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コタンBBS

違星北斗研究会
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 ある疑念  [返信] [引用]
今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。

年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。

北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。

--------------------------------------
 四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

----------------------------------------
 この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。
 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。

 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。
 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。
 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。

 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。

 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。

 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。

 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。
 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。

 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。
 

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/08(月) 01:56 [369]

 

 
 昭和2年の4月25日と、昭和3年の4月25日。
 どちらが暴風雨だったのか。

 北海道立図書館のリファレンス係の方に聞いてみました。
 
 数日後、お返事がありました。

 北海道気象月報によると、
 昭和2年4月25日は雨はなかったそうです。
 その前の数日も雨ではなかったとのこと。

 昭和3年4月25日も雨ではなかった。
 しかし、その前の数日間は大荒れの天気だったと。

 ……ということは。

 昭和3年なのでしょうね、日記の通りで。
 
 吐血したのが、暴風雨の日で、日記に書いたのがその数日後の4月25日だったのかもしれませんね。
 

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 21:53 [422] [引用]

 
 道立図書館のリファレンス係の方、こんな面倒なことを調べていただいてありがとうございました。
管理人  ++.. 2008/11/07(金) 22:05 [423] [引用]

 

 だったら、曜日が違っているのはどうしてなんだろう?

 あるいは曜日だけ見れば、吐血したのが25日ではなく23日というのも考えられるけど。三と五を書き写し間違えた? 3と5?

 いずれにせよ、日記の現物がないと、わかりませんね。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/08(土) 02:01 [424] [引用]





 朝日新聞戦前紙面検索  [返信] [引用]

 図書館で、戦前の朝日新聞のCDROMを見てきました。

1 希望社について、こんな記事がありました。
 

 教化団「希望社」に皮肉にも争議 全社員結集して立つ」

「希望」の巧な言葉と、パンフレットとで、全国の地方男女に呼びかけ、向上欲に燃える二十萬の社友を擁し一大王国を形造つてゐる市外西大久保の希望社理事長後藤静香氏に対し、社友結束して後藤氏の不徳行為と、その待遇改善その他を掲げて今ストライキに移らんとの、穏やかならぬ形勢を示してゐる

 社主を非難する三つの理由
 古傷洗ひ立てらる


 
管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:14 [412]

 

 この3つの理由とは、

1、希望社の小間使いである17歳の少女と関係を持ち、少女が嫁いだあとも関係を続けていたという不倫行為があり、その行為を恐喝していた暴力団が検挙されたために発覚した。

2 棒給の減額したにもかかわらず、本人は豪奢な生活を送っているとして、会計の公開を迫られた

3 上記2点に対しての謝罪と引退、待遇改善をもとめたが、後藤は「この種の罪は誰人にもあることで……」云々と言い訳し、今まで偶像崇拝をしていた社員の激怒を買ったということです。

 この記事の後半には「人間味があつていゝ」の標題とともに、後藤静香の談話があります。曰く、人間にありがちな過ちであり、辞職しようとも思ったが、翻って考えると、過ちを反省して向上してゆくことに人間味もあるものだ、社員たちが自分を偶像視したのは間違いで、このような人間味があるところがわかれば一層尊敬する気にもなるだろう、
 などと空気の読めない発言をしてしまいます。

 こういうわけで、神のごとく若者たちに慕われた後藤静香の没落のカウントダウンがはじまったわけですね。


管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:35 [413] [引用]

 
先の記事が朝日新聞東京版、昭和6年9月19日夕刊

時間が前後しますが同9月19日朝刊には

「後藤氏を詰り/希望者社員の飛檄」

昭和8年4月11日夕刊2面

「希望社々長の後藤氏召喚/使途不明の金数萬円」

昭和8年4月23日夕刊2面

「後藤希望社々長/つひに収容/詐欺横領の嫌疑濃厚」

 ……という残念なことになってしまい、ついには解散します。
 
 北斗が死んでからの希望社には、ろくなことがありません。北斗が尊敬してやまなかった後藤静香です。北斗が生きていたら、どう思ったでしょうか。
 
 私は、後藤静香の書くものは非常によいと思います。 人格も憎めません。いわゆる「いい人」すぎるんですよ。そしてとても「KY」で、こういうダメな自分がもう一度立ち直るところを見てくれ、なんて言っちゃう。人を信じすぎてしまっている。不倫が見つかって、「人間味があっていい」なんて言っちゃう。
 後藤本人は、あくまでそれも含めて自分なんだ、なんて言ってるけど、彼をカリスマだ、神様だと見ていた人々は、一気にマインドコントロールが解けてしまう。

 勝手に崇拝して幻想を抱き、盛り上がったのだけれど、ある時嫌な部分を見てしまい、急に冷めて、100年の恋からさめて、逆に大嫌いになってっていう。なんだか、若い恋のようでもあるし、旬な時にはもてはやし、飽きられるとポイ捨てする現代のマスコミのようでもあるかな。

 もちろん、不倫をした後藤静香が悪いのですが。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 19:01 [414] [引用]

 
 不倫は後藤本人も認めていますが、金銭については、どうなんだろう。

 あんまり後藤が豪奢な生活をしていたというのは本当かどうかわかりません。
 確かに、急激に発展し続けた組織ですから、イケイケドンドンでやってきて、ある時を境に社友が増えなくなり、その経営が息詰まってくるというのはわかる気がする。
 希望社の雑誌を見ていると、たしかに資金繰りがまずくなって、けっこういいのか?っていうことがある。定期購読している雑誌が、いきなり予告なしに雑誌名が変わったり、取っていた雑誌が他の雑誌に変えられてたりもする。そういうところを見ると、やはり資金繰りが悪くなっていったんだろうと思う。
 
 ただ、穿った見方をすると、時代的に、こういう大きな思想団体を潰しておきたいという当局、たとえば特高なんかの思惑があったとかいうことはないだろうか? もちろん、希望社は思想的にはアカではないけれども、一人の人間を頂点にして何十万人もの人間が団結しているような組織があるのは、やっぱり当局としては看過できないのではないのか、などと考えてもしまう。
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 20:46 [415] [引用]

 
 ま、でもやはり、資金繰りに困ってと言うことなのかもしれないですね。 

 この後藤静香の事件、なんか最近の小室哲哉事件とかぶるんですよね。

 作るものは良い。人の心を打つ。
 でもって、一世を風靡する。
 いろいろと事業に手を出す。
 人気が落ちる。資金繰りに困る。
 やってはいけないことをする。
 で、こうなる、ということですね。

