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コタンBBS

違星北斗研究会
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 「大空」  [返信] [引用]
今、Twitterのテキストを仕込んでいて、重大な間違いに気づいた。

永井叔の「緑光土」に載った北斗の「大空」、皇紀2585年を大正13年としていたのだけれど、正しくは大正14年ではないですか。

どうしてこうなったかわからないですが、年表が間違っていました。

年表を大正13年になっていたので、大空は東京で永井叔に会う前の余市時代に書いたとなって、ちょっとおかしいなとは思っていたのですが、もしかしたら、北斗が事前に書いていたのを、永井と出会ってから見せたということもないではない、と思っって居ました。

しかし、大正14年でしたら、東京で永井叔との交流があってから、書いたということになり、非常に自然になります。

しかし、なんでこんな単純なケアレスを長年見過ごしていたのだろうか……orz

 
管理人  ++.. 2011/12/04(日) 22:14 [547]





 このところ  [返信] [引用]
来年2012年を北斗生誕110年イヤーとして、何かできないか考え中。

適当に考えてみよう。

違星北斗展示会
違星北斗研究会
違星北斗音楽会

それを実現するにはどうしたらいいのか、よくわからないので、いろんな所に出かけて行っては、いろんな人に「何かやりたい、やりたい」という話だけはするようにしています。

 「その前に違星北斗の本を書いたらどうか」と言われるのですが、まあずるずるとまとめるのを躊躇しています。
 まだ、いろいろわからないことが多くて、年表の空白も埋まらない。
 せっかく東京にいるのに、東京時代のことも調べられていない。
 
 とりあえず、暇ができたら、群馬県の榛名町にある後藤静香記念館にも行きたいと思っています。もしかしたら、希望社で行方不明になった北斗の日記はないかな、と思っております。

 その他、まだ辿れるところはあるはずなのですが、それがどこなのかも思い出せない今日この頃です。

 
管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:19 [544]

 
そういえば、先日イオマンテのビデオを見てきました。

もちろん、北斗の余市コタンでも、イオマンテをしていて、北斗の家にも、朽ち果てた祭壇があり、そこに熊の頭骨が飾ってあったと。
 そんへんのことが、イオマンテのビデオを見ることで、いろいろ分かることがありました。
 下の記事にもありますが、北斗の家にも、花矢やら捧酒箸やらがいっぱいあった。
 余市コタンには、北斗の頃まで熊の檻があったともいう。
 北斗は余市はいち早く和人化したところで、アイヌ文化は廃れてしまったというが、それでもそういうものがいっぱい残っていて、実際、北斗の死後に兄の梅太郎が祭主、父甚作がアドバイザーで、余市でイオマンテをやっていたりする。
 また、北斗の親戚筋の方が、「つい最近」まで山中で神事をやっていたとも聞いた。
 余市で私にいろいろ教えてくださる郷土史家の方(80代)がいらっしゃって、その方がいろいろ教わったアイヌの方が、余市で「最後の」アイヌ文化伝承者だったという。
 そのアイヌの方は、大正十一年(1922)生まれだから、生きていたら90歳だが、14年前に亡くなられた。

 逆に言えば、つい14年前最近まで、余市でもアイヌ文化を守っている人がいらっしゃったのだともいえる。

管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:42 [545] [引用]

 

「北斗と熊」。

 熊取名人の父。
 違星家が仕切った余市でのイオマンテ。
 北斗の熊の歌、熊の短歌。

 もっと掘り下げて北斗と熊についても考えなきゃ。
 きっといろいろ見えてくると思う。

管理人  ++.. 2011/11/01(火) 01:59 [546] [引用]





 希望社界隈  [返信] [引用]
北斗が出入りしていた後藤静香の希望社は、
大久保町236、現在の新宿区歌舞伎町一丁目、大久保小学校の近く。

また、新社屋である希望館は歌舞伎町二丁目の鬼王神社の近くです。

また行ってみよう。

 
管理人  ++.. 2011/10/05(水) 14:30 [543]





