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人生は思い通りにいかない
管理人の方がご自身のページでおっしゃっていたこと。 それは、人間関係でもいえることではないか、と感じた。 人と人とやり取りの中では、「言葉」がある以上多少なりとも誤解が生じてしまう。 それは他人同士でも、ときには身内同士でも起こりうる。 悪気はなく、本当は励まし元気づけるつもりで言ったとしても、その言われた本人は 言葉をかけた相手の想像以上に深刻に悩んでいて、相手はそれを読み取れなかったということもある。 もしかしたらその相手が単に人の心を読むのがあまり得意でないだけ、とかもあるのかもしれないけど。 励ますつもりで、気にするなよ、と思って言っても状況が不適切であれば相手をより一層悩ませたり、 あるいは怒らせてしまう(例えば鬱病の人にただ「がんばれ」言ってしまったり、相手は折角 勇気を出して悩みを打ち明けたのに、それに対し「そんなこと誰にでもあるじゃん」と言ってしまったり)
逆に「誤解」の言葉を掛けられた本人は、その「一面」のみに気持ちがいってしまい、もしかしたら他の ことに目を向けてないのかもしれない。今までの過去を振り返れば、その相手が本人に 対して気にかけてくれていたことがあるかもしれない。失敗しても許してくれたり(本当は 怒りたかったのかもしれないが)、病気や怪我のときはお見舞いや看病しにきてくれたり等等。 自分の意識があまりにもその「間違った」言葉を掛けられたときの方に向かうあまり、認知の 歪みが生じているのかもしれない。そうなったとき、その本人の周囲が辛思いをするのはもちろん、 その本人だって、いつまでも怒りや恨みが消えず(仮に本当はそれらを消したくとも)、苦しい 思いをするだろう。どちらにとっても、苦く苦しく、認知の仕方や意見に平行線を たどったままで、決して解決されることはないだろう。 「ボタンの掛け違い」 これははたから見たら単純なようだけど、実はものすごく複雑でまた難しい。特に、親子等 長い間一緒に日々を過ごしている仲の場合は。もし「ボタンの掛け違い」、「価値観の相違」が 無ければ、あるいは問題がそれほどでなければ、家出(親子)や離婚(夫婦)は起きないであろう。
話しを戻して、もし相手を許せないのであれば、無理に許そうとしなくともよい。 許そうとしても許せないのはその「本人」の心の状態。自分の心に嘘をついてまで、無理 に許そうとする必要はない。返って自分自身が辛くなるだけだ。 では、もしその本人が、本当は相手を許したいのであればどうすればよいか。それは、人を「愛する」ことを知ることだと思う。 人を「愛し」、また人から「愛され」、お互いに許すことを知ること。「愛」が無ければ、心は枯渇してしまう。 では、その「愛」を知るためにはどうしたらよいか。もしその本人が家にこもって悶々としているとしたら、 一度外に出て、新鮮な空気に触れてみるといい。各地を旅行して、色々な人に遭うとよい。そこでは、 様々な人間関係が築けるだろう。旅行だけでなく、短期でもよいから働いて社会に触れるのもよいだろう。 旅行や働くことに躊躇いがあるのでああれば、学校(大学や専門学校)や趣味のサークルに参加するのもよし。 外に出れば、自分の世界はより一層広がる。自分とその周囲だけが世界の全てではない。 自分達を大きく取り囲む円;世の中には、実に色々な人達がいる。 その人達と交わり、少しずつものの見方を変えてみよう。そうしていく中で、人とのやり取りの回数も増え、 またその中で人に感謝され、認められることも増え、人から認められることで自分に自信を持ち、 自信を持つことで自分をも好きになり、また自分を愛することで他人を愛することも知る。 自分を愛し、そして他人も愛する。ちなみに「愛」とは恋愛という意味には限らない。 隣人愛、兄弟愛、友人愛、親子愛、様々な「愛」の形がある。「愛」の分だけ幸せになれる。
まずは少しずつでもよい。家から離れ、家族のことはとりあえず忘れて外に出てみよう。旅しよう。
長くなってしまったが、以上が独り言である(独り言にしては長いな・・・)。 辛いこと、苦しいこと、色々あるだろうが、お互いに快適に過ごせるようになることを祈る。
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