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コタンBBS

違星北斗研究会
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 希望社界隈  [返信] [引用]
北斗が出入りしていた後藤静香の希望社は、
大久保町236、現在の新宿区歌舞伎町一丁目、大久保小学校の近く。

また、新社屋である希望館は歌舞伎町二丁目の鬼王神社の近くです。

また行ってみよう。

 
管理人  ++.. 2011/10/05(水) 14:30 [543]





 北大植物園博物館  [返信] [引用]
北大の植物園・博物館に収蔵されているアイヌ民具の中に、違星家提供のものが点ありますね。

ちょっとややこしいですが、引いてみます。


9537 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼 (パ 裏) 余市 違星家L28.9 W1.2 T0.6 H2.1 9537

9747 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 削りかけ余市 違星鏃L3.0 φ0.3 鏑L(7.3) φ1.3 柄L35.7 φ0.8 ML47.1 9747

10187 ヌサNusa余市 違星梅太郎
@ML140.5 W64.5 T30.0
AL68.1 W18.0T8.5 捧酒箸L32.6 W2.0 T1.0
BML169.5M W12.0MT8.0 捧酒箸L26.0 W1.3 T0.5
CML168.5M W28.0MT8.0 捧酒箸L27.1 W1.4 T0.6
DML175.5M W26.0 MT13.0 捧酒箸L27.2 W1.6 T0.4
EL240.0 W30.0
GL146.0
HL169.0 φ1.5
IL172.5φ2.2
JL177.0 φ2.6
10187

11211 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ2.7 W10.0 11211

11212 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ3.0 11212

11213 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.0 φ2.8 W12.0 11213


17711 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市大川 違星L26.1 W1.2 T0.3 H3.7 17711

17712 捧酒箸libation stick 1935 余市大川 違星L33.9 W2.2 T0.6 17712

17717 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市大川 違星L28.2 W1.2 T0.6 H2.5 17717

17719 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L25.2 W0.8 T0.5 H3.5 17719

17730 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼 余市 違星家L29.0 W1.2 T0.6 H2.2 17733

17741 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星家L28.4 W1.3 T0.6 H1.5 17741

17742 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星L26.2 W1.3 T0.6 H1.8 17742

17764 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市 違星家L29.5 W2.4 T0.5 H1.6 17764


17785 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L28.8 W1.2 T0.6 H2.0 17785

23533 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.3 φ0.5 鏑L(7.7) φ1.7 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23533

23534 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.4 鏑L(8.3) φ1.7 柄L40.3 φ0.8 ML50.8 23534

23535 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.4 φ0.4 鏑L(7.6) φ1.5 柄L40.6 φ0.9 ML51.6 23535

23536 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.2 鏑L(8.3) φ1.3 柄L35.5 φ0.8 ML45.5 23536


23537 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.7 鏑L(8.0) φ1.6 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23537

23538 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L1.7 φ0.4 鏑L(7.2) φ1.7 柄L40.6 φ0.9 ML50.5 23538

23539 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.6 鏑L(8.
2) φ1.5 柄L40.5 φ0.8 ML50.9 23539

23540 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.7 φ0.3 鏑L(7.4) φ1.5 柄L35.4 φ0.8 ML45.5 23540

23541 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.0 φ0.3 鏑L(6.8) φ1.3 柄L35.8 φ0.8 ML44.6 23541

23542 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+羽 赤布付 羽欠 余市 違星家鏃L3.5 φ0.4 鏑L(8.9) φ2.0 柄L40.7 φ0.9 ML53.1 23542

32949 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 余市 違星家鏃L4.2 φ0.5 鏑L(9.1) φ1.7 柄L40.8 φ0.8 ML54.1 32949


 
管理人  ++.. 2011/09/28(水) 02:31 [541]

 
捧酒箸と、花矢か。
捧酒箸は、カムイノミの時に使う、カムイにお酒を捧げるための棒ですね。
花矢は、熊送り(イオマンテ)の時に、熊に放つ装飾された矢です。

イナウは木を削って作った、カムイのシンボル。御幣のようなものですね。

ヌサは幣。

これは、北大植物園博物館に行けば見られるのかな?