 北大植物園博物館  [返信] [引用]
北大の植物園・博物館に収蔵されているアイヌ民具の中に、違星家提供のものが点ありますね。

ちょっとややこしいですが、引いてみます。


9537 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼 (パ 裏) 余市 違星家L28.9 W1.2 T0.6 H2.1 9537

9747 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 削りかけ余市 違星鏃L3.0 φ0.3 鏑L(7.3) φ1.3 柄L35.7 φ0.8 ML47.1 9747

10187 ヌサNusa余市 違星梅太郎
@ML140.5 W64.5 T30.0
AL68.1 W18.0T8.5 捧酒箸L32.6 W2.0 T1.0
BML169.5M W12.0MT8.0 捧酒箸L26.0 W1.3 T0.5
CML168.5M W28.0MT8.0 捧酒箸L27.1 W1.4 T0.6
DML175.5M W26.0 MT13.0 捧酒箸L27.2 W1.6 T0.4
EL240.0 W30.0
GL146.0
HL169.0 φ1.5
IL172.5φ2.2
JL177.0 φ2.6
10187

11211 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ2.7 W10.0 11211

11212 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.5 φ3.0 11212

11213 イナウinaw 3段 余市 違星家L69.0 φ2.8 W12.0 11213


17711 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市大川 違星L26.1 W1.2 T0.3 H3.7 17711

17712 捧酒箸libation stick 1935 余市大川 違星L33.9 W2.2 T0.6 17712

17717 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市大川 違星L28.2 W1.2 T0.6 H2.5 17717

17719 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L25.2 W0.8 T0.5 H3.5 17719

17730 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼 余市 違星家L29.0 W1.2 T0.6 H2.2 17733

17741 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星家L28.4 W1.3 T0.6 H1.5 17741

17742 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935 余市 違星L26.2 W1.3 T0.6 H1.8 17742

17764 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 1翼1935余市 違星家L29.5 W2.4 T0.5 H1.6 17764


17785 捧酒箸libation stick キケウシパスイ 2翼(表1裏1) 1935余市 違星家L28.8 W1.2 T0.6 H2.0 17785

23533 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.3 φ0.5 鏑L(7.7) φ1.7 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23533

23534 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.4 鏑L(8.3) φ1.7 柄L40.3 φ0.8 ML50.8 23534

23535 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.4 φ0.4 鏑L(7.6) φ1.5 柄L40.6 φ0.9 ML51.6 23535

23536 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.2 鏑L(8.3) φ1.3 柄L35.5 φ0.8 ML45.5 23536


23537 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.7 鏑L(8.0) φ1.6 柄L40.5 φ0.9 ML50.5 23537

23538 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L1.7 φ0.4 鏑L(7.2) φ1.7 柄L40.6 φ0.9 ML50.5 23538

23539 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+矢羽 赤白布付 余市 違星家鏃L2.2 φ0.6 鏑L(8.
2) φ1.5 柄L40.5 φ0.8 ML50.9 23539

23540 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.7 φ0.3 鏑L(7.4) φ1.5 柄L35.4 φ0.8 ML45.5 23540

23541 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 削りかけ・赤布付 余市 違星家鏃L2.0 φ0.3 鏑L(6.8) φ1.3 柄L35.8 φ0.8 ML44.6 23541

23542 花矢ceremonial arrow 鏑+柄+羽 赤布付 羽欠 余市 違星家鏃L3.5 φ0.4 鏑L(8.9) φ2.0 柄L40.7 φ0.9 ML53.1 23542

32949 花矢ceremonial arrow 鏑+柄 赤布付 余市 違星家鏃L4.2 φ0.5 鏑L(9.1) φ1.7 柄L40.8 φ0.8 ML54.1 32949


 
管理人  ++.. 2011/09/28(水) 02:31 [541]

