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コタンBBS

違星北斗研究会
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 朝日新聞  [返信] [引用]
 一週間ぐらい前の朝日新聞(北海道版)の「北のことば」に北斗の言葉が紹介されたらしいのですが、どなたかご存じないでしょうか。
 
 大阪在住なので、チェックできていません。
 WEB上にもアップされていないようです。

 
コタン管理人  ++.. 2008/07/25(金) 23:46 [351]





 新短歌時代より(2)  [返信] [引用]
第2巻2号(昭和3年2月)

五十人集

(前略)

○              高根一路
遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ

薬売るけなげなアイヌのその歌をこゝろしみ/゛\口にしてみる

(後略)

--------------------------------------------------

昭和三年口語歌壇予想暦

(前略)

十月三十日

 違星北斗、「正義の前に立った確信」といふ気持で、フゴツペの鉄道沿線を掘ると、中から「誇大坊主」(古代文字)のミイラ現れ「淋しい気持」に変る。

(後略)

※これは、まあ各同人の「未来予想」で、冗談記事のようなものですね。

 
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:30 [61]

 
「歌の作り方に就て(二)」 福田義正

(前略)一体に燕麦とか憂鬱とかのやうな音読の文字は強く響くから、次のやうに前後に強い言葉を据えて均衡を保つことが大切であると思ふ。
(中略)
 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今何處にゐる
(中略)
 これらの歌はよくリズムが整調されてゐて一読ピンとくるではないか。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:07 [63] [引用]

 
第2巻6号(昭和3年6月)

さらば小樽よ小樽の人々よ    福田義正
(前略)
 思へば―。百余日にわたる小樽の冬ごもりは私にも楽しかつた。景山医学士夫妻の厚意をうけて望月病院内に起居したことは幸であつた。昼は毎日大きな風呂敷包みを背負つて雑誌を売りに歩いた。私の売る雑誌は至る所で歓迎せられた。並木凡平さんをはじめ、勝見茂、後藤勇、石田さだを、渡部剛、村木雄一、園田朱一、岡野陽子、種田嘉代子等の諸君は私の商売のためにも一方ならず力を尽くしてくれた。然るに私は何等報ることなく立去らうとしてゐる。また裏切り者の名を負うのか。苦しい。諸君よ、許してくれ。
 夕方になると病院に帰つて、景山先生の乗る橇の後押しをして走つた。大男の橇を押す姿は可笑しかつたか、通りすがりの女学生などよくゲラゲラ笑つたりした。それでも患者の家に行けば労を犒つてくれるのでうれしかつた。汗を拭きながら肩で息をしてゐる者にとつて、一杯の渋茶も涙がこぼれるほどうれしかつた。往診から帰つて火の気のない冷たい食堂で飯を食ふとあとは自由に遊ぶ時間であつた。ある晩は景山夫妻の部屋に行つて、ある晩は薬剤師青木朗々の部屋に行つて、たいていは短歌の研究をしあつた。愉快な談笑の声が更けてゆく夜の空気をゆすつた。
 一月十七日の晩だつたと思ふ。小樽に於ける最初の口語歌雑誌「橄攬樹」の編輯者渡邊要君の来訪を幸に、その歓迎会をかねて病院内で短歌会を開いた。凡平さんがヤケドのため出席されなかつたのは残念だつたが、会する者十七八名なかなかの盛会でうれしかつた。その前後であつたか、治療助手の原草之介も歌を作る。川村看護婦も作る。入院患者にまで共鳴者があつた。違星北斗君が来て寝食を共にしたのもその頃であつた。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:24 [65] [引用]

 
※上の文章が書かれたのは五月四日。
 ここにも、新発見の北斗の足取りがありますね。

 昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:32 [66] [引用]

 
第2号7号(昭和3年7月)

漫歌十人一首 明圓政二
――怒りつぽい人読むべからず――

(前略)
   違星北斗さんへ
おゝアイヌ強いアイヌよどこにゐる出てこい出てこいもう一度たて
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:19 [67] [引用]

 
第六回 新短歌座談会 
 
 大友秋牧 稲畑笑治 後藤勇 石田さだを 近藤輝越 美津井勇 野村保幸 並木凡平

(前略)

