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コタンBBS

違星北斗研究会
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 ヤフー百科事典  [返信] [引用]
Yahooが百科事典サービスを開始。
違星北斗の項目もあり。
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違星北斗(いぼしほくと) (1902―29)

歌人。本名滝次郎。北海道後志(しりべし)支庁余市(よいち)町の生まれ。祖父万次郎は、1872年(明治5)、東京に開かれた開拓使仮学校に選ばれて生徒として派遣されたアイヌの一人。北斗は小学校卒業後、造材人夫をしながら歌を詠み、さらに自らもアイヌ研究を志し、上京して金田一(きんだいち)京助に会ったこともある。1927年(昭和2)には、日高支庁平取(びらとり)町の聖公会の幼稚園でバチェラー・八重子の仕事に協力する一方、売薬行商をしながらアイヌに対する差別を告発する歌をつくる。遺稿集『コタン』(1930)には、北斗のアイヌとしての怨念(おんねん)がにじんでいる。

アイヌとして生きて死にたい願もてアイヌ絵を描く淋(さび)しい心

[執筆者:藤本英夫]

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http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%95%E6%98%9F%E5%8C%97%E6%96%97/

日本大百科全書(小学館)を底本としており、執筆者は故・藤本英夫先生。

情報としては、目新しいところはありません。


 
管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:39 [437]

 
「怨念」か。

 北斗は怨念とかルサンチマンとかからは遠い気がするけれども、北斗の病中書簡を持っておられた藤本先生が書かれているので、一回りしてやはり「怨念」なのかもしれない。



管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:42 [438] [引用]

 
 逆に言うと、私は活字になっている北斗の遺稿集のテキストの中には「怨念」は感じられない。上山草人の読んだ日記原本にあった「歪んだ」考えは、遺稿集の編者によってカットされている。

 藤本先生は、病中書簡にある北斗の「怨み節」をご存じなので、こういう読み方をし、こういう書き方になったのではないでしょうか。推測ですが。

管理人  ++.. 2008/12/16(火) 18:40 [439] [引用]





 覚え書き  [返信] [引用]
朝日新聞CD-ROMより

・松宮春一郎、1933(昭和8)6月18年没。59歳。
 肩書きは中央大学事務部長となっている。

逆算すれば明治7年ぐらいの生まれか。
北斗より27歳ぐらい年上。
北斗が出会った松宮は、出版人だったけど、ここでは大学の役員のようになっている。本当に北斗の出会った松宮と同一人物だろうか。

・高見沢清、1932(昭和7)年3月9日没。56歳。

東京府市場協会の役員で、北斗の上京を世話し、公私ともに面倒を見た人も、意外と早く亡くなっている。

『北海道文学散歩II』によれば、

「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌」という文章があるらしい。読みたい。

 
管理人  ++.. 2008/11/23(日) 00:54 [429]

 
「山音」は道立図書館にあり。

管理人  ++.. 2008/11/23(日) 01:01 [430] [引用]





 地元の人はまだまだ北斗を知らないけれど・・・  [返信] [引用]
先日実家の余市町で余市町主催の読書体験コンクール一般の部で地元の男性が違星北斗「悲痛な叫び」という作品で最優秀だったということで、両親に頼んで授賞式に行ってもらいました。(何か北斗の話が聞けるかな?と思い)ついでに私は千葉在住なもので父が役場関係者に聞いて、資料を探してもらい、三冊送ってもらいました。その中にアイヌの歌人、コタン(84年遺稿)北方文芸があったのです。余市図書館(私は千葉在住なもので)の蔵書です。2年前にも帰省した際に北斗の墓参りにいったのですが、郷土史家の方に案内されたがわからず、とても残念でした。また来年帰省したとき、フゴッペ洞窟の資料も合わせて調べたいとおもいます。
 
chopper  ++.. 2008/11/18(火) 16:19 [427]

 
 chopperさん、こんばんわ。
 コンクールでについては、全然知りませんでした。
 読んでみたいですね。
 北方文芸に関しては、1月に余市図書館に行って確認してみたいと思います。

 郷土史家の方、Aさんですね。
 私もAさんに聞いたら「わからなかった」と言われて、レンタルサイクルに乗って一人で探しに行ったんですよ。
 それで、墓地(小さな山が墓地になっています)があったんで「ここかな?」って思って10分ぐらいうろうろしていたら、違星家のお墓を偶然みつけてしまったんです。

 ただ、なぜか北斗の「滝次郎」という名前が墓石には刻まれていなかったんで、もしかしたら他に北斗の入った墓があるのかもしれませんが……。
 
 1月にはこのお墓に参りたいと思います。

 関西人なので、北海道の雪を未体験なので、とても心配ですが。

 北斗が論文を書いたフゴッペの古代文字は、今は消えてしまっていますが、洞窟の裏の線路際の壁がそうだと思います。 

管理人  ++.. 2008/11/20(木) 18:29 [428] [引用]





 はじめまして  [返信] [引用]
北方文芸10月号(昭和45年9に近代アイヌ文学三人集で北斗を知りました。最近ではhttp://www.yukai.jp/~eddy/homepage/haiku/index.html にも北斗を見つけ感激しています。いつも拝見させていただいてます。
 
chopper  ++.. 2008/11/17(月) 18:32 [425]

 
chopper様

 いつもご覧頂いてありがとうございます。

 北方文芸10月号にも北斗のことが掲載されているのですね。図書館で探してみたいと思います。
 リンク先の方は、北斗の短歌を英訳されておられますね。とても興味深いです。
 今後ともよろしくおねがいいたします。

管理  ++.. 2008/11/18(火) 09:05 [426] [引用]





 ある疑念  [返信] [引用]
今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。

年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。

北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。

--------------------------------------
 四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

----------------------------------------
 この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。
 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。

 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。
 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。
 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。

 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。

 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。

 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。

 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。
 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。

 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。
 

 
コタン管理人  ++.. 2008/09/08(月) 01:56 [369]

 

 
 昭和2年の4月25日と、昭和3年の4月25日。
 どちらが暴風雨だったのか。

 北海道立図書館のリファレンス係の方に聞いてみました。
 
 数日後、お返事がありました。

 北海道気象月報によると、
 昭和2年4月25日は雨はなかったそうです。
 その前の数日も雨ではなかったとのこと。

 昭和3年4月25日も雨ではなかった。
 しかし、その前の数日間は大荒れの天気だったと。

 ……ということは。

 昭和3年なのでしょうね、日記の通りで。
 
 吐血したのが、暴風雨の日で、日記に書いたのがその数日後の4月25日