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コタンBBS

違星北斗研究会
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 無題  [返信] [引用]
江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり


江口カナメが北斗について言及している短歌あるとは。
見落としていました。

 
管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:16 [481]





 日本巫女史  [返信] [引用]
北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節
(略)
アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)
〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。

 
管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:36 [471]

 
(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 このHPはすごい。「日本巫女史」が全文掲載されていて、検索したら引っかかりました。

 中山太郎は、北斗と親しかったようで、よく手紙のやりとりもしていました。
 北斗から「承った」ということですが、在京中に中山にカムイシロシの話をしたのか、手紙で伝えたのかはわかりませんね。
 でも、フゴッペの話が出ていないところを見ると、もしかしたら東京時代に語った話かもしれませんね。
 だとしたら、北斗のアイヌの遺跡への興味は、上京前からすでにあったということになります。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:51 [472] [引用]

 
ご引用有難う御座います。
電子テキスト化については自分が発案したのですが、いつのまにテキスト化分が追い越されまして、たちゃな氏の精力ぶりには脱帽せざるを得ませんです。逆に此方は校正に回ってます。

もし、ご覧に頂く頃、何か誤植を発見しましたら、是非ご一報お願い致します。では。

浦木裕 [URL]  ++.. 2009/08/15(土) 13:08 [479] [引用]





 山上草人とは  [返信] [引用]

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……


 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。


 ところが、

 
管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:45 [476]

 

 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。


管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:48 [477] [引用]

 
古田謙二(冬草)=草人は1983(昭和58)年9月30日に84歳で亡くなられています。

84年版コタンに「落葉」が掲載される直前です。あの文章は亡くなられる直前のものなのかもしれません。

遺稿集は、ネット上でpdfでも公開されています。

管理人  ++.. 2009/08/02(日) 01:05 [478] [引用]








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