 なるほど。

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 15:17 [421] [引用]





 北斗はいつ短歌をはじめたか  [返信] [引用]
 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」という本も多いですが、それは間違いです。

 現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき


 現在確認できる、上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、やはりバチラー八重子の影響なのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。
 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 では、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思うようです。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。

 
コタン管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:55 [418]

 
道庁云々で思い出したのですが、「目覚めつつあるアイヌ種族」の中に、次のような所があります。

あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。

 この岡村千秋の知り合いの内務長官に送った「署名」と関係あるんでしょうか?
 この寄せ書きされた画は、写真に撮ってあったようで、伊波は「沖縄教育」の又吉康和にも焼き増しして送っているようですので、道庁にも写真を送ったのかもしれません。
 この署名が後日、ひはり句会に持って行った「『東京アイヌ学会』で知名の士から『よき書』をしてもらった記念のまくり」だと思いますので、オリジナルは北斗が持っていたということでしょうね。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:14 [419] [引用]

 
大正15年の北海道庁の内務部長は百済文輔。
直前に東京府の内務部長をしていたので、岡村千秋とも知り合いだったのかもしれません。

その後も奈良県、群馬県の知事、台湾総督府殖産局長、小倉市長などを歴任したようです。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:45 [420] [引用]





 グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた  [返信] [引用]

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている日本語の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみました。
 いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

1 河野広道の年譜の中に北斗の名前が。 

 http://books.google.co.jp/books?id=1xAEAAAAMAAJ&q=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&dq=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&lr=&num=100&as_brr=0&pgis=1

「1928年(昭和3年24歳)1月 違星北斗氏と対談する」

 これは、父親の河野常吉に、余市の違星氏より聞き取りがあり、このときの対談の内容が「アイヌの秘密数件」という記事なのですが、息子の河野広道も一緒にいたのでしょうか。もしくは、広道が取材し、常吉の名前で発表されたのかもしれません。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kounotsunekiki.htm
 

 
管理人  ++.. 2008/10/25(土) 21:01 [402]

 
で、この検索によって見つかった文書を図書館で見てきました。

上の1に続き、新発見をいくつか。

2 『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。


『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)



管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:28 [405] [引用]

 

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が出会ったアイヌ学会は3月19日なので、「一昨年の秋頃」というのは間違いでしょうね。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日
)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまうのです。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm

 
 

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:39 [406] [引用]

 
3 『大正期人物年表 大正13〜大正15・昭和1年』日外アソシエーツ

 これはいい本だ。文学者やら軍人やら、いろんな人が、何年何月ごろ何をしていたかが書いてある。
 欲しい。
 北斗に関係した金田一京助や伊波普猷も載っている。

 たとえば、伊波普猷の大正14年3月19日はこう書いてある。

伊波普猷(50歳)
 3月19、東京アイヌ学会(第2回)高橋富士見軒永楽クラブにて開催され、招待通知を受けて出席。金田一京助の「アイヌの現状」と題する講演、アイヌ青年違星滝次郎の講話を聞き感銘する。以後、数度にわたり違星、伊波を訪問し交流する。
 また、この講演座談会の模様を又吉康和あての書信の形をとり、「目覚めつつあるアイヌ種族」と題して『沖縄教育』(14年6月、146号)に発表、これまでの自己のアイヌ観を是正、アイヌ人の正しい認識を呼びかける。
 

 まあ、目新しいところはとくにないのですが、永楽クラブの場所とか、招待通知なんていうことまで書いてあってちょっと嬉しいです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:07 [407] [引用]

 
4 早川勝美に「違星北斗の歌」という文章があり、「山音」48号に掲載されているらしい。

5 『北海道文学散歩 道央編』(木原直彦)によると、向井豊明に「うた詠み」という違星北斗を取り扱った短編小説があるらしい。

 →探したら「うた読み」収録されている本がありました。
  野火書房『新文学の探究』に収録。

 さっそく読んでみました。
 おおざっぱに言いますと、主人公は北海道で教師をしているのですが、アイヌ、それも違星北斗を主題とする文学をやりたいと考えていて、そのためにも仲間を集めて文学会をつりたいと願っているところ、K党の活動家に、党に入れば仲間がたくさんできて文学会を作れるといわれて、党員になってしまう、だけれども、けっきょくそれは幻想であったと気づき、党を離れるというような筋書きです。
 北斗のことも、よく調査されて、書かれていると思いながら読んでいたのですが、それもそのはず、北斗の研究をされていた谷口正氏が協力しているようです。
 
 作者の向井豊昭氏は、昭和8年生まれですが、25年間北海道で教師をされていたそうで、この作品はその時期に書かれたもの。70年代初頭ごろかと思います。
あと、96年に四谷ラウンド文学賞を獲られて、60代で中央の文壇に登場されたという遅咲きの方です。
 残念ながら今年6月にお亡くなりになったそうです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:31 [408] [引用]

 
6 『柳田國男研究集成』に北斗の足跡が。
 
 けっこう、びっくりです。

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 (前略)
 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。
(後略)


 しまった。
 図書館の閉館時間が迫っていたので、急いでコピーしてもらったら、このページしかコピーされてなくて、これが大正14年なのか、15年なのかがわからない。

 もう一度、確かめに行かなくては。

 この沢田四郎作という人は、医学博士で、民俗学者、柳田國男の教えを受けた方ですね。

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%df%b7%c5%c4%bb%cd%cf%ba%ba%ee

 あれ、おかしいな。昭和2年に柳田に出会ったのであれば、その前年に北海道に帰った北斗とは会っていないはず。
 もしかして、ここに出てきたのは、北斗じゃない「違星」さんなのか? 

