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コタンBBS

違星北斗研究会
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 北斗の手紙  [返信] [引用]
 T様より、北斗が書いた手紙の写しを頂きました。

 以下の4通です。
 (新発見が多数あります。詳細はのちほど)。

 (1)ハガキ 大正14年3月12日付 金田一京助宛
    発信:淀橋町角筈 高見沢清様方 違星北斗生

  北斗が上京して1ヶ月ほどの頃。
  はじめて金田一宅を訪ねたことに対するお礼と、
  次に3月15日に再び訪ねたいとのお願い。

 (2)手紙 大正15年7月8日 金田一京助宛
    発信:北海道室蘭線ホロベツ バチラー方
       違星滝次郎 

  北斗が東京を後にして、北海道に着いた翌日に出した手紙。
  金田一をはじめ、東京で出会った人々への感謝と、
  ホロベツの印象、バチラー八重子の印象など。
  知里真志保や豊年健治に会ったこと、
  八重子に、平取での寄宿先として、
  アイヌの信仰を持った家をたのんであること。
  北斗自身の信仰「自分の良心を本尊として進」むことについて。
  自分がアイヌに生まれてきた運命と、
  自分の出発点である「自己差別」について。
  聖公会の教会について、等。

 (3)ハガキ 昭和3年2月29日 吉田はな子宛
    発信:ホロベツ町ホロベツ 違星北斗

  これはすでに存在を知っていたもの。
  藤本英夫先生の「知里真志保の生涯」でも紹介されているものですね。
  昨日ホロベツに来て、知里真志保といっしょに泊まっている、
 と言う内容です。


 (4)手紙 昭和3年6月20日付 金田一京助宛(親展)
    発信:北海道余市町大川町 違星北斗
   
  北斗闘病中の手紙。
  東京での思い出、金田一への感謝、
  北斗自身が上京を世話したウタリの女性について
  病気について、
  余市の指導者中里徳太郎の死について、
  兄との関係について、等。

 新発見については、追って書いていきます。

 それにしても、北斗直筆の手紙を読むというのは、なんというエキサイティングな体験なんだろう。
 人間北斗が、そこに息づいている、息吹を感じるとでもいうのでしょうか。なんとも、いえない感動があります。特に病床にある時期の北斗の手紙には、人間らしいところがにじみ出ています。

 
  
  
  

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/06(土) 01:06 [368]





 北斗と平取  [返信] [引用]
 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 
 この間に、平取に戻っている可能性はないとは言えません。(すぐ戻るつもりで、着の身着のまま出てきたのですから、すくなくとも挨拶なり、後片づけは必要でしょう)。

 また、バチラー八重子と吉田ハナとともに平取教会にあったことは確かなようですが、「バチラー八重子抄」では、その期間が2ヶ月程度だったとしています。(大正15年のことであれば、二ヶ月ではすみませんから、これは昭和2年のことかもしれません)。
 大正15年に、北斗が平取に来たとき、平取には八重子は幌別にいて、平取には岡村神父がいました。八重子が平取に移るのは昭和2年です。
 となると、やはり、昭和2年にも平取に北斗は来ていると思います。平取で八重子とともに林檎を育てようとして失敗したり、蚕を育てたりしています。
 だとしたら、やはり北斗は昭和2年に平取に来て、八重子や吉田ハナとともにあったのかもしれません。

 年表の空白ということでいえば、昭和3年にも空白があります。売薬行商で2月末に白老、幌別などを訪れるのですが、そのあとの足跡はとぎれています。その後は余市に戻って鰊漁をしているのですが、幌別までくれば、日高、平取に行ったということは考えられないだろうか、とも思います。

 いずれにしても、北斗が平取の義経神社の下の、ミスブライアンとから八重子に譲られ、吉田ハナが管理する家に寄宿していたという記述と、忠郎氏なる人物の、茅葺き屋根の家に寄宿していたというのは、違う時期の話なのではないか、と思います。 

