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コタンBBS

違星北斗研究会
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 金田一春彦と北斗  [返信] [引用]
金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

 
管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

 
谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299] [引用]

 
 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×−×−×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300] [引用]

 
 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301] [引用]

 
 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316] [引用]

 
金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344] [引用]





 いろいろ調べたい  [返信] [引用]
 貝澤正「アイヌ わが人生」を読み、いろいろと思うところがあり、しばらく向き合っていなかった北斗の方に引き戻されたような感じがします。

 猛烈に、いま色々と調べたくなりました。

 貝澤正氏は1912(大正元)年生まれ。
 明治34年生まれの北斗とは10歳ぐらい違います。

 北斗が二風谷を訪れた大正15年には15歳。
 そのころ貝澤氏は小学校の高等科で、二風谷から4キロ離れた平取まで歩いて通っていたようですから、平取に寄宿していたという北斗と、もしかしたら出会っているのかもしれません。

 平取時代、バチラー幼稚園を手伝っていた北斗が寄宿していたのは、義経神社下のブライアント女史がもと住んでいた建物である、という話と、もう一つ「忠郎」氏宅に寄宿していたという話があり、どちらかよくわかりません。
 この「忠郎」氏というのは、著者不明の「違星君の平取入村当時の思い出」という文書に書かれているのですが、この忠郎氏のこと、それにこの文書を書いた人が誰なのかが知りたい。
 おそらく平取の図書館に行けばわかるのだと思います。
 いろいろと、ほったらかしにしていたことを、もう一度ちゃんとやらねばならないと思っています。
 
 
 
 

 
管理人  ++.. 2007/11/21(水) 00:11 [343]





 いろいろ情報  [返信] [引用]

オークションで取引された本

 新短歌 『太陽と雪』 アイヌ人違星北斗の歌 一條 正著(終了日時 : 2005年 9月 7日 7時 54分)
http://rating4.auctions.yahoo.co.jp/jp/show/rating?userID=aak88650&author=mimizou58&bfilter=&bextra=&brole=buyer&bpn=1&bsf=

国会図書館にもなし。一條正という人は昭和初期の詩人のようです。

・「路上」108号に北斗の研究記事あり。107号にもありました。

http://www.h4.dion.ne.jp/~rojyo/

・松木淳という人の詩に北斗を歌ったものがあるようです。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2007/08/post_f93b.html
 



 
管理人  ++.. 2007/11/03(土) 16:17 [340]

 
松木淳(まつき・あつし、1904〜1984)


 「荊の座 松木淳詩歌集」


  屑っ切れのうた 1931


 読み終りわれ眼を閉じて思うこと
 違星北斗の遺稿コタンを

 彼が持ちしアイヌの悩みと
 わがもてる
 悩みと深く通うものあり

 悩みつゝ北斗は逝けり
 いたましや
 彼をうばひし病に吾も病む

 去り行ける違星を惜しむ
 生けるうち
 知りなばわれもたよりせんものを

 去り逝ける
 違星北斗よ君が胸の
 深き悩みの われにはわかる

 去り行ける違星北斗よ
 君が霊に
 われも心を捧げて誓う

 短かゝりし二十九年のいのちなれど
 違星北斗は
 コタンに 光る

 同族を想ひて夜を泣き明せし
 違星よ
 われも泣き明すもの

 

 

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:28 [341] [引用]

 
 松木は山口県出身の詩人・歌人・運動家で、若い頃は水平社員であり、差別と結核に苦しんだようで、コタンを読み、北斗へのシンパシーを感じて歌を詠んだようです。
 北斗に関する歌は「コタン」出版の翌年、1931年に詠んでいます。

 生前の北斗もまた、水平社運動に尊敬を払っていました。
 もし、二人が出会っていたら……どうなっていたでしょうか。

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:39 [342] [引用]





 無題  [返信] [引用]
なかなか、北斗のところに戻って来れません。

今年は夏の調査にも行けませんでした。

まあ、気長にやります。

 
管理人  ++.. 2007/09/27(木) 13:06 [338]

 
検索に引っかかった本

「愛国心を考える」 (岩波ブックレット NO. 708)

 なぜ,いま愛国心か
  愛国心と九・一一/日の丸・君が代と愛国心教育

II 愛国心の起源
  愛情とイデオロギー/宗教,国家,愛国心/革命を起源とする愛国心/下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき