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:11 [409] [引用]

 
あとは、メモ

7 『新宿・大久保文士村界隈』という本に、希望社のことが詳しく書いてあった。

8 近代アイヌ教育制度史資料(小川正人)によると、山田伸一氏に「違星北斗伝への試み」という論文があるらしい。


それにしても……、グーグルの「ブック検索」は非常に使える。

アメリカの大学が日本語の書籍を日本語で電子化して検索可能にしてくれたおかげなのだけれど、もしこれが日本でも本格稼働したら、もう、いろいろ大変なことになるかもしれない。

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:20 [410] [引用]

 
>  「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 図書館に行って、もう一度全文を読んできました。

 結論からいうと、これは大正15年の5月27日です。

 先の引用の前に、次のような文章があります。

 十五年四月十日消印の柳田先生のおハガキを頂戴した。

 これは、結構、重要な記述です。
 ある意味大発見です。私的には。

 なぜなら、これまで北斗の東京時代のうち、大正14年の秋から大正15年の春にかけての北斗の行動の記録はみつかっていなかったのです。

 ですので、私は北斗は生活に埋没していたのか、恋愛でもして研究や勉強から離れていたのか、あるいは「国柱会」の宗教活動にハマってしまっていたのか、等々と勝手な想像をしていました。

 でも、この記述が正しいなら、金田一京助の招きでいろいろな学会に行き、勉強を続けていた
 
 北斗は大正15年も「北斗」だった。そういうことになります。
 
 それからもうひとつ。
 北斗が日本民俗学の泰斗である柳田國男とも面識があった、ということがわかります。それに「考現学」の今和次郎とも。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:00 [411] [引用]

 

 沢田四郎作は、大正15年に初めて柳田國男に手紙を書き、いろいろな会に誘われるようになったそうで、その中の一つが、北斗と出会った北方文明研究会だったようです。
 昭和2年というのは、初めて一人で柳田邸を訪ねた日だということのようです。

 この沢田四郎作などは、関西の人ですが、私の好きな民俗学者・宮本常一とも親しかったようで、こういうふうに別々の興味が、ある時ひとつにつながっていくといのが、こういった研究をすることの醍醐味のようなきがします。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 21:02 [416] [引用]

 
うん。大正15年5月27日で間違いないですね。

 柳田國男の年表でもそうなっておりますので。

 ちなみに、会に来ていて、北斗が会ったフィンランド大使ラムステッド氏は、学者としても有名な人で、宮沢賢治とも会って話をしています。フィンランドの彼の蔵書の中に宮沢賢治の本が2冊あったそうです。北斗の痕跡もないのかな。
 

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:29 [417] [引用]





 ゴーマニズム宣言  [返信] [引用]

 現在発売中の小学館のSAPIO 11/12号に掲載されている小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」において、アイヌ問題が取り上げられ、その中で違星北斗が登場しています。
 その内容について、気になる点や違和感がないわけではないですが、まだ1回目ですので、しばらく読んでから書いてみようと思っています。
 

 
管理人  ++.. 2008/10/26(日) 21:19 [404]





 永劫の象とは  [返信] [引用]

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

 長らく考えてきました。
 永劫とは?

 キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。
 それとも……

 哲学か。

 かもしれない。
 北斗は西田幾太郎の『善の研究』を読み込んでいました。
 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。

 ニーチェか。
 そうかもしれない。
 というか、よくわからない。

 永劫。永劫の象。

 本当に「象」でいいのだろうか。
 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。

 永劫の「ぞう」か?
 
 永劫の「像」? そういう像があったのか?
 「蔵」? 
 もっと、哲学的な概念的な言葉。
 「相」か?

 「永劫の相」……なんかありそう。
 検索してみると、あった。

「永劫の相」スピノザ。

 スピノザか。スピノザなのか?
 北斗はスピノザを読んでいたのか?

 本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。
 スピノザ、読んでみるか。

 
管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:21 [392]

 
ウィキペディアを流し読みしただけだけど、スピノザの「神」の考え方は、北斗に近いようだ。

《スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。》ウィキペディア

 次に、北斗と親交が深かった古田謙二の言葉。

 北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
(中略) 
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したいといい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。(古田謙二「『アイヌの歌人』について」)


 やっぱり似てる。
 北斗=西田幾太郎≒スピノザ?

 勉強勉強。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:32 [393] [引用]

 
 やっぱりそうだ。
 西田幾太郎の『善の研究』の中では、「スピノーザ」が多く言及されている。
 『善の研究』を読んだ北斗であれば、「スピノーザ」に手を伸ばしたというのは想像に難くない。
 「永劫の象」は「永劫の相」の書き間違いなのか、あるいは、北斗の手にした古い訳では「永劫の象」となっていたのかもしれない。
 北斗が入手したであろう「スピノーザ」の本を調べてみよう。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:51 [394] [引用]

 
これかな。

岩波文庫 スピノーザ 『哲学体系』

昭和2年12月15日初版発行

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w24448735

昭和2年末の発行だと、ちょっと時期的に微妙かもしれないけど、とりあえず入札してみた。
 

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:54 [395] [引用]

 
×西田幾太郎
○西田幾多郎

 勉強。勉強。

管理人  ++.. 2008/10/22(水) 00:06 [396] [引用]

 

「永劫の相」よりも「永遠の相」の方が、よく使われているみたいだ。
 永遠の相で検索するとめちゃくちゃ引っ掛かります。

「永遠の相のもとに」というような使われ方をしていることが多く、そういう題名の本もあるようだ。

 「時と永遠の相における生」
 http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Psalm90.htm

 この使われ方は、件の豊年健治君の短歌

「永劫の象に於ける生命の
 迸り出る時の嬉しさ」

 での使われ方に似ている。

 ウィキペディアにも、

 「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」

 手元に届いたスピノーザ(小尾範治訳)の「哲学体系」(エチカ)では、「理性の性質には、物を永遠の形式の下で知覚することが有る」となっている。永遠の形式。永遠のかたち。永劫の象。

 なんとなくわかるけど、まだうまく説明はできない。 

管理人  ++.. 2008/10/26(日) 00:43 [403] [引用]





 北斗からの手紙3  [返信] [引用]
さて、新発見の手紙、3通目です。
週末しか更新の時間がとれないので、なかなか先にすすめませんが、ご勘弁ください。

昭和3年6月20日の消印。
余市大川町違星北斗から杉並町成宗の金田一京助への手紙です。
この手紙は、ちょっと、扱いに困ります。内容がプライベートすぎるといいますか、梅子さんという女性についての記述や、余市コタン内での人間関係に関する記述が多いので、それらについてはおおまかな概略だけのべて、引用はしないことにします。

