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他人の視線が怖いと思ったことはありませんか。視線というよりは目かな。目というよりは目玉かな。人に話をする時は、相手の目を見て話せと言います。人の話を聞くときは、相手の目を見て聞けと言います。目と目が合うと、真実味が生まれ誠意も感じられます。
一生懸命話をしているのに、そっぽを向いていられたら誰でも不愉快になりますよね。常に目を伏せて、決して相手と視線を合わせない人がいますが、こういう人は人から信用されないでしょう。時々、目を合わせてくれると、話を聞いてくれているのだな、と思います。大きく頷いてくれたりすると、こいつは話のわかる奴だ、と思います。
なかなかいい奴じゃないか、とさえ思います。目を合わせるということには、こういう効能があるのですね。だから、私は人の話を聞く時は、なるべく相手の目を見るように努力しています。相手が話をしている間合いを見計らっては、相手の目を見ます。
ところが、目と目が合った瞬間に、あれは一体なんなのだろうと身ぶるいのようなものが起こる事があります。見てはいけないものを見てしまったような、戦慄のようなものが背中を走って、慌てて視線をそらしてしまう。
1秒と、相手と視線を合わせていることが出来ない。視線を合わせることは、真実味を増し誠意を表すとても良い事であるのに、いけない事をしたような気がしてしまう。一体なんなのであろうか。怖いというのとも少し違うような気もするのだが。
それに、恥ずかしい、というのが少し加わっているようです。それに、いたたまれない、というのも含まれているような気もします。しかし相手の目を見ないと、いかがわしい奴という烙印を押されてしまいますので、必死の思いで相手の目を見ます。
人の目玉など気にしないで暮らしていけたらどんなにか気楽なことでしょうか。私は人の話を聞く時は、約20秒に1回、視線を合わせるようにしています。相手が話を始めて、15秒くらい経つと、そろそろだなと思う。
少しずつ顔を相手の方に向けるようにして、20秒で相手の顔を見ます。相手もこっちの目を見て視線が合う。合った瞬間、ヤレヤレと思う。また20秒経つと、「目合わせの儀」をとり行わなければならない(笑)人間の目玉が見て楽しいものででもあればいいのだが、ただ不気味なだけです。
人体解剖図などで誰でも知っている事ですが、人間の目玉は巨大です。表から見えるのは、ほんの一部分にすぎない。目玉というものは、まぶたというスキマから、ほんの一部分だけを除かせて、世間を見ているのです。その実態も不気味ですが、その根性もまた不気味なものです。その不気味さが、思わず背中に戦慄を走らせるのかもしれませんね。
テレビのアナウンサーや司会者は、カメラのレンズを見つめながら話をします。NHKの松平さんは、体をのりだすようにして、大きな目でこっちを見ているから余計恥ずかしいです。写真を撮られるときはレンズが怖いのです。
カメラマンは「レンズを見てください」と言います。レンズはただの丸いガラスなのですが、3秒と見つめていられないのです。レンズの後ろのカメラマンの目が怖い。3秒経つと、頬の筋肉がピクピク痙攣してきます。この場合、撮られるほうが圧倒的に不利である。
こっちはナマの目玉をさらしているのに、カメラマンはレンズのうしろに隠れて、こっちのすべてを盗み見ているのです。ずるいし不愉快です。不機嫌で、頬はピクピクしているのに、「ニッコリ笑ってください」などというとんでもない話なのです。
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