 
捧酒箸と、花矢か。
捧酒箸は、カムイノミの時に使う、カムイにお酒を捧げるための棒ですね。
花矢は、熊送り(イオマンテ)の時に、熊に放つ装飾された矢です。

イナウは木を削って作った、カムイのシンボル。御幣のようなものですね。

ヌサは幣。

これは、北大植物園博物館に行けば見られるのかな?

http://bit.ly/nQ4sKe

管理人  ++.. 2011/10/01(土) 09:40 [542] [引用]





 朝日新聞「北の文人立ち話」  [返信] [引用]
朝日新聞北海道版 2011年8月26日

【北の文人 立ち話 高山美香】
心の叫びを歌に! 違星北斗

http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108260001

一部、強引なところもあるけど、わかりやすくライトな感じでいいのかも。
 「あいぬの話」のエピソードを描いた漫画もいいですね。ただ、違星北斗をある程度知っている人でないと、漫画の印象が勝ってしまうかも。あくまで、北斗の印象からすると「こういうところもあったんだ!」という意外性を感じるエピソードだと思うから。

>理不尽ないじめに、「手当たり次第、物をたたき割って暴れ死にたくなった」というつらい青年時代を送りました。

とあるけど、暴れた頃は「いじめ」というより、社会的待遇への怒りと、あと病気じゃないのかな。

>違星北斗(1902〜29)。余市町生まれ。小学校を出て地元で働くが、25年に上京後にアイヌ民族問題に目覚め帰郷。短歌作りを始め同人誌を創刊。薬の行商をしながら創作とアイヌ復興の活動を続けた。死後に遺稿集「コタン」が出された。

 文末の北斗の略歴、これは高山さんの手によるものではないかもしれないけど、北斗の生涯の中で、薬売行商の時期というのは、それほど長くないので、こういう書き方はどうかな。わかってない気がする。




 
管理人  ++.. 2011/08/27(土) 00:32 [540]





 年譜  [返信] [引用]
昭和5年版「コタン」の年譜は、北斗の手によるものであるといわれています。

しかし、草風館の「コタン」の年譜は、読者への親切のためだと思いますが、編者の筆が入っているため、意味合いが変わってしまっているところがあります。

たとえば、大正9年。
元は「畑を借り茄子作、中途病気」
これが草風館版(昭和59)だと「畑を借りて茄子等を作るが病気再発する」となります。

 微妙に、ニュアンスが違いますよね。

 昭和5年版は「茄子」と言い切っていますが、昭和59年版は「茄子等」。「等」ってどこから出てきたんですかね。

 あと、昭和5年の「中途病気」と昭和59年の「病気再発」では意味が違いますよね。

 昭和5年版の方が、資料としては精細です。
 なぜなら、「畑で茄子をつくったが、茄子を作っている中途に病気になった、と読める。茄子は夏の野菜ですから、発病時期が夏より前だということもわかる。

 でも、それが昭和59年版だと、編者のおせっかいでわからなくなってしまっている。

 ほかにも、同様のおせっかいによるニュアンスの変化がある。

 北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、それが11月になってたりして、けっこう適当な年譜なのですが、これがオフィシャルみたいになってしまっているんですよね。
 アイヌ一貫同志会なんて、本当に存在したのかどうかもわからないのですが、この草風館版の年譜に載っているから、あったこととして確定してしまっていますね。

 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 05:00 [538]

 
>北斗が東京から北海道に帰ったのは2月ですが、

すみません、2月じゃなくて7月です。

ちなみに、11月というのは、元々縦書きの北斗の原稿に「七」と書かれていたものを希望社版コタンの編者が「十」「―」と読み間違え、それが草風館版にも引き継がれてしまったからですね。

管理人  ++.. 2011/08/09(火) 01:30 [539] [引用]





 ウタリ之友  [返信] [引用]
ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

-------------------
ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
------------
(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html



 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:06 [536]

 
で、肝心の北斗ですが、最後の方に、佐藤三次郎の家に井戸の「釣瓶」を借りに来る人として登場。

 東京から北海道に戻ってすぐの頃の幌別教会時代のエピソードではないかと思います。
 この文章は在りし日の幌別教会を中心としたアイヌコミュニティを写したものですね。
 バチラー八重子、北斗、知里真志保ときたら、「豊さん」はもしかしたら、「豊年健治」ではないかと推測します。

 雀の子を取った春野さんも、どこかで聞いたことがある名前。
 どこだろう?