東京の思出が それから それへと なつかしい日です。
静かな雨が降ってゐます。北海道はお節句 と云ふので となり近所はドッシンドッシンと米を ついてゐる きねの音が平和に ひゞいてゐます。子供らのとって来た熊笹の若葉は ベコ餅 をのせたり 三角に包むにちょうどよい程 のびてゐます。雪のあるうちから 寝てゐた私は もうこんなに伸びた のに 一寸と 光陰あまりに早いのを 一寸と 妬みもしましたが すぐまた、青々生々してる熊笹を愛します。


 「お節句」というのは、五月五日の端午の節句ですね。それを昭和三年当時の余市では、旧暦の五月五日で祝っているようです。この手紙が出された六月二十日は旧暦では五月三日、旧暦五月五日は六月二十二日になります。ちょうど、節句の前の準備をしているところなんですね。
 「ベコ餅」というのは、私は近畿の人間なので知らないのですが、調べると北海道や東北地方の一部において、端午の節句で食べられる菓子で、黒白二色なのでベコ(牛)だからベコというそうです。(鼈甲がルーツという説もあるということです)。
 北斗は4月の末に喀血して病床に伏し、手紙を書いた時点で、約二か月、病床にあるという状況です。

 
管理人  ++.. 2008/10/18(土) 23:57 [385]

 
大正十四年二月末頃か三月上旬だったと思ます。私には東京と云ふ 馬の目も抜くとか云ふところへ誰一人として知ってゐる人はありませんでした。(上京したのは二月十五日 でしたが)たったひとり金田一先生とおっしゃる方が居られますと云ふことだけが かすかな よろこび でした 。それで未だお見にかゝつた事のなかった先生を尋ねたものでした。一日一っぱい同じところから そうです成宗村は殆ど戸別毎と云ひたい程さがしたが遂い夜までかゝった事と今思出しました。

 金田一の「違星青年」に描かれていたことが、北斗側の視点から語られています。「大正十四年二月末頃か三月上旬」というのは、金田一宅を訪ねたタイミングでしょう。3月12日に金田一を初めて訪問したことに対して、北斗はハガキを出していますから、3月初めなのかもしれません。
 北斗にとって、金田一を訪ねるということが、上京に際しての一つの目的であったように読めます。
 上京前に金田一のことを誰かから聞いていた、あるいはその著書に触れていたという可能性は高いと思います。
 さて、新事実としては、「上京したのは二月の十五日でしたが」という記述。これは今まで知られていなかったことです。『自働道話』の西川文子の記事で、2月18日よい以前に上京していることはわかっていたのですが、はっきりとした日付はわかりませんでした。
 しかし、この書き方では、2月15日余市発なのか、東京着なのかというのがどちらともとれる気がします。ただし、15日余市発だと、17日東京着、18日に校正終えた西川文子を手伝ったとするには、あまりに時間に余裕がない気がします。やはり素直に東京に着いたのが2月15日と考えるべきでしょうね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:31 [386] [引用]

 
 それから ずいぶん 根気よく あちらこちらを歩き回ったこと も忘れられません。本当に自分が感心する程 根気よかったものでした。手紙狂とそれがら名志狂と云ふ あだ名さへ所有したものでした。御勉強中を幾度かお邪ましたこともありました。私は これでは先生方に ご迷惑かけるからいけない と 気がつきながらも、私は まるで 不思儀な物のけに つかれたやうに訪門したことを忘れられません。
私はアイヌの為に少しでも良い宣伝したい願もあったし アイヌの在りのまゝで 悪い事は無かった事に消してしまほうと企てゝゐましたこと 等もありました。私を一度毎に大きなものを みせて下したのは、あなた様でした。私を外形的思想から求って くれたのも 先生でした。私は先生を思出度 、先生の思を感謝してゐます。


 北斗は「手紙狂」とか「名志狂」というあだ名を所有していたとあります。手紙狂はよくわかります。北斗は本当に筆まめです。
 では「名志狂」は?
 これは「名刺」かもしれないと思いましたが、やはり「名士」でしょうね。確かに名士たちと進んで交わっていました。金田一京助、伊波普猷、中山太郎、松宮春一郎、山中峯太郎、後藤静香等々。
 北斗は仕事の合間をぬって、あるいは休みのたびに、本当に東京じゅうのあちこちを歩き回ったのでしょう。
 北斗は本当に、金田一京助のことを敬愛し、感謝していたことがうかがえる文面です。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 00:50 [387] [引用]

 
 ここからしばらく、梅子という女性の話になります。かいつまんで話すと、梅子と波子というウタリの女性の上京を北斗が世話し、金田一や松宮や、バチラー八重子に協力してもらい、上京が叶った。
 北斗は彼女らに期待し、東京で、ともにアイヌの未来のために働いてくれるものと思っていたのですが、結局東京で和人と結婚してしまい、北斗は失望した、というような事件があったようです。
 それは、北斗にとっては許せないことだったんですね。この女性は、北斗の恩師たちの力をわずらわせて上京を世話されたのにもかかわらず、よりによって、北斗が一番嫌いな、アイヌであることから逃げ、和人に化けるということをやってしまったわけですから。
 しかし、金田一も八重子も、逆に祝福したようです。それは大人だからなのかもしれませんし、あるいは北斗のようなこだわりがないからかもしれませんが。
  
 「違星君の平取入村当時の思い出」という著者不明の文章に、北斗がアイヌの「純血」にこだわった、という記述がありましたが、案外、この事件なんかが影をおとしているのかもしれませんね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:18 [388] [引用]

 
なんとさびしい事ではありまあせんか。淋しさを知らない人がシャモになるのでせう 。そしてそれが、そを云ふ人の幸福でせう。
学問のある人、金のある人、秀でたる人から先をあらそふてシャモになるし優生学 的にとり残された劣等アイヌだけ票(ママ)本となるかと思ふと残念です。然しシャモになるの急なる理由もあるが、どうでもよい。正しい者がやっぱり正しい。アイヌは亡びてしまってもあったまゝの事跡はやがて残されることでせう。


 このあたりの北斗の思想は、「アイヌの姿」に通じるものありますね。

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:30 [389] [引用]

 
 さて、今度は各地のコタンをめぐったことに関しての記述です。

先般、ムカワのチン部落に立よった事もありました 。(中略)只一つ私の嬉しかったことは ムカワ村の或る氏族は昔々余市コタンから来たものである 、と云ふ色々私の興味ある研究材料を話してくれました。大そうやさしい方でした。