 
管理人  ++.. 2008/09/01(月) 17:59 [367]





 一言集  [返信] [引用]

 北斗が、病床で最後まで読んでいたという「一言集」という小冊子を入手。

 後藤静香が格言や警句のような、短い言葉を描いたもので、昭和3年10月発行。非売品で、昭和4年版「心の日記」の付録のようです。

 この昭和3年10月といえば、もう、かなり弱っている頃です。

 
コタン管理人  ++.. 2008/08/30(土) 00:33 [364]

 
いくつか書き出してみます。

-----------------------------------------



誰でも、自分の親から某年某月某日某所で生れた。之は訂正されぬ絶対の運命である。人間には盲従せねばならぬ事がある。此の真理を解せず、凡てに我が儘が通ると思つたら、悲観し又煩悶する。



偉大なものを持たない人間は、すぐに自分を大きく思う。
絶えず伸びて居る人間は、いつも自分を小さく感ずる。
小さくは感じながらも大きくなり得る望みをもつ。



やれるだけやる。結果は成行にまかせる。
結果がよければ尚やる。
悪ければ、考え直して尚々やる。



善い事だと思ながら尚 行い得ないのには二つの原因がある。
一つは、本当に知らないから
他の一つは、愛が足りないからである。



私は急ぐ。人を愛するから急ぐ。溺れかゝって居る子を、来年まで見過ごしにする親はない。徐々に進むとゆうのは、徐々に進めてもよい事か、それほどになまぬるい人間のする事である。



大自然の中にころげこむと、自然が自分の家になる。
人間の中にころげこむと、人間が自分の家族になる。

一五

自分の仕事に命を投げこむと、自分の天職がわかる。
そうして自分の力量がわかる。

二四

不滅の霊は、自身と同じ様な不滅な仕事を要求する。正しく仕事が霊に託されて居る。それは自己と全世界との完成である。
不滅な仕事に没頭して居るとき、最高の悦びを感ずる。

二五

本当に愛するとは、他の中にある自己と、自己の中にある自己とが、一つになることである。愛はどんな民族をも相抱かしめる。
愛は愛を呼び起す。

三五

天下を動かさんとする者は、先ず自ら動くべし。
眠れる獅子は走る犬に如かず。

------------------------------------------------

といったぐあいの文章が、59編載っています。
古田謙二によると、北斗は病床で、この本を繰り返し読んでいたそうです。


管理人  ++.. 2008/08/30(土) 00:54 [365] [引用]

 
なかなか興味深いので、もう少し引いてみます。
-----------------------------------------------

三四

病を癒し得るものが医師だけではない。
生きる力は誰の中にも宿って居る。
病を癒す最上の方法は、其の生きる力に活気を添える事である。

三七

よその家に行って、便所や流しもとばかり嗅ぎ廻るのは犬である。
人間ならば玄関から堂々と座敷へ通る。此の人生にも汚い所はあるが、強いてそこだけ嗅ぎまわるには及ぶまい。

四一

昔の志士英傑にも何等かの影はあつたろう。併し余りに強い光のために凡てが明るく見える。吾等がもつ過去の影、それに対する吾等の義務は、その影をも照す輝く前途をつくる事である。

四六

いつも肌身をはなさぬ書物があるか。又何か研究して居るか。
何の研究もせず、又研究しようとする意志さえない人間は、退歩するより外に仕方がない。進歩のとまつた人間は早く老衰する。

五七

伝統は貴い。伝統には、幾代の間に洗練せられたものが宿って居るから貴い。併し伝統が生命を失うならば、それはもぬけの殻である。
愛は殻を破つて新しい生命を送り出す。

五八

国民の一人一人が、国家を我物とし、国家と自分との合体を悟ればよい。之が分れば、利己心が愛国心に変る。此の事は自己を没却する事でもなく犠牲にする事でもなく、最もよく生かす事である。