 
 

管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:10 [537] [引用]





 『アイヌの啄木』に反対します!  [返信] [引用]
違星北斗のことを「『アイヌの啄木』と言われている」と平気で書く人がいるが、どうなんですかね。

誰が言い始めたのかもわかりませんが、北斗のことを少しでも知っていて、啄木のことも少しでも知っていたら、とてもそんな呼び方はできないんじゃないかと。

そりゃ、キャッチーかもしれませんけど。




ここだけの話。
北斗は石川啄木のような人間ではありませんよ。
対極でしょう。

啄木のことも、北斗のこともよく知る金田一京助がそれを言ったんだったら、まあ、いいでしょうが、私が知る限り、金田一京助にそんな発言はない。

啄木ファンには悪いけど、金輪際、『アイヌの啄木』と呼ぶのはやめてほしいもんだな。

 
管理人  ++.. 2011/03/02(水) 02:37 [532]

 
呼吸をする度に細工物のように上手い素晴らしい短歌をこさえることのできる

石川啄木と、一人で民族の未来を背負って起った違星北斗とでは

あまりにも立ち位置が違いすぎるんじゃないのかなぁ。

別に、啄木をどうこういうつもりはないんですが。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:00 [533] [引用]

 
でも……やっぱり……悪く書いちゃうけど、啄木という名前は、どうも「ダメ人間」というイメージが強すぎるんだ。それは、北斗を通じて金田一京助の生涯を知っているから余計にそう思うのだろうけど。

「アイヌの啄木」なって書いてありがたがっちゃう人は、とてつもなくだらしない啄木の存在がいかに金田一の研究の障害になったかを知らないんだろうな。もちろん、金田一の研究にはいろいろな問題があったのだけれど、それはひとまず置くとして。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:16 [534] [引用]

 
ちなみに、金田一京助は違星北斗のことを

「知里幸恵を男にしたような」

と譬えています。

こっちのほうが痛快な譬えだと思うのは私だけでしょうか。

管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:19 [535] [引用]





 名前  [返信] [引用]
違星北斗には名前が3つある。

戸籍上は「瀧次郎」だが、本来は「竹次郎」で、代書屋が聞き間違えたまま、登録してしまったのだ。

(現代ではそうでもないかもしれないが、余市の方言は「イ」音と「エ」音の混同というのがあるようで、それは古老の方と話していても感じたし、北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えている)。

で、彼は和人の前では「瀧次郎」、家族や、コタンの人々からは「竹次郎」、「タケ」と呼ばれていた。

彼の父や祖父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようだ。
ただ、図らずしも、北斗の中には和人社会での名前「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになった。
 
 一つの体に二つの名前。
 一つの言葉に多くの意味。

 多くのアイヌと同様、彼は和人社会とアイヌ社会という二つの社会で、多面性を持たざるをえなかったし、彼の場合はそれを名前によって使い分けざるを得なかった。

 後年、彼は北斗と号することになる。
 その引き裂かれた二つの名前を統合したのだ。

 彼はまた、当時蔑称的に用いられていたアイヌという言葉に、新しく良い概念を込めようとした。我アイヌ、何を恥じることがあろうかと。

 言葉の意味は、時代によって変わっていく。
 また、人為的に変えられる。
 のちに言葉を武器に戦っていくのには、この三つの名前を持つことと無関係ではないと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/08(火) 11:11 [531]





 とりあえず  [返信] [引用]
違星北斗botを作ってみた。(@kotan_bot)

http://twitter.com/kotan_bot

彼の生涯をツイートで追っかけてみよう。
自分のための復習でもある。

 
管理人  ++.. 2011/02/07(月) 01:31 [530]








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