 鵡川のチンといえば、辺泥和郎のコタンです。この時、辺泥和郎と会った可能性はあるかもしれませんね。

 北海道へ来て(本当にあこがれの地で)私を受け入れてくれるアイヌはなかった ことを淋しがったものでした。然るに今、三年の後になって やっと私を信じてくれる人と会ました。浦川方面のアイヌは心から私を信てくれます。四五日中わざ/\私に会に来る青年も出来ました。なんと云ふ有がたい事でせう。

 本当のあこがれの地とは、平取でしょう。日記など他の文献にもありますが、平取では冷遇されたようです。
 浦河から訪ねてきてくれた青年とは、浦川太郎吉かもしれません。また、北斗は浦河にはよく行っていたようです。(これは浦川太郎吉のお孫さんからお聞きした話です)。
 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:39 [390] [引用]

 
 病気についても語っています。

只残念なことには、私の病気してゐることです。去年の腐敗性キカン が たゞって今年は右の肺炎で寝てしまふ。なんだか死につゝあるやうに心ろさびしくて、そして今のうちに知ってゐる人に御礼の手紙でも出して置きたい様な気がします。思い残すことは何もありませんが。もう一度健康になって今までの目的を少しでも達したいことです。そしてまた永い間の仮面を叩きこわして正味の違星を諸先生の前に晒して虚栄の罪 を詫びたいと思います。イゝ決して死にはしません。が この頃 そんな事ばかり頭の中を支配してゐるのです。

 「去年」(昭和2年)の病気は「腐敗性キカン」、腐敗性気管支炎でしょうか。「今年」(昭和3年)の病気は「右の肺炎」となっています。いずれも4月の発病です。両年とも、鰊漁をした後に発病しています。
 北斗は再起を夢見、「決して死にはしません」と言っていますが、このまま悪くなって亡くなってしまいます。

 

管理人  ++.. 2008/10/19(日) 01:42 [391] [引用]

 
 二三日前に松宮先生からお手紙来て嬉しかった。岡村千秋先生 が、金田一先生を訪問した時、私の「はがき」が来てあったなどゝ書いてゐました。私の病気してゐるのを岡村先生からお聞きしたのかも知れません。すぐに返事を差上げましたが やっぱり 淋しい心持が はなれません為め ろくなことを書かなかっ(ママ)と思ってゐます。
 (中略)病気ばかりしてえゐて あまり見込もない私はこれ以上名志も学者も知らなくてもよいと思います。又た失礼だとは知り乍ら誰にも手紙を出した事ありません。悪るいんだとは思ますが (且つては手紙狂であったのですけど)幾分か虚栄から遠ざかり得るやうにも存ます。これからも手紙は出す元気は予定されてゐません。


 北斗は、病気になり、かなりネガティブになっています。かつての社交的で意欲的であった自分、貪欲にいろいろな人と交わり、手紙をやりとりした自分のことを「虚栄」と呼びます。
 松宮春一郎への手紙にも、同様の淋しい心持ちが記されていたのかもしれません。今、この手紙で金田一に弱音を吐いたように。
 松宮春一郎は北斗に山中峯太郎や永尾折三を紹介した人物。世界聖典全集などを出版したらしい。北斗とは金田一京助を介して出会ったのだとおもわれます。柳田国夫や折口信夫、中山太郎などの民俗学者にも顔がきいたようですが、どうやら西川文子(光次郎とも?)とも知り合いであったようです。
 http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20081019/p1
 このサイトを読むと、松宮春一郎の広すぎる人脈に驚かされます。

 岡村千秋は郷土出版社「爐端叢書」の編者。爐端叢書は「アイヌ神謡集」を出した叢書です。

 この金田一、岡村、松宮あたりは、「東京アイヌ学会」のつながりでしょう。
 



 

管理人  ++.. 2008/10/23(木) 23:38 [397] [引用]

 
 さて、ここからも概略にします。

 北斗は、余市コタンの実力者で、金田一もよく知る人物について書きます。
 北斗はこの人物から、ずいぶんときつくあたられたといい、それが自分を伸ばしてもくれたが、心から尊敬することはできなかった、と言います。
 また、その人物の息子のことを、北斗は親友として見ていましたが、その息子もまた、北斗の陰口をたたいているということを知ってしまいます。
 その実力者があまりに北斗を面罵するため、北斗はその人物を避けていましたが、そのうちに彼は死んでしまいます。
 北斗は彼のことを同族のために働いた違人だと思っていましたが、彼が同族の互助組織のお金を食いつぶし、そのために同族の生活が困窮してしまったといいます。
  
 さて、ここに書いてあることがどこまで本当なのかはわかりません。北斗は病床にあり、とても不安定です。
、疑心暗鬼にもなっているでしょう。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:27 [398] [引用]

 
 そして、その時立ち上がったのが、北斗の兄・梅太郎でした。
 最初、兄梅太郎は、北斗が金を稼がず、アイヌ復権の活動ばかりしているので、北斗に対して冷たい態度をとっていました。ところが、組織のお金の整理のために走り回り、各地で自分の弟が有名になっていることを知り、それからは北斗のことを見直したといいます。
 北斗は、兄について
 
 此の頃は本当によい兄となりました 。二十八年、私は本当に兄弟の様な気を初めて致しました。然し遅かった。三年前 だったら本当に……

 といっています。
 「三年前」とは、この手紙が書かれたのが昭和三年」ですから、三年前だと大正14年。上京前のことでしょうか。なにか含みがありそうな気がします。
 

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:31 [399] [引用]

 
なんぼ書いても足りません。三銭でいけなくなりますからこれで失礼いたします。
六月二十日
                    違星北斗  
金田一京助先生

東京へ十日ばかりの旅したいと考いてゐました。十月頃一度上京しやうと予定しましたが 病気してから しっかり 心ろ 小さくなりました。
私はきっと達者になります!! 此の上は静かに時の来るのを待ってゐます。


 これで、この手紙は終りです。
 現在見つかっている北斗の手紙としては、最後のものになります。
 
 結局、北斗はこの手紙を出してから8か月後にこの世を去ります。再び上京したいという夢も叶いませんでした。

 北斗は憧れの地、平取コタンでも受け入れられず、本当かどうかわかりませんが、よりによって父祖伝来の家紋をルーツに持つ違星姓を、「イポカシ」(「醜い」の意)と心ない同族から馬鹿にされた、という話も聞きます。
 どれほど失望したことかわかりませんが、それでも同族のために戦い続けます。

