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東亜連盟とは、日中戦争の長期化と日本の国力消耗を石原莞爾先生が、「国防の共同、経済の一本化、政治の独立」を条件に、日本と中国および満州国が手を結ぼうという趣旨のもと日中両民族が提携して戦争を速やかな終結を図ろうという思想です。
近衛文麿の東亜新秩序声明を背景に、昭和14年10月に東方会系の農民運動家や満州国協和会系の人々を集めて設立されたのが東亜連盟です。日本国内に支部ができただけでなく、汪兆銘の南京政府も自らの立場の基礎理論として、東亜連盟論を積極的に採用していました。
マッカーサーに危険思想であると圧力をかけられましたが、現在の名称は私が会長を務めている石原莞爾平和思想研究会です。盧溝橋付近で睨み合いを続け、中国からの攻撃は執拗に継続され、本格的戦争に入る。
石原莞爾は、兄弟喧嘩はやめようではないか、と近衛文麿総理大臣と、蒋介石中国国民党政府首席とが、平和交渉に当るより外はないと決断、近衛首相に電話をかけ、「閣下、飛行機で、南京へ私と飛んで、直接、蒋首席とお会い下されば、話はすぐにわかります。間の雑音を取り除くため一切秘密に、日本は、何ら領土的野心をもっていない。」
「中国と戦う考えは毛頭ない。陸軍も海軍も、直ちに中国から引き上げさせる。日本の希望は、中国との経済提携、満州国の独立承認、ソ連に対して、十分な国防態勢がととのい、日本も安全だが、中国も安全であるということを強調してください」といったのだが、近衛首相の優柔不断は、政治的大英断が実現しなかったことを、石原莞爾は残念がっていた。
陸海軍の協調を計る為に、東条を押えることが出来なかったと手記に残されているのですが、軍はもとより、国を挙げて、事変から戦争へと戦勝の強気に酔っている時に、石原莞爾の提案した無条件にも等しい対華講和を決断くだすにも、それが許されない日本の政治情勢であり、悲しき日本の運命であったと言えます。
現に、石原莞爾自身がこのために、左遷されているのです。近衛文麿自身も「新日本の姿を示せ」という題で、満州国承認を国際連盟は受け入れようとしました。当時のアメリカも、承認する人が多かったということを近衛は書いています。
中国本土に手を出したら、満州国建国が日本にとってたいへんな禍根となるだろうということはわかっていたのだからズルズルと奈落の底へという事態が象徴しています。重臣、元老層と国家革新運動が常に水と油で接点をまったく持ちえなかったと中で、その唯一の接点と言えたのが近衛文麿でした。
近衛家は五摂家筆頭の名家で、宮中とも直結しています。重臣層も革新派もともに近衛文麿には強い期待を抱いていました。ところがその近衛の優柔不断から、一旦決めた不拡大方針を実現することなく、シナ事変からずるずると日米戦争まで引きずって流れを作ってしまうのです。
近衛文麿はこの時のターニングポイントで、日本国と中国の運命を変えた天下の戦局を握るキャスティングボード的な存在だったのです。この瞬間では、日本軍、国民党などの大物を手玉にとっていたのです。歴史には、しばしばこのような運命的なシチュエーションが訪れて、実力以上にさせる瞬間があるのです。
あらゆる時の流れの中で、運命はいかにも奇妙な気まぐれから、行き当たりばったり、いかにも平凡な人間に身をまかせる事が往々にしてあります。そしてこれは世界歴史のもっとも驚くべき瞬間でありますが、重大な運命を左右する糸が、一瞬だけまったくつまらないものの手に握られてしまったのです。
第一次近衛内閣の組閣は、昭和12年で当時を知る方は近衛文麿の登場で非常にフレッシュな印象を受けたと言います。1993年に自民党政権が崩壊し、石原莞爾平和思想研究会の後押しで日本新党の細川さんが連立内閣の総理になったときも、一瞬、世間がわっと盛り上がりました。何の因果か近衛文麿は細川さんのお祖父さんにあたるのです。
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