http://bit.ly/nQ4sKe

管理人  ++.. 2011/10/01(土) 09:40 [542] [引用]





 朝日新聞「北の文人立ち話」  [返信] [引用]
朝日新聞北海道版 2011年8月26日

【北の文人 立ち話 高山美香】
心の叫びを歌に! 違星北斗

http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108260001

一部、強引なところもあるけど、わかりやすくライトな感じでいいのかも。
 「あいぬの話」のエピソードを描いた漫画もいいですね。ただ、違星北斗をある程度知っている人でないと、漫画の印象が勝ってしまうかも。あくまで、北斗の印象からすると「こういうところもあったんだ!」という意外性を感じるエピソードだと思うから。

>理不尽ないじめに、「手当たり次第、物をたたき割って暴れ死にたくなった」というつらい青年時代を送りました。

とあるけど、暴れた頃は「いじめ」というより、社会的待遇への怒りと、あと病気じゃないのかな。

>違星北斗(1902〜29)。余市町生まれ。小学校を出て地元で働くが、25年に上京後にアイヌ民族問題に目覚め帰郷。短歌作りを始め同人誌を創刊。薬の行商をしながら創作とアイヌ復興の活動を続けた。死後に遺稿集「コタン」が出された。

 文末の北斗の略歴、これは高山さんの手によるものではないかもしれないけど、北斗の生涯の中で、薬売行商の時期というのは、それほど長くないので、こういう書き方はどうかな。わかってない気がする。




 
管理人  ++.. 2011/08/27(土) 00:32 [540]





 年譜  [返信] [引用]
昭和5年版「コタン」の年譜は、北斗の手によるものであるといわれています。

しかし、草風館の「コタン」の年譜は、読者への親切のためだと思いますが、編者の筆が入っているため、意味合いが変わってしまっているところがあります。

たとえば、大正9年。
元は「畑を借り茄子作、中途病気」
これが草風館版(昭和59)だと「畑を借りて茄子等を作るが病気再発する」となります。

 微妙に、ニュアンスが違いますよね。

 昭和5年版は「茄子」と言い切っていますが、昭和59年版は「茄子等」。「等」ってどこから出てきたんですかね。

 あと、昭和5年の「中途病気」と昭和59年の「病気再発」では意味が違いますよね。

 昭和5年版の方が、資料としては精細です。
 なぜなら、「畑で茄子をつくったが、茄子を作っている中途に病気になった、と読める。茄子は夏の野菜ですから、発病時期が夏より前だということもわかる。

 でも、それが昭和59年版だと、編者のおせっかいでわからなくなってしまっている。

 ほかにも、同様のおせっかいによるニュアンスの変化がある。

 北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、それが11月になってたりして、けっこう適当な年譜なのですが、これがオフィシャルみたいになってしまっているんですよね。
 アイヌ一貫同志会なんて、本当に存在したのかどうかもわからないのですが、この草風館版の年譜に載っているから、あったこととして確定してしまっていますね。

 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 05:00 [538]

 
>北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、

すみません、2月じゃなくて7月です。

ちなみに、11月というのは、元々縦書きの北斗の原稿に「七」と書かれていたものを希望社版コタンの編者が「十」「―」と読み間違え、それが草風館版にも引き継がれてしまったからですね。

管理人  ++.. 2011/08/09(火) 01:30 [539] [引用]





 ウタリ之友  [返信] [引用]
ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

-------------------
ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
------------
(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html



 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:06 [536]

 
で、肝心の北斗ですが、最後の方に、佐藤三次郎の家に井戸の「釣瓶」を借りに来る人として登場。

 東京から北海道に戻ってすぐの頃の幌別教会時代のエピソードではないかと思います。
 この文章は在りし日の幌別教会を中心としたアイヌコミュニティを写したものですね。
 バチラー八重子、北斗、知里真志保ときたら、「豊さん」はもしかしたら、「豊年健治」ではないかと推測します。

 雀の子を取った春野さんも、どこかで聞いたことがある名前。
 どこだろう?