五九

孤独から自然へ走り、自然とぴつたり触れあつたとき、それは人間をも抱き得たときである。地より天へ、そうして再び天より地に下る。もう孤独ではない。

-----------------------------------------------

これらの言葉を、病床の北斗はどのような気持ちで読んだのでしょうか。

後藤静香の言葉には、私も引き込まれそうになります。
国家主義的な部分は、時代的にしょうがないと思います。その部分も含めた上で、もうそろそろ、多くの人に読まれてるようになってもよい頃かもしれません。

管理人  ++.. 2008/08/30(土) 01:11 [366] [引用]





 違星北斗コミュ  [返信] [引用]

 mixiに、違星北斗のコミュが出来ていました。
 mixiをやっている人は、参加してみてはいかがでしょうか。
 私は見つけて、すぐに入りました。

 (コミュニティ検索「違星北斗」でみつかります)。

 
管理人  ++.. 2008/08/29(金) 15:17 [363]





 ありえたかもしれない人生  [返信] [引用]
北斗が東京で出会った「大人」たち。

あのまま東京に留まっていたら、ありえたかもしれない、北斗のもうひとつの人生。

東京での安定した生活を続けていれば、若くして病気で死ぬこともなかっただろう。

金田一京助や伊波普猷のような、学者としての人生。
若くして中国革命運動に身を投じ、人気作家になった山中峯太郎のような生き方。
軍隊で上官を殴り、マンドリンをもって放浪した大正のヒッピー・永井叔。
後藤静香の元で希望社で社会運動を続けていたら、どうなっただろうか。
国柱会の活動に熱中していたら坊さんになっただろうか。

北斗はなぜ、この奇人たちに惹かれながらも、彼らのようになろうとしなかったのか。

 
管理人  ++.. 2008/08/26(火) 10:27 [362]





 生活  [返信] [引用]
もう、何年もいじっていない「キーワード別歌集」。

「生活」っていうキーワードがなかったことに気付きました。

生活
【衣】
『北斗帖』
背広服生れて始めて着て見たり/カラーとやらは窮屈に覚ゆ
ネクタイを結ぶと覗くその顔を/鏡はやはりアイヌと云へり
洋服の姿になるも悲しけれ/あの世の母に見せられもせで
めっきりと寒くなってもシャツはない/薄着の俺は又も風邪ひく
【食】
「北斗帖」
握り飯腰にぶらさげ出る朝の/コタンの空に鳴く鳶の声
久々で熊がとれたが其の肉を/何年ぶりで食うたうまさよ
砂糖湯を呑んで不図思ふ東京の/美好野のあの汁粉と栗餅
甘党の私は今はたまに食ふ/お菓子につけて思ふ東京
支那蕎麦の立食をした東京の/去年の今頃楽しかったね

カムチャツカの話しながら林檎一つを/二つに割りて仲よく食うた
働いて空腹に食ふ飯の味/ほんとにうまい三平汁吸ふ

骨折れる仕事も慣れて一升飯/けろりと食べる俺にたまげた
一升飯食へる男になったよと/漁場の便り友に知らせる

「日記」
キトビロを食へば肺病直ると云う/アイヌの薬草 今試食する   
見舞客来れば気になるキトビロの/此の悪臭よ消えて無くなれ   
これだけの米ある内に此の病気/癒さなければ食ふに困るが
熊の肉俺の血となれ肉になれ/赤いフイベに塩つけて食ふ   
熊の肉は本当にうまいよ内地人/土産話に食はせたいなあ   
「小樽新聞 昭和三年六月五日」
熊とった痛快談に夜はふける熊の肉食って昔をしのぶ
「医文学」大正十五年九月一日
今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ






【住】
「北斗帖」
楽んで家に帰れば淋しさが/漲って居る貧乏な為だ
秋の夜の雨もる音に目をさまし/寝床片寄せ樽を置きけり

「日記」
あばら家に風吹き入りてごみほこり/立つ其の中に病みて寝るなり   

【寝】
「はまなすの花」
土方した肩のいたみをさすりつゝまた寝なほした今朝の雨ふり


 
管理人  ++.. 2008/08/22(金) 07:46 [360]

