1950年代で、当時からすると想像もつかない遠い未来です。ライト兄弟が初めて飛行機で空を飛んでから10年しかたっていないのに、ウェルズは原子力でイギリス海峡を渡る飛行機を想像したのです。
ゴーグルとヘルメットを着用したパイロットは、目の前に現われたベルリン市街をまっすぐ見すえています。表情を引き締めた彼は前かがみになって重たい爆弾を持ち上げ、針を歯でひっこ抜き、腕を伸ばして下に落としました。
爆弾は目標に命中してさく裂し、すさまじい爆風で飛行機は左右に激しく揺れます。ベルリン中心部は、火山が噴火したように火の海となりました。科学が小説に追いついたのは、それからわずか20年後のことだったのです。
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