(凡)どうです彗星的に現れた彼の違星北斗君に就いてなにか。
(輝)違星さんの作品に就いて近ごろ非常に幻滅を感じてきました。
(笑)同感々々。
(美)未見ですが歌を通して見た違星君は大変に大和民族的なねつ情のある歌人だと思つてゐます、だが最近の作品のどれもが極端に誇張し過ぎてゐてさつぱり駄目ですね一時は中村孝助氏とともに注目された人ですのに。
(さだ)そう、僕なんかも一時作品には感心させられましたが此の頃の作品はどうも好きになれません。
(保)なぜ違星さんがはじめて歌壇に現出したころのような自然らしい歌が近ごろ生れないのかと不思議に思つております。
(凡)彼の処女作「握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声」当時の詩的情感が今日枯死した感のあるのは甚だ物足りない。民族的偏見と、議論の一説に近い叫びを余りに強く悪どく出しすぎてるの感がある然し理論のしっかりした点は将来期待していゝと思ふ。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:55 [68] [引用]

 
>昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

 景山病院じゃなくて、望月病院ですね。

管理人  ++.. 2005/10/31(月) 23:52 [70] [引用]





 年譜の誤り  [返信] [引用]
1930年の北海道アイヌ協会設立(戦後設立された「財団法人北海道アイヌ協会」とは別組織)と中の「財団法人北海道アイヌ協会」は「社団法人北海道アイヌ協会」と、財団ではなく、社団です。細かいことで恐縮ですが。
 
takekune  ++.. 2008/06/26(木) 17:26 [349]

 
takekune様

 教えていただいてありがとうございます。
 直したいと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

管理人  ++.. 2008/06/29(日) 20:55 [350] [引用]





 お知らせ  [返信] [引用]
コタンBBSは、今後も継続することにしました。

違星北斗研究の情報のセンターとして、今後も活用できればとおもっておりますので、みなさんお書き込みください。

今後ともよろしくおねがいいたします。

 
コタン管理人  ++.. 2008/06/15(日) 13:26 [348]





 ainu  [返信] [引用]
Irankarapte !
Eiwanke ya?

{tuyma-Magyar moshir

http://csikcsongor.extra.hu

 
csikcsongor [URL]  ++.. 2007/01/12(金) 22:04 [291]

 
イヤイライケレ。

リンク先は、真面目なアイヌ研究サイトですね。
ただしハンガリー語らしいですが。

荒らしだと思って削除しないでよかった。

管理人  ++.. 2007/01/18(木) 18:52 [292] [引用]

 
Irankarapte ! Eiwanke ya?

tuyma-Magyar moshir

New website:
http://2244.web.fc2.com/ainu/utari.HTM


csikcsongor [URL]  ++.. 2008/03/24(月) 03:46 [347] [引用]





 遅ればせながら  [返信] [引用]
BBSをやめて、ブログに移行しようと思います。
 
管理人  ++.. 2008/03/07(金) 14:32 [345]

 
ブログ:
「違星北斗研究会」

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/

管理人  ++.. 2008/03/13(木) 20:28 [346] [引用]





 金田一春彦と北斗  [返信] [引用]
金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

 
管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

 
谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299] [引用]

 
 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×−×−×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300] [引用]

 
 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301] [引用]

 
 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316] [引用]

 
金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344] [引用]





 いろいろ調べたい  [返信] [引用]
 貝澤正「アイヌ わが人生」を読み、いろいろと思うところがあり、しばらく向き合っていなかった北斗の方に引き戻されたような感じがします。

 猛烈に、いま色々と調べたくなりました。

 貝澤正氏は1912(大正元)年生まれ。
 明治34年生まれの北斗とは10歳ぐらい違います。

 北斗が二風谷を訪れた大正15年には15歳。
 そのころ貝澤氏は小学校の高等科で、二風谷から4キロ離れた平取まで歩いて通っていたようですから、平取に寄宿していたという北斗と、もしかしたら出会っているのかもしれません。