 
まだ、全然網羅していないですけど、こういう感じかな。
時間があるときまたページを作ろう。

【寝】ってしましたけど、けっこう寝ることに関する歌が多い。
あと、「雨」に関する歌も。

管理人  ++.. 2008/08/22(金) 07:48 [361] [引用]





 軍隊生活  [返信] [引用]
違星北斗の軍隊生活は、大正12年7月から8月の1ヶ月しかありません。

通常は、当時の兵役は2年間だったようで、それが1ヶ月やそこらで除隊になるというのは、病気や怪我のほかは、まずあり得ないと思います。

コタンの年譜にも大正十二年に「病気」とあるので、病気で除隊というのがもっとも考えられるものかと思います。

 
管理人  ++.. 2007/06/03(日) 00:20 [324]

 

 鍜治照三の「あけゆく後方羊蹄」の年譜では「病気除隊」となってますね。
 鍜治氏は余市の郷土史家で、北斗と7カ年に渡って親交を温めたという人ですから、もしかしたらそうなのかもしれないですね。

管理人  ++.. 2008/08/21(木) 00:17 [359] [引用]





 「新日本紀行・サラブレッド高原」  [返信] [引用]

NHKの「新日本紀行・サラブレッド高原」のビデオを入手。昭和44年9月の放送。

以前、この番組を書籍化した本に北斗の記述を見つけたので、テレビ番組の中でも放送されたのではないかと期待していたのですが……。

 http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_7204.html

 残念。
 ありませんでした。

 年表の方にも「紹介されたか?」と書いているので、消さなければなりませんね。

 北斗の事は、書籍化に際して追加されたものかもしれません。
 残念。

 
管理人  ++.. 2008/08/20(水) 11:11 [358]





 春の若草  [返信] [引用]
O先生より、教えて頂きました。

草風館版コタン(95年版)に掲載されている「春の若草」について。

 95年版コタンにおいては、「春の若草」は「ウタリ之友」(バチラー伝道団の機関誌)の創刊号(昭和8年1月20日)に「違星北斗氏遺稿」として掲載されていたものから採られていましたが、初出は「ウタリグス」(同じくバチラー伝道団の機関誌で、「ウタリ之友」前身にあたるもの)の1926(大正15)年8月号に掲載されていたものだそうです。

 なるほど、そう思って読んで見ると、非常に初々しく、力強く、情熱にあふれています。
 7月7日に北海道に戻ってきた北斗は、まず幌別のバチラー八重子の教会へと身を寄せ、7月半ばには平取の教会へと向かいます。
(バチラー八重子はこの時点では平取にはおらず、平取に移るのは翌昭和2年です。岡村国夫神父が教会を、岡村神父の妻で八重子の妹の千代子が幼稚園を取り仕切っていました)。
 まだ、東京から使命感に燃えて戻ってきたばかりの、多感で期待に満ちあふれていた時代の北斗です。自信と情熱に満ちた美しい言葉です。
 この後、現実的な問題にぶちあたることになります。幼稚園の金銭問題や、苛酷な労働から来る疲労、行く先々の同胞の無関心や無理解などに苦しめられるようになります。
 この「春の若草」は、東京を立つ前に書かれた「アイヌの一青年から」の直後のものであり、その一年後に書かれる「アイヌの姿」と3編続けて読むと、その思想の移り変わりがよく見えてくると思います。



 
管理人  ++.. 2008/08/18(月) 11:51 [357]





 資料再読  [返信] [引用]
北斗の全資料を再読しています。
その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。

(1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。

このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。

 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html

この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。

 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。
 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。

 
管理人  ++.. 2008/08/12(火) 13:48 [352]

