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実行の板垣征四郎、智謀の石原莞爾と並び称されたコンビの間にも、石原莞爾の新国家の建国理念への思い入れが強まるにしたがって開きができ、「石原参謀は人事その他政策に関与せず、板垣参謀の処置にあきたらず、その不平を勃発する」有様になっていました。
もっとも「各官の新国家に対する対策は一貫せず、石原参謀は性格上、殊に変化多きこと。板垣参謀は最も強靭なり」との評言からすれば、関東軍の建国目的から逸脱して「五族協和」「王道楽土」建設へとのめりこんでいく石原莞爾に対して他の参謀たちが不審と不満を抱いていたことが伺われます。
事実、石原莞爾の満州国およびその統治のあり方をめぐる考え方は極めてスケールの大きいものでした。主張は、1932年1月25日には「日支人は全く平等に地位に立つものとす」ただ、この時はまだ行政能力からみて、「高度官吏には相当多くの日本人を採用し、下級に至るに従い支那人官吏の増加するを自然とす」と日本人の主導性を認めていました。
しかし、4月22日の文書では「新国家の政治は在満諸民族の公平なる参与により公明に行う。各民族は全く平等なる社会的経済的計画を営む」ことを小畑敏四郎参謀本部第三部長に進言し、完全な民族平等による統治方針をお願いしたのです。
この方針が満蒙における日本の国策遂行を軍司令部が日系の参議や官吏に対する内面指導を通して行おうという関東軍の合意を否定するものであることは言うまでもありません。それは関東軍が満州国建国において当然の前提とした「門戸開放、機会均等の主義を標榜するも原則に於て日本および日本人の利益を図るを第一義とす」との確認に反するものであったからです。
石原莞爾のこうした考えは、他の参謀たちにとって国際世論および日本国内の反対を強引に押し切って満州国を建設させた意義を打ち消してしまう暴論とみなされたのです。いったい何のために危険を冒し、多大な犠牲を払ったのか?
この参謀たちの反発と疑念を尻目に石原莞爾の主張はさらにエスカレートしていくのです。6月にはいると石原莞爾は独自の満州国統治方針を打ち出し、関東軍による政策指導を放棄する構想を主張しはじめます。石原莞爾は他の参謀たちからいよいよ遊離し、両者の不協和音はますます激しくなるのです。
そして、関東軍に代わって新たに満州国の最高政策決定を担う機関として石原莞爾が想定したのが私の父が若きころから志を捧げた満州国協和会(現・石原莞爾平和思想研究会)だったのです。
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