III 愛国心と近代国家
  愛情と忠誠心/愛国心,ナショナリズム,ジンゴイズム

IV 近代日本の愛国心
  上からの愛国心/国民精神総動員運動/愛国心と帝国/戦後の愛国心論争

V 行動で示される愛国心
  愛国心という化け物/田中正造/違星北斗/小林トミ/ヴァレリー・カウア/国境を超える愛国心

VI グローバリゼーションの時代の愛国心
  愛国心と安全/愛国心と恥の感覚/愛国心,ネーション,個人/愛国心と教育/愛国心と平和

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

早速注文。
テッサ・モーリス・鈴木さんは「辺境から眺める」で違星北斗について軽くふれられています。
今回は、北斗について、もう少しつっこんでいただけるとよいなあ思います。



管理人  ++.. 2007/09/28(金) 00:22 [339] [引用]





 あなたはアイヌですか。  [返信] [引用]
始めましてよろしく。

アイヌは文字あるの民族。
http://csikcsongor.extra.hu/a/w.HTM

 
csikcsongor [URL]  ++.. 2007/08/24(金) 16:25 [336]

 
ハンガリーからようこそ。

管理人  ++.. 2007/09/08(土) 00:24 [337] [引用]





 記事集成  [返信] [引用]
国会図書館の新聞から、特定の人の記事を集めた資料集として、

「ドキュメント 人と業績大辞典」

というものが発行され、その第3巻に「違星北斗」の項目があるようです。

 かなり高いので買えそうにありませんが、どこかの図書館にあれば、見てみたいと思います。

http://homepage3.nifty.com/nada/page004.html

 
管理人  ++.. 2007/08/05(日) 23:40 [331]

 
北斗の記事は一件だけでした。

毎日新聞 1954年9月10日


”悲劇の民”の歌を絶唱
  縁りの地に近く「北斗」の碑

【その二】違星北斗(本名滝次郎)は明治三十四年北海道後志国余市町に生れた。小学校時代、皆からアイヌ、アイヌとはずかしめられるのを怒り日本人に強い反抗心を抱いていた。
 大正十四年知人を頼って上京、ここで金田一博士らの知遇を受けて感激、滅びゆくアイヌ民族の生活を世に紹介し、その生活の向上をはかることが使命だと考えるようになった。大正十五年、北海道に帰った北斗は道路工夫や売薬行商をしながらアイヌ青年の集りである「茶話笑楽会」を作り、ガリ版刷りの機関誌を発行して教化に努めたが、昭和四年一月、結核のため二十九才で死んだ。翌昭和五年担任教師だった余市小学校訓導古田謙二氏が集めた遺稿集”コタン(村)”が出版された。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 13:24 [332] [引用]

 

  アイヌ相手に酒売りている店だけが大きくなってコタンさびゆく
  不義の子でもシャモでありたい○○子の心のそこに泣かされるなり
  (シャモとは日本人の意)
  平取に浴場一つ欲しいもの金があったらたてたいものを
 などのようにアイヌ民族の悲惨な生活と、しいたげられる悲しみとが歌われている。金田一博士はこれらの歌を現代のアイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌った唯一のものであり、啄木の影響が強いが歌としてもすぐれたものだと評している。こんど立てられる歌碑は古田氏らが作った「違星北斗の会」(札幌市北一条西十丁目門間清四郎氏方)が中心となって計画したもので、場所はアイヌ民族の故知である日高国沙流郡平取村二風谷が選ばれた。碑は歌を刻んだ石碑を土マンジュウで覆ったもので、秋は落葉に覆われ、冬は雪に埋もれ、春から夏にかけてだけ姿を現すように設計されている。碑面の文字は金田一博士が筆をとるが、遺作中から二種を選び、その一つは場所にちなんで
「沙流川(サルガワ)は昨日の雨で水濁りコタンの昔ささやきつゆく」と決まっている。

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:22 [333] [引用]

 


金田一京助博士談
 (略)
 また北斗は大正十四年、五時間もかかって私の家を探し、途中田の中に落ちたとみえてどろだらけになって訪ねてきたのがはじめだった。よく家に出入りしたが感激性が強くまれにみる純真な男でした。


管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:25 [334] [引用]

 

 それにしても、変な写真です。

 北斗じゃないのような気もしてくる。

 まあ、でも顔の造作は同じですが、目と鼻、頬にかけての印象がかなり違う。まるで「らくがお」です。

 うーん。これはどうなんだろう。
 

管理人  ++.. 2007/08/15(水) 14:35 [335] [引用]








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