 
 

管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:10 [537] [引用]





 『アイヌの啄木』に反対します!  [返信] [引用]
違星北斗のことを「『アイヌの啄木』と言われている」と平気で書く人がいるが、どうなんですかね。

誰が言い始めたのかもわかりませんが、北斗のことを少しでも知っていて、啄木のことも少しでも知っていたら、とてもそんな呼び方はできないんじゃないかと。

そりゃ、キャッチーかもしれませんけど。




ここだけの話。
北斗は石川啄木のような人間ではありませんよ。
対極でしょう。

啄木のことも、北斗のこともよく知る金田一京助がそれを言ったんだったら、まあ、いいでしょうが、私が知る限り、金田一京助にそんな発言はない。

啄木ファンには悪いけど、金輪際、『アイヌの啄木』と呼ぶのはやめてほしいもんだな。

 
管理人  ++.. 2011/03/02(水) 02:37 [532]

 
呼吸をする度に細工物のように上手い素晴らしい短歌をこさえることのできる

石川啄木と、一人で民族の未来を背負って起った違星北斗とでは

あまりにも立ち位置が違いすぎるんじゃないのかなぁ。

別に、啄木をどうこういうつもりはないんですが。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:00 [533] [引用]

 
でも……やっぱり……悪く書いちゃうけど、啄木という名前は、どうも「ダメ人間」というイメージが強すぎるんだ。それは、北斗を通じて金田一京助の生涯を知っているから余計にそう思うのだろうけど。

「アイヌの啄木」なって書いてありがたがっちゃう人は、とてつもなくだらしない啄木の存在がいかに金田一の研究の障害になったかを知らないんだろうな。もちろん、金田一の研究にはいろいろな問題があったのだけれど、それはひとまず置くとして。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:16 [534] [引用]

 
ちなみに、金田一京助は違星北斗のことを

「知里幸恵を男にしたような」

と譬えています。

こっちのほうが痛快な譬えだと思うのは私だけでしょうか。

管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:19 [535] [引用]





 名前  [返信] [引用]
違星北斗には名前が3つある。

戸籍上は「瀧次郎」だが、本来は「竹次郎」で、代書屋が聞き間違えたまま、登録してしまったのだ。

(現代ではそうでもないかもしれないが、余市の方言は「イ」音と「エ」音の混同というのがあるようで、それは古老の方と話していても感じたし、北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えている)。

で、彼は和人の前では「瀧次郎」、家族や、コタンの人々からは「竹次郎」、「タケ」と呼ばれていた。

彼の父や祖父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようだ。
ただ、図らずしも、北斗の中には和人社会での名前「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになった。
 
 一つの体に二つの名前。
 一つの言葉に多くの意味。

 多くのアイヌと同様、彼は和人社会とアイヌ社会という二つの社会で、多面性を持たざるをえなかったし、彼の場合はそれを名前によって使い分けざるを得なかった。

 後年、彼は北斗と号することになる。
 その引き裂かれた二つの名前を統合したのだ。

 彼はまた、当時蔑称的に用いられていたアイヌという言葉に、新しく良い概念を込めようとした。我アイヌ、何を恥じることがあろうかと。

 言葉の意味は、時代によって変わっていく。
 また、人為的に変えられる。
 のちに言葉を武器に戦っていくのには、この三つの名前を持つことと無関係ではないと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/08(火) 11:11 [531]





 とりあえず  [返信] [引用]
違星北斗botを作ってみた。(@kotan_bot)

http://twitter.com/kotan_bot

彼の生涯をツイートで追っかけてみよう。
自分のための復習でもある。

 
管理人  ++.. 2011/02/07(月) 01:31 [530]





 バランス  [返信] [引用]
twitterで「違星 北斗」と検索しても、何も出ないことが多い。違星北斗について「なう」(笑)な人がそれだけいないといことだろう。
でもって、「アイヌ」と検索すると、アイヌの現在がわかる。

 そのスタンスも理解度もバラバラ。

 ・イベント告知
 ・地名、言葉などのへえ、これアイヌ語なんだっていうつぶやき
 ・北海道県(アイヌ犬)カイくんのこと
 ・サブカル(ゲーム、アニメ、漫画)で触れている系。