 
『子供の道話』掲載の北斗から西川光次郎への手紙3通について。

 http://www.geocities.jp/bzy14554/kodomonodouwa.html

「第一信」に「昨日バチラー八重子様の家に着きました」とあることから、北斗が大正15年7月5日に東京を出て、北海道の幌別(現在の登別)に着いたのが7月7日ですから、「第一信」が書かれたのはその翌日である7月8日でしょう。

「第二信」が書かれたのは、文中に

「本日日曜でしたので子供が少数参りました、何より驚いたのは婦人の数多が来たことです、不完全な日本語を使つてゐるメノコ(女)達が神の愛に救はれてゐるのです、文字もよめない人々はいつの間にかアイヌ語ヤクの讃美歌を覚えてそして今日お祈はアイヌ語でやるのです、シヤモ(和人)もまじつてゐますけれどもアイヌのメノコのこの健気な祈をきゝまた見て只私しは驚きの外ありませんでした」

とあり、これが「日記」の7/11の記述と一致しますので、この「第二信」は同じ7/11に書かれたものでしょう。

 


管理人  ++.. 2008/08/12(火) 13:56 [353] [引用]

 
「第二信」が7/11のことだとすると、文中に「昨日白老に参りました」とありますから、北斗が白老入りしたのは、7/10のことになります。

 整理してみると、

 7/7(水) 幌別入り。
    バチラー八重子の聖公会教会に身を寄せる。 
 7/8(木) 幌別で西川光次郎へ手紙「第一信」を書く。
 7/9(金)記述なし。
 7/10(土) 白老入り。白老土人学校の山本儀三郎先生と会う。
 7/11(日) バチラー八重子の礼拝に出て感動し、
    日記と「第二信」を書く。
 7/12(月) 記述なし
 7/13(火) 記述なし
 7/14(水) (日記)平取教会の壁の塗り替え
           岡村神父と話す。
 7/15(木) (日記)平取に向井山雄来る
 
 という動きになります。

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 14:10 [354] [引用]

 
「第三信」については、書かれた日を特定できませんが、時期的には7月下旬から8月上旬ぐらいだと思います。(

 西川光次郎から「子供の道話」を20冊送ってもらい、そのうち15冊を白老土人学校の山本儀三郎に送り(礼状が届いたとのことですから、北斗自身白老に行き、山本先生に手渡ししたわけではないと思います)、あとの5冊を長知内学校に三冊、荷負小学校に一冊、当地(平取)の平村秀雄氏、同キノ子に一冊渡しています。

 この頃の北斗は多忙を極めたようです。昔話の原稿が書けない理由として、

「小生は最初の予定の如く参らず、目下生活の為労働して」「朝早くより夜遅くまで働きその余暇は雨の日と雖(いえど)も部落訪問をいたし、多忙はとても東京に居たる時より以上」「あまり多忙でとても原稿のまに合ない」

 と書いています。
 この頃の北斗がやった仕事としては、教会の補修、岡村神父の家の補修、土方の出面などが確認できます。




 

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 15:25 [355] [引用]

 
『医文学』に掲載された「アイヌの一青年より」について。
 これは北斗が東京を去る直前のT15/6/30に書かれたもので、医文学編集部への手紙でした。
 
http://www.geocities.jp/bzy14554/ainunoichiseinen.html

 草風館版コタンでは削除されているのですが、『医文学』掲載時には、冒頭に編者の長尾折三による文章がありました。

《アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝなつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくもあるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。》

 医文学では、この文章のあとに、北斗の文章が小さな字で(!)続くのですが、通して読むと、この「アイヌの一青年」という言葉が、長尾の文の中にしか登場しないということに気づきました。
 つまり、この「アイヌの一青年から」というタイトルは長尾が自分の文章(大文字)+北斗の文章(小文字)という記事全体に対して付けたものだとわかります。

 草風館版では、その一方の長尾の文章が削除されているので、あたかも北斗が自分の文章に「アイヌの一青年から」と自分でつけたようにも思えるようなことになってしまっています。 

 

管理人  ++.. 2008/08/12(火) 23:07 [356] [引用]








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