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都内で観光バスに乗り込み一杯やりながら福島県の母畑温泉・八幡屋に向かいました。東北自動車道をしばらく走るとお昼の時間が近づきました。最初の目的地である全国菓子博・金賞受賞の栃木県推奨銘菓、お菓子の城・那須ハートランドに時間前に着きました。
代表するお菓子は「御用邸の月」に並ぶ絶品チーズケーキです。御用邸の月の製造過程が外から見られるのも楽しい。絹のようになめらかになるまでやさしく泡立てた地元ブランドの卵のメレンゲを、ニュージーランド産のクリームチーズに混ぜて焼き上げています。
中はスフレのようなふんわりとした味を、焼き色のついた外はふくよかな味わいをお愉しみいただけます。おいしさや食感を大切にしててるので、1個ずつの袋入りです。試食があります。工場ラインでは、材料が投入されてから完成するまでの工程がご覧いただけます。
見学させて頂いたので、販売しているお菓子にも愛着が湧きましたが、味自体は、前回食べたときと同じ感想で割と普通な感じでした。お昼の食事の中にも登場していたのですが、体に良くない添加物が入っているのがとても気になってしまいます。
お昼はいつもと変わらぬ牛肉の釜めしみたいなものを食べましたが、地酒が一番おいしかったかな(笑)団体客が食事と買い物による定番のようですが、空いている時間がもったいないです。食事後は大内宿を目指しました。大内宿は、タイムスリップしたような所です。
なんで来ても同じ感想ですが、日本にもこのような場所が残されているのだな〜としみじみ感じました。大内宿とは江戸時代の会津から日光を結ぶ下野街道の宿場町で、約500mに渡って当時からの茅葺屋根の建物が残っている素晴らしい場所です。
画像を見せると白川郷に似ていると思われる方がいます。当時は大名行列も通り、本陣や脇本陣もあったとのことです。大内宿では、前回紹介しましたが、人気の「三澤屋」で大きなネギを箸代わりにして十割蕎麦等を楽しめます。
大内宿の散策時間は30分だけとなっているのです。誰が行程を組んだのだろうと残念になります。「三澤屋」は、さすが人気店で待ち時間が40分でした。無理じゃん。その後は時間がないので、慌てて宿場町散策に出かけました。
大内宿は「重要伝統的建築物群保存築」に指定され、それらのことは看板に書かれています。大内宿の街道筋の両脇の側溝には用水路が流れていますが、江戸時代当時は、道路の真ん中に流れていたようです。夏はこの用水路に「ラムネ」や「スイカ」が冷やされていました。明治19年になって埋め立てられ、道路の両側に側溝が掘られたようです。
もう二度と来られないかもしれないと見晴台まで登りました。大内宿の景色はやはり素晴らしかったです。江戸時代はこのような風景が広がっていたのです。大内宿は、江戸時代当時の宿場町風情を楽しめ、また見晴台からの景色も素晴らしくとてもオススメです。
その次は、会津武家屋敷に行きました。産声をあげたばかりの新政府が、会津藩など旧幕府勢力を武力制圧し前代の秩序を「悪」として、完全に亡きものとし、新秩序を確立した戊辰戦争です。会津藩主松平家御廟とあります案内を概略します。
「会津特有の伝統精神を後世に伝える責務を痛感していたところ、家老屋敷の図面が見つかったことで、具体化される事となり、家老屋敷として竣工を見、更にゆかりの建物を移築し他のが、会津武家屋敷である。」このように書いてあります。
柔道家「西郷(保科)四郎」の像。西郷頼母の養子となった人で、姿三四郎のモデルだといいます。「山嵐」という技を繰り出す四郎を近くで見ると迫力倍増です。「家老屋敷 西郷頼母邸」案内を書き出すと以下になります。
「西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた千七百石取りの家柄であった。江戸時代中期の和様建築の粋集めた、豪華かつ壮大なこの家老屋数は、敷地画積二千四百坪、建築面積二八〇坪を誇り、三十八室もの部屋を擁していた。四脚門や式台玄関、それに冠振りぐしに九曜の放を付けた鬼瓦などは、格式の高い西郷家ゆえに許された特権であった。」豊富な展示ですが、ここでの胸を打たれたのはドラマでも見るシーンです。
西郷頼母の妻以下、21名が自刃した場の再現です。神妙に展示を見ている妻。その視線の先は「会津戦争への道」これを読むと、松平容保公は、藩主を子供に譲り、輪王寺宮(日光東照宮)に謝罪嘆願を依頼するなど恭順の姿勢だったと書かれています。
しかし、旧勢力の一掃は武力にのみ為されるものとする新政府側の考えは、揺るぎなかったのでしょう。「悲劇 西郷頼母一族の自刃」妻子を自刃で亡くしても、ただ一人、人生を全うした西郷頼母。批判する人もいるようですが、自分の為、ひいては世のために「生き抜く」ことは死ぬよりもはるかに高尚な事だと思います。
案内。「慶應四年八月二十三日、西軍の侵攻は疾風の如くであった。西郷頼母が登城した留守宅では、妻の千重子を筆頭に一族浪等二十一人が、全員自決を遂げた。この様子は弾丸を避け邸内に入った西軍藩士中島信行が死にきれず息も絶え絶えの少女から介錯を求められ、涙ながらこれに応じた悲劇を再現したものである。」
西郷千重子の辞世。「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節のありとこそきけ」 意味をGoogleで検索すると、「弱いなよ竹と同じように風に吹かれてしまう身だけれど、強風にも曲げられない、なよ竹の節のように、私も節義に殉じてみせる」という強い意志と覚悟が込められています。
このように回答してくれました。「節義に殉じてみせる」もう涙しかありません。自刃の場面と家族らの辞世の句が置いてあります。「逆屏風について」「守り刀は死者が黄泉の国に行く際に、悪霊を払う武器として、屏風は悪霊が来ないように壁としての役目を果たすとされています。
何故、屏風を逆さに置くかというと死者の着物の襟を男女逆さまに着せるように、仏教でいう「さかさごと」という行為から来ていて、このことから屏風を逆さまに置くのは、武士の自刃の作法となりました。」このような意味が書かれています。ここでは西郷頼母一家の紹介だけですが、戊辰戦争で起きた、一家自刃の例は他にもあり、会津の苦難を思うと、なんとも言葉がありません。
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