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1853年、ペリーが日本にきます。目的は、中国との交易です。ロンドンを中継地にしないで中国に向かう、太平洋航路を開拓するためです。そして翌年、日本は開国します。日米和親条約の締結です。
このとき、徳川幕府の老中首座は、阿部正弘でした。総理大臣のような役目です。阿部正弘は大変賢く、長崎の出島からの情報でアヘン戦争の結末を知っていました。だから、鎖国を続けていると日本はもたないと考えていました。
日本は、 産業革命とネーションステートという2大イノベーションに乗り遅れていました。 これからは国を開いて世界から学び、交易で儲けて、軍隊も強くしないとえらいことになると考えたのです。「開国・富国強兵」というグランドデザインを描いて、国を開きました。
鎖国は、200年以上続いた徳川幕府の基本方針です。やめるのには大変な勇気が必要だったと思います。阿部正弘は、のちの東京大学や、陸軍や海軍の基盤をつくりました。福山藩主として、義務教育の先駆けとなる取り組みもしました。
勝海舟をはじめ若くて有能な人材を官僚として登用し、広くみんなの意見を聞こうとしました。「五箇条の御誓文」の第1条に掲げられた「万機公論に決すべし」は阿部正弘のアイデアです。明治維新の骨格のほぼすべてを構想したのが阿部正弘です。
しかし、日本の国民的作家、司馬遼太郎氏の興味が坂本龍馬に集中したために、阿部正弘はほとんど知られていません。日本にとっては幸運なことに、ペリーが来航した1853年、クリミア戦争が起きました。西欧列強の関心はヨーロッパに向きます。
もしアジアに向いていたら、ペリー来航の直後から連合王国やフランス、ロシアの軍艦がどんどん江戸湾に入ってきたかもしれません。そうしたら幕府も冷静な対応はできなかったかもしれません。列強の目がクリミア戦争に向かっていたから、優秀な阿部正弘がじっくり1年考えてから、国を開くことができたわけです。
1857年には、第1次インド独立戦争が起きています。昔は「セポイの乱」といわれていました。これに対抗して連合王国は、東インド会社に代わって本国政府が直接、インドを統治するようになっていきます。
これによってムガール朝は滅亡し、連合王国領であるインド帝国が成立します。1856年に、アロー戦争 (第2次アヘン戦争) が起きます。 大英帝国とフランスは北京を占領し、 清に北京条約を結ばせます。
このとき、中国人の海外渡航を認めさせました。中国も鎖国していたのです。大英帝国はこのとき、シンガポールを開発しようとしていました。しかし、労働者がいません。そこで中国人を働かせようと考えて、海外渡航を認めさせたのです。
これが今、世界で5000万人とも6000万人ともいわれている華僑の始まりです。開発に必要なお金も、中国から得た賠償金で賄いました。その結果、中国人が、東南アジア経済を取り仕切るようになりました。
日本では徳川幕府が倒れ、1868年、薩摩藩と長州藩が中心の政治が始まります。薩長のもともとの理念は「尊皇攘夷」でした。尊皇とは、要するに「昔の政治に戻る」ということで、攘夷は「外国人を見たら斬りつける」ということです。
薩長では若手が実権を握っていましたから、血気盛んに攘夷を実践し、薩英戦争と下関戦争を引き起こしました。明治維新よりも前のことです。これらの戦争で、列強にぼこぼこにされて、大久保利通や伊藤博文は「攘夷はだめだ」と悟ったわけです。
「やはり阿部正弘は賢い」となって、「開国・富国強兵」に鞍替えしました。けれど、すでに「尊皇攘夷で幕府を倒すのだ」と拳を振り上げてしまっていた手前、とりあえず幕府を倒しました。これが明治維新の実相でしょう。
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