 失意とともに平取を辞して、舞い戻った故郷・余市コタンもまた、この手紙に書かれているように、決して住みよい場所ではありませんでした。
 それでも、北斗は兄・梅太郎という心強い味方を得たことは、大きな救いであったと思います。
 当初、そりの合わない兄であった梅太郎は、病に倒れた北斗を最後まで面倒を見させ、死後も北斗の活動を継承してリンゴ農園をつくり、これに「北斗農園」と名付けています。

管理人  ++.. 2008/10/24(金) 00:59 [400] [引用]

 
 「力ある兄の言葉に励まされ 涙に脆い父と別るる」

 この短歌も、そういう経緯を考えて読めば、違った意味が見えてきます。


管理人  ++.. 2008/10/24(金) 08:41 [401] [引用]





 その時歴史が動いた「知里幸恵」  [返信] [引用]

 10月15日、NHK総合の「その時、歴史が動いた」で、「知里幸恵」が取り上げられ、その中で、少しだけだと思いますが、違星北斗が紹介されます。
 (たぶん)
 だいぶ前に、NHKの方から問い合わせがあり、すこし
協力しました。
 北斗が、どういう紹介のされ方をするのかはわかりませんが、NHKのこういう番組で、全国に違星北斗のことが知られることになるのはうれしいことです。

 みなさんも、ぜひご覧ください。

 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html
第340回
神々のうた 大地にふたたび
〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜
平成20年10月15日 (水) 22:00〜22:43 総合

<再放送>
本放送の翌週(月) 午後5:15〜 BS-2 全国
本放送の翌週(火) 午前3:30〜 総合 全国 (近畿のぞく)
本放送の翌週(火) 午後4:05〜 総合 全国
本放送の翌週(土) 午前10:05〜 総合(近畿ブロック)

 
 


 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html

 
管理人  ++.. 2008/09/13(土) 11:18 [370]

 
 見ました。
 北斗の名前と写真が、一瞬だけ出ましたね。

 あれだけの露出でも、このサイトのカウンターがウソみたいにハネ上がっていました。これが、TVの力なんですね。

 この番組のリサーチの段階では、スタッフは昭和2年のガリ版同人誌の「コタン」(北斗が中里凸天と二人で作った小冊子)の実物を探していたのですが、結局みつかりませんでした。古書店に売りに出ていたので、実在していることは確かなのですが。
 もしそれが見つかっていたら、もう少し北斗の扱いが大きくなっていたのかもしれません。

 内容的には、まあいろいろとご意見も出てくるとは思いますし、個人的にもいろいろ突っ込みどころはありましたが、多くの人に興味をもってもらえたという意味では、非常によかったのではないかと思います。

管理人  ++.. 2008/10/16(木) 00:41 [384] [引用]





 北斗からの手紙2  [返信] [引用]
 さて、2通目の手紙です。

 宛先は「東京市外阿佐ヶ谷町大字成宗三三二
金田一京助先生」、封筒に書かれた日付は大正15年7月8日、差出人は「北海道室蘭線ホロベツ バチラー方 違星滝次郎」とあります。
 
 北斗は大正15年7月5日夜に東京を発ち、7月7日に北海道の幌別に到着しています。その翌日に書かれた手紙です。
 
 これを見ると、北斗は帰道直後、バチラー八重子のいる幌別(現・登別)の聖公会の教会に寄宿したことがわかります。

 
管理人  ++.. 2008/09/27(土) 17:15 [374]

 
ちょっと本文を引用してみます。

 拝啓 東京に居りました一年と六ヶ月 その間先生におそはることの多かったことを忘れがたい事と感謝してゐます。自分は何かなにやら もう 煩から悶への苦しみでしたが 先生にこの自分を さらけだして 自分の求めるものを得やうとしたのでした。今考いてみても 本当に先生の御勉強をどんなにか さまだけた事か 又は おいそがしい所を、自分勝手からどんなにか先生のご迷惑をおかけしたことでせう。 私しは 又とない機会なのでしたからどんなにか 愉快に どんなにか おたよりしたことでありました。
 

 北斗は金田一京助のもとに足しげくかよい、また頻繁に手紙を出していたことがわかります。

 さて あの日はもう五分で、あの汽車に遅る所でありました程、時間も かっきり 上野に参りました。  額田君と二人で飛ぶ様に三等に飛び込みました。

 北斗が、上野からの汽車に乗り遅れそうになったというのは、「自動道話」に掲載された北斗の手紙にもありますね。
 額田君と二人で客車に飛び込んだというのは、どういうことかわかりませんが、額田が北斗と一緒に来たということかもしれませんね。「自動道話」には額田は見送りとして名前が出ているので、北斗の荷物を持って入り、そのままホームで見送ったのでしょうか。

 (略)高見沢様の奥様と、奥様をみつけたら高見沢様もそこに居られました。うれしくて/\涙が、ヲヤヲヤ僕の道楽なんでしから 手紙にまで泣いたことを報告します。

 高見沢夫妻が見送りに来てくれたことに感動して、泣きます。
 北斗は本当に感動屋で、小さな出来事にも感動して涙を流します。北斗自身は、その性分を「道楽」と呼んでいるんですね。
 感動屋で、涙を流すことが「道楽」という横顔が見えてきました。なかなか、興味深いというか……親しみ深く、愛おしく感じます。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:08 [375] [引用]

 
 青森もぶらついたり 室蘭も初めてみたり、また幌別にも寄った事は、嬉しいことです。ここは三百戸ばかり そしてウタリは三十戸ばかりあります。

 北斗が青森をぶらついたというのは、初見ですね。
 まあ、そうでしょうね。津軽海峡は青函連絡船に乗ることになるので、それを待つ時間が何時間かできるわけです。
 室蘭は「見た」といっているので、通っただけかもしれません。北斗は胆振方面に来たのは初めてだと思いますので、室蘭の工業地帯を車窓から見て驚いたのかもしれません。
 幌別の戸数やウタリの戸数については、自動道話にも同様の記述があります。