 無条件賛美系。
 ・先住民文化、ネイティブバンザイ系
 ・スピリチュアル系。
 
 それから、右寄りアンチ系。
 ・アイヌ協会糾弾系
 ・アイヌはいない、存在しない系

 あとは、北海道の人のつぶやき、アイヌの人自身のつぶやきもある。

 etc、etc。

 今は、アンチ系の「アイヌはいない系」「アイヌ協会糾弾系」がくっついちゃって、小林よしのり氏が砂澤氏を擁して、他のよく知らない若いネット右翼たちを巻き込んでいっている感じだろうか。沖縄問題、尖閣問題、中国パワー。そういったもろもろの問題、危機感がおおいに関係しているのだと思う。
 もちろん、そして北方領土問題。「アイヌはもういない」ということにしておかないとというのがあるから、このところのキャンペーンなんだろうけど。

 僕はまあ、いつも決めつけること、自分の立場を表明することからは逃げている。
 いくら考えても、わからないから。
 その時々で、揺れ動くから。

 ただ、そのバランスを取るときに、僕の場合はそこに違星北斗がいて、その生涯、思想を参考にさせてもらっている。
 時に、「〇〇め、さすがにそれはアカンやろ」と思うこともあるけど。

 いやいや、僕には違星北斗がいるじゃないかと。 
 こんな時、北斗はどう考える? あの時の北斗は?

 だから、違星北斗の「振れ幅」「ゆらぎ」こそが僕に取っては大きいし、大切なんだと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/06(日) 10:42 [528]

 
もうひとつ、北斗以外でいえば、僕には恩師といえる人が何人かいるけど、いま、ふとした瞬間に思い出されたりするのが、大学で教わった作家の小川国夫先生の言葉だ。

お酒が好きで、冗談が好きで、よく笑った。
聖俗清濁を併せ呑み、時折出る言葉はユーモアがあり、かつ深く重かった。

決して、激したり、誰かを糾弾したりすることはなかった。ただ、悠然と山のようにそこにおられた。

先生はクリスチャンだったが、最後の授業はある禅僧の言葉で締めくくられた。
大学での先生は聖書だけがテキストでそれをうだうだ講釈するようなことはなく、聖書はすでに先生の中に血肉としてあって、それで僕達の生きる現代の日本と、そこにいたる古今東西のテキストを論じた。
最後の授業で先生が挙げられたのは道元の「愛語よく回天の力あり」という言葉だった。
言葉の、文学の力を信じなさい、それは世界をも動かすのだ、と。

言葉によって世界を変えた人。それは、キリストのことでもあったが、僕には違星北斗のことだとも思えた。

当時、小川先生はキリストのような人だと思った。たぶん、聖書に描かれていない、本当のキリストは、清濁をのみこんだ、よく笑い、人を愛する、時には反省もする、容赦のある人だったのだと思ったのだ。容赦無く完璧な神の子ではなくて。

違星北斗が生きていたなら、そんな人になって欲しかったとも思った。

時によって流され、右に行ったり、左に行ったり、真ん中を進んだりしながら、ブレながら、バランスをとりながら、人に傷つき、また人を傷つけ、時に反省し、時に舞い上がり。それでもアイヌのために一生を捧げる。

惜しむらくは、彼にその迷走する時間「しか」与えられなかったことだ。

違星北斗は体当たりの人だった。後先考えず、突っ走る人だった。無茶をする人で、そのあと猛烈に反省して落ち込む人だった。

あと10年、いやあと5年、迷い、右往左往して、答えを探して欲しかった。そして、彼にとっての真実を見付け出してほしかった。
その言葉で世界をもっと変えて欲しかった。

今となっては、彼の先にどんな未来があったのかもわからないが、もし、彼が生きたなら、すくなくとも、今残っているテキストは、「修行時代」の「習作」になっていただろう。彼は執拗に、何度も何度も、それこそ病床ででも自分の作品に手直しをする人だったから。