 平取時代、バチラー幼稚園を手伝っていた北斗が寄宿していたのは、義経神社下のブライアント女史がもと住んでいた建物である、という話と、もう一つ「忠郎」氏宅に寄宿していたという話があり、どちらかよくわかりません。
 この「忠郎」氏というのは、著者不明の「違星君の平取入村当時の思い出」という文書に書かれているのですが、この忠郎氏のこと、それにこの文書を書いた人が誰なのかが知りたい。
 おそらく平取の図書館に行けばわかるのだと思います。
 いろいろと、ほったらかしにしていたことを、もう一度ちゃんとやらねばならないと思っています。
 
 
 
 

 
管理人  ++.. 2007/11/21(水) 00:11 [343]





 いろいろ情報  [返信] [引用]

オークションで取引された本

 新短歌 『太陽と雪』 アイヌ人違星北斗の歌 一條 正著(終了日時 : 2005年 9月 7日 7時 54分)
http://rating4.auctions.yahoo.co.jp/jp/show/rating?userID=aak88650&author=mimizou58&bfilter=&bextra=&brole=buyer&bpn=1&bsf=

国会図書館にもなし。一條正という人は昭和初期の詩人のようです。

・「路上」108号に北斗の研究記事あり。107号にもありました。

http://www.h4.dion.ne.jp/~rojyo/

・松木淳という人の詩に北斗を歌ったものがあるようです。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2007/08/post_f93b.html
 



 
管理人  ++.. 2007/11/03(土) 16:17 [340]

 
松木淳(まつき・あつし、1904〜1984)


 「荊の座 松木淳詩歌集」


  屑っ切れのうた 1931


 読み終りわれ眼を閉じて思うこと
 違星北斗の遺稿コタンを

 彼が持ちしアイヌの悩みと
 わがもてる
 悩みと深く通うものあり

 悩みつゝ北斗は逝けり
 いたましや
 彼をうばひし病に吾も病む

 去り行ける違星を惜しむ
 生けるうち
 知りなばわれもたよりせんものを

 去り逝ける
 違星北斗よ君が胸の
 深き悩みの われにはわかる

 去り行ける違星北斗よ
 君が霊に
 われも心を捧げて誓う

 短かゝりし二十九年のいのちなれど
 違星北斗は
 コタンに 光る

 同族を想ひて夜を泣き明せし
 違星よ
 われも泣き明すもの

 

 

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:28 [341] [引用]

 
 松木は山口県出身の詩人・歌人・運動家で、若い頃は水平社員であり、差別と結核に苦しんだようで、コタンを読み、北斗へのシンパシーを感じて歌を詠んだようです。
 北斗に関する歌は「コタン」出版の翌年、1931年に詠んでいます。

 生前の北斗もまた、水平社運動に尊敬を払っていました。
 もし、二人が出会っていたら……どうなっていたでしょうか。

管理人  ++.. 2007/11/06(火) 19:39 [342] [引用]





 無題  [返信] [引用]
なかなか、北斗のところに戻って来れません。

今年は夏の調査にも行けませんでした。

まあ、気長にやります。

 
管理人  ++.. 2007/09/27(木) 13:06 [338]

 
検索に引っかかった本

「愛国心を考える」 (岩波ブックレット NO. 708)

 なぜ,いま愛国心か
  愛国心と九・一一/日の丸・君が代と愛国心教育

II 愛国心の起源
  愛情とイデオロギー/宗教,国家,愛国心/革命を起源とする愛国心/下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき

III 愛国心と近代国家
  愛情と忠誠心/愛国心,ナショナリズム,ジンゴイズム

IV 近代日本の愛国心
  上からの愛国心/国民精神総動員運動/愛国心と帝国/戦後の愛国心論争

V 行動で示される愛国心
  愛国心という化け物/田中正造/違星北斗/小林トミ/ヴァレリー・カウア/国境を超える愛国心

VI グローバリゼーションの時代の愛国心
  愛国心と安全/愛国心と恥の感覚/愛国心,ネーション,個人/愛国心と教育/愛国心と平和

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

早速注文。
テッサ・モーリス・鈴木さんは「辺境から眺める」で違星北斗について軽くふれられています。
今回は、北斗について、もう少しつっこんでいただけるとよいなあ思います。



管理人  ++.. 2007/09/28(金) 00:22 [339] [引用]








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