 (略)知里幸枝さんの弟さんの直志保さんにも会ました 。豊年君もよい青年でした。 

 この知里幸枝さんはもちろん「知里幸恵」のこと。直志保は真志保のことです。
 北斗は、幌別に着いた次の日には、知里家を訪ねているんですね。
 興味深いのは「豊年君」です。日記に出てくる「豊年健治」のことで間違いないでしょう。
 北斗は昭和3年2月末に幌別を訪れますが、「親しい友」が死んでいることにショックを受けます。彼は豊年健治の墓に参り、2年前の夏のことを偲んで短歌を詠みます。
 この豊年君とは、どういう人物でいつごろで会ったのかが、はっきりとはわかっていませんでしたが、幌別に着いた直後に会ったのだということが判明しました。

管理人  ++.. 2008/09/27(土) 18:40 [376] [引用]

 
八重様は どう思ってゐるかは不明です。けれどもあの手紙 の心もちと ちっとも変わってゐない様です。とにかく 私しを アイヌの信仰の 持ってゐる家に お世話して下さる との事です


 「あの手紙」とあるように、東京時代に北斗はバチラー八重子とは、何度かの文通をしていました。
 北斗は、実際に八重子に会ってみて、また話してみて、意見があわなかったのかもしれません。
 北斗は、八重子にアイヌの信仰を持っている家庭を紹介してくれるよう(これは「平取で」ということでしょう)に頼みます。

 八重様は まだ僕の心根は わかって下さらない様です。けれども僕を愛して下さることは まるでお母様の様です 。私しはこのお母様の様な八重様を どうかして 嬉しがらせたいと 存ます。あまり 失望も さしたくないと思ってゐます。それはあんまり罪深いと思ひますから。

 まず、ちょっと驚きました。北斗が「僕」という一人称を使っていること。まあ、当たり前ですが、これまでのものが「私」と「俺」しかなかったので。

 もうひとつ、そして八重子のことを「お母様」に譬えていうことです。北斗は早くに母を亡くしていますので、18歳年上の八重子の中に母を見てしまうのはいかにもありそうなことだと思います。日記の中では「ヤエ姉様」となっていましたが、北斗の中ではお母様のように思い、思慕しているということだと思います。

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:11 [377] [引用]

 
 北斗が漠然と感じている八重子との微妙な距離感。
 八重子から慈愛を感じ、北斗も八重子を母のように敬愛していますが、その二人の間には、思想上の大きな隔たりがあります。
 その信条の違いは、二人のこれまでの生い立ちからくるものだと思います。二人ともアイヌの将来を憂い、なんとかしなければならない考えていますが、そn二人の間にも見えない溝があります。
 それは世代や性別、性格、生い立ち、受けた教育など、大小さまざまな違いからくる考え方の違いがあり、それが彼らの間にあるのだと思います。それが北斗の八重子に対する不安の原因なのでしょう。
 お互いに慈しみあい、尊敬しあう二人ではあるけれども、その溝は、その後の平取での活動を通じて、より大きなものとなり、決して越えることのできない決定的なものとなってゆきます。

 その思想、信条の違いについて、北斗は次のように語ります。

 (略)神は私しを救ほふが殺そうが、私しは神なんか(助けるタノマレル神)は問題でない、との信仰は、只、私の良心を本尊として進みます。 私しの信仰は やがて ヤエ様にも 放される信仰であるかもしれない 若しやそんなことがあったって 神をもタノマナイ私しは人間を どの程度までタノンでよいでせう。若し私しは孤立することがあったって、私しは、驚くまい、と思ってゐます (略)私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。 

 クリスチャンである八重子と、神をも頼まないと宣言する北斗。
 北斗は決して無神論者というわけではないし、宗教も否定しません。東京では日蓮系の新宗教である国柱会に通ったりしていたのですが、それと影響しているのかしていないのかわかりませんが、北斗のクリスチャンに対する視線は冷徹なところがあります。

 北斗は神の存在は否定はしないけれども、ただ羊のように神に頼り、すがりつくのを良しとせず、自らの信念を「本尊」にして進まなければならないと考えています。
 のちに北斗は吉田はな子に「キリスト教では同族は救えない」と言い放ちますが、すでにこのころから、そういう考えを抱いていることがわかります。
 
 

管理人  ++.. 2008/09/28(日) 00:22 [378] [引用]

 
僕のぢ病 も どうも 都合の悪るいものだ これでは 家に立ち寄って そして適当な療治するのが本当だと思ったが、なあーに まかりまちがったて、死程のこともあるまい(中略)然し、大事にはするよ、私しの理想は遠いのですもの
 
 ここでいう「ぢ病」は「持病」ですね。ガッチャキ(痔)ではありません。東京の生活は経済的に安定していたため、活力に満ちているような気もしますが、かといって、完治したわけではないようです。東京時代も北斗は「持病」の発病に悩まされていたのかもしれません。山中峯太郎に会った時、顔が黒いと表現されていますが、もしかしたら、それも病気のせいなのかもしれませんね。

 北斗が、なぜ郷里に余市に帰らず、「いの一番」に幌別に向かったのか不思議に思いましたが、明確な意図があったことが、これでわかります。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 00:50 [379] [引用]

 
また 父も兄も ゐるのだし 私しは父よりも兄よりも 亡き母や それから 私しを愛して下した、石亀石五郎爺や の霊をなぐさめ、姉 の霊をなぐさめるうへに於ても 私しは私しを鞭撻して私しの良心に進まなければなりません、と思ってゐます。

 この石亀さんについては誰かわかりません。
 姉については、北斗の八つ年上の長姉と、北斗の生まれる六年前に生まれ、三歳で死んだ次姉がいますが、ここでいう姉は長姉のことだと思います。この姉は、十五歳の時にはまだ生きているので、亡くなったのはそれ以降でしょう。

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:44 [380] [引用]

 
 あんまり引用ばかりすると、よくないとは思いますが……この手紙自体が、北斗の思想の塊だと思うので、引用をせざるを得ないですね。
 次はこの当時の北斗の思想そのもの、ともいうべき文です。ちょっと長いですが引用します。(適宜改行を入れています)。