どなたかが言った、北斗の「限界」があるとすれば、ある意味で「死」に勝てなかったことだと思う。その先を生きられなかったことだ。巨大な未来の可能性を、失ってしまったことだ。
おそらく、彼の言葉は世界を変えただろう。未完成な、生きている時でさえ、少しは世界を変えた。どういう形であれ、「その先」も彼は世界を変える言葉を放ち続けただろう。

埋れている彼の思想の断片を掘り起こし、当時の思想の揺れ動きを調べて、補完し、彼が辿りつけなかった「その先」を想像するのが我々の役目なんだと思う。

だが、これは小川先生が言っていたことだが、事件や人物の真実を相対化し、明らかにするには、50年、100年の時間がかかる。今わかることはわかるし、わからないことはわからない。

それが、調べていくうちに、あと数十年後にはわかるようになってくることもある。事件から時が流れることによって、ぽんと、ものすごい事実が出てきたり、証言が出てきたりする。見えてくることもある。

だが、そのためには、違星北斗という人の存在を埋もれさせてはならない。誰も知らなくなれば、誰もしらないのだから、資料も出てこない。多くの人に知られれば、それだけ調べる人も多くなるし、隠された事実が明らかになってもくる。

だからこそ、北斗のことは多くの人に知られなければならないと思う。

名前ばかりの研究会ではなく、北斗を研究する人、もっと出てきてほしいと思います。
喜んで、資料も提供しますので。

本当に研究会(オフ会)ができればいいと思います。
やり方がよくわからないですが。

管理人  ++.. 2011/02/06(日) 11:16 [529] [引用]





 北斗の限界?  [返信] [引用]

「habrodiatus」より引用
********
朴烈や難波大助アイヌから
出なかった事せめて誇ろう

この歌に、時代の制約を受けた彼の限界を知る。
********
http://silverfax.blog10.fc2.com/blog-entry-159.html

 彼の限界?

 うーん。そうかな。
 何が限界?

 民族を誇りに立ち上がろうとしている青年が、
自分たちの民族の中から、(当時の社会的には)重大犯罪者を出していないことを誇りたいと言う。

 限界があったとて、それは
 彼をとりまく時代の限界であって、北斗の限界ではないだろうに。

 現代のぬくぬくしたところからだったら、好きなようにこねくり回して言えるもんだな、と思う。
 北斗の時代の彼の置かれている立場や環境を想像してから言ってほしい。
  
 と、コメントしたかったが、コメント欄がないのでここに書きます。 



 
コタンBBS  ++.. 2011/02/02(水) 14:28 [525]

 
 リンク先、書き込みを削除されておられました。

 北斗は、23歳で東京に行き、25歳で北海道にかえって、27歳で死ぬ間際まで、急激に、加速度的に成長し続けていた人だから、その過渡期にはいろいろとツッコミどころがある発言をしているし、当時の社会に照らして優等生的な発言をしていても、今日の我々には違和感がある場合もある。だが、それは北斗の歪みではなく、社会がそれを正義としたからで、まわりの和人、それも名だたる名士や博士たち、「偉い大人」たちもそれを是としていた。北斗は、「正しく生きる」の目標のもとに、その時代の正義を生きようとしたにすぎない。

 それを、今日の教育で植えつけられた価値観で測って、「限界」とかいうのは、やっぱり違うだろう。「限界」と決めつけた方にこそ、限界があるんじゃないか。調べて、考えて、想像する努力が足りないんじゃないか。

 死の床では、不安や動揺で、発言は縷縷揺らぎ、絶望して弱音を吐き、世を恨んだりもしている。当然、思想の進歩は停滞となり、時に逆行もしたかもしれない。
発言のブレもある。

だが、それに惑わされるんじゃなく、さまざまな北斗の発言言動の中から、彼の真意を読み取り、そして、北斗が死ななかったら、彼が達しようとたであろう地平を、その先を想像しなければならない。

それが、僕たちの使命なんだと思ったりもする。



 こんな時「北斗」が生きて 居たならと
 沁々思ふ―― 一人夜更けに    (森竹竹市)

管理人  ++.. 2011/02/05(土) 01:40 [527] [引用]








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