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盧溝橋事件での日中戦争への拡大は、日本政府も蒋介石も望んでいませんでした。日本も不拡大方針を決め、和平交渉の道を模索し、蒋介石は共産党を倒して国内を安定させるのが原則方針だったので、対日戦争は避けたかったのです。
だが、虫の息の共産党にとって、「抗日」は唯一の活路でした。「抗日」と叫ばなければ、まず共産党が蒋介石率いる国民党の餌食になってしまうからです。共産党は蒋介石を抗日に追いつめ、日本側も近衛文麿の優柔不断があったのも蒋介石の誤算であったのです。
1937年7月7日の盧溝橋事件での軍事的衝突については、史実がはっきりしていません。満州事変が石原莞爾の計画によって引起こされたことは、歴史上の事実となっていて異論はありませんが、しかし盧溝橋の第一発の銃声がどちら側からさきに撃たれたのかについては、真相不明ということです。戦前は勿論中国軍からの不法射撃とされていました。
もっとも日本側でも張作霖爆殺事件や満州事変の真相を知っていた一部上層部の間では「どちらが先に手を出したかといえば、どうもこちらの方が怪しいと思う」(近衛文麿『平和への努力』)「柳条溝の手並みを知っているわれわれには(軍部が)『またやりあがった』」(石射猪太朗『外交官の一生』)などと認識されていたようです。
戦後東京裁判に提出された秦徳純「七・七事変記実」では、第一発の問題にはとくに触れず、事変の責任はもっぱら日本側にあることが強調されています。その判決では柳条湖事件の場合には日本軍により計画され、実行されたものと認定しているのに対し、盧溝橋事件については当夜の事件発生の経過を述べているのですが、その責任が日本側にあったとの明確な判定を下していないのです。
しかしその後の研究調査の結果や証人、中国側の主張あるいは政治的意図の濃い見解として最初の攻撃は日本軍から意図的になされたものではないと認められています。それは日中の軍事的衝突を誘発させようとした共産軍や馮玉祥軍の陰謀という見方があり、とくに前者については、さまざまな情報が飛び交っているのだが圧力などがかかり確証は取れないのです。
今後新たな有力資料や証言が出てこない限り、この問題の結論を出すことは困難でしょう。「今や歴史のひとコマとなってきた盧溝橋事件の全容が完全に明らかになるにはもう少し時が必要だろう」(秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻。同書にはこの問題が詳細に検討されています)。
たしかに現地の緊迫した情勢から、このような局地的トラブルは何らかの形で起こる可能性はあったのですが、起こったにしてもこれを大事に至らしめず、日中の悲劇を避ける道はあったのであるから、発端の問題は必ずしも重要ではないかも知れません。
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