波の音が、のんきそうに また痛快に ひゞいて来ます。
 裏の鉄道の信号が ガチャンと ひゞくと程なくして汽車がドヾ……とやって来ます。浜には浜なしの花が香よく咲いてゐます  
 この家にゐても 波の音が涼そうに 聞いて来ます。この波の音だって太平洋のかなたより送られて来るんだと思と音の一つ一つが 自然の造り出だされた約束なんでせう。
 この浪の音で思ひ出しました 私し共は常にこの浪の音だけ聞いてゐます (略)けれども音は結果であって初めではない。結果だけで まんぞくして来て なれてゐます。この結果になれてゐることが どうも わからないことです。
 私しはアイヌに生れました。これは どこからか約束されて来た結果です。この結果が運命と云ふもだらうと今思ってゐます。結果は私しのあずかり知ることのない勝手な運命であって 生れ乍らにして、約束の責任のない責任を負ふてゐます。
 それは幸不幸の問題ではなく「動いて行く」と云ふ運命を負されてゐます。罪なくして罪を負されてゐる人間が世の中に沢山あることです。と 又、同時に誉なくして誉を負はされてゐる人間もありますと思ます。
 その人の努力なくして負ふてゐる結果だけ、見つめてみると問題はないんです。然し運命を(私しは運命は凡て私し共の感すてゐるのは結果だけのことを名さしてゐるのではないかと思ます)少し深く考いてみて初めて人間とつかんだやうな気がいたします。
 こんな考はこの文だけでは不完全でせう どうせ私しの考は正しくないのかも 知れません。けれども 私しは この考は 自分を卑下するところから思索をめぐらしたに外なりません。私のすべての出発は自己差別なんです。私しはアイヌをより克く見やうと負け惜みから進めて行くことが自分乍ら哀れです。
 小さな者相手の小さな仕事です。と気が附いてゐながら骨のずいまで浸み込んでゐる私しのうらみは これだけの理性をも きくことが出来ないでゐるらしいと 自分を解ボーしてみます
 そこでアイヌを礼賛も正しくないであらう。よしんば礼賛するべきなにものがあったって 負け惜しみて 云ふ感情を入れては正しいものが見えないであらう。卑下もやめました 礼讃もやめました。やっぱり私しは先生達のお小使いが一番私としての尊いことであることを思ます


 さて。これをどう読むべきなのか。まだ読み足りません。しばらく時間をください。
 
 

管理人  ++.. 2008/10/05(日) 23:58 [381] [引用]

 
とりあえず、先に進みます。

今日も昨夜も八重様と色々な思想的な問題を語り 私しはとても愉快でした。この二三日中に平取りに参ることになることでせう。 どんな家に入られるかヾ今からそこの家を想象してゐます 何せよ第一番にアイヌ語を習らふことが先ですからこゝ二年くらいは何んにも出来ないのではないかしら。

 北斗は数日中に平取入りし、バチラー八重子が紹介してくれたアイヌ文化を保持している家庭に入るということでしょう。これが、「違星君の平取入村時代の思い出」(筆者不明)に出てくる、「忠郎」氏の家なのかもしれません。(忠郎氏の自宅は茅葺の大きな家だったとあります)。
 北斗はこの家でアイヌ語を習うつもりだったようですが、はたしてどの程度腰をおちつけて習うことができたのかわかりません。
 後述の北斗の昭和3年の手紙や、日記などの記述では、平取は北斗にとっては居心地のいい場所ではなかったようです。

 

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:00 [382] [引用]

 
今この聖公会(バチラー宅)に***の娘と(十六七才)その父母(五十前後の人が)居ります 気の毒な人をお世話するのが この八重様の持ってゐる性分なんでせう。その外 茶畑さんと云ふ青年(二十五六)が居ります これは 少し替りやの様で 元 ウシ の土人学校の先生をしたとか て 八重様が申してゐました。なか/\面白い青年で話せます その青年とまるで議論の様に話してゐるので この教会にゐるのも 愉快です。八重様はこの青年客人と僕と外に気の毒な人々のお世話で多忙をきはめてゐます。何か ひま/\に書いてゐる様子です
 金田一先生にお会したら さぞお話が 面白いことだらうと口くせに話してゐます。梅子さん のことも大そうよろこんでゐます。先生からのお手紙を何べんも何べんも読んではくり返してニコ/\してゐます。
デハ これで失礼いたします


 ということで、この手紙は終りです。
 ***と伏字にしたのは病名です。
 茶畑さんの部分は、当時の幌別聖公会の現状、雰囲気がよく出ていると思います。
 梅子さんとは、北斗が東京時代に上京の世話をしたウタリの女性だということです。(次の手紙で明らかになります)。

管理人  ++.. 2008/10/11(土) 13:25 [383] [引用]





 北斗からの手紙1  [返信] [引用]
 北斗の手紙について、分析してみたいと思います。

 
 まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。

 宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
 成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
 金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。

 一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
 その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
 淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
 北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。

 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on

 現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
 
 まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
 ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。

 いい地図がありました。
 http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm

 この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
 そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。


 ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。

 次は内容に入っていきます。

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/20(土) 01:31 [371]

 
 西川光次郎の手紙でもそうですが、北斗はまだ親しくなっていない頃には非常に慇懃で角張った候文を書くようです。

 拝啓 先日は突前参上致し種々御厚情接し殊に有難く厚く御礼申し上げ候
戴きました「アイヌ研究」 は除に拝読致し居り候


 といったぐあいです。
 金田一の「違星青年」に描かれているように、北斗は、金田一の元に、本当に突然参上しました。
 それも夜です。一日中、成宗の家を一軒一軒まわって、田んぼにはまって、泥だらけになって。北斗のいきあたりばったりの、愛すべき無鉄砲さがよく出ていると思います。
 北斗は、最初の訪問の際、金田一の「アイヌ研究」という本を金田一から受け取ったようです。(このハガキの時点では、まだ北斗は知里幸恵の「アイヌ神謡集」を手に入れていないようです)。
 そして、「アイヌ研究」を読み、感動します。

我等民族の為めに熱誠な同情なして下した先生を私しは 神様として感謝いたさねばなりません 私しはアイヌを斯くまで深遠な研究は誰れも為して ゐないものとのみ思い居り候

 これはまた、「神様」とはオーバーなように見えますが、それほど感動したということなのでしょうか。
 
 


 

管理人  ++.. 2008/09/20(土) 02:08 [372] [引用]

 
(中略)
 来る十五日は(日曜日)また御伺い申したくと存じ居候*前以って御通知申し上げ候(午后からになるやも知れませんが)


 今度は15日の日曜日に行きます、と言う予告ですね。この調子で金田一の元にまめに通い詰めたのでしょう。
 堅苦しい挨拶で、このハガキは終わりです。

 餘は御拝顔の上万々申し上げたく候 草々 不乙 

管理人  ++.. 2008/09/20(土) 02:20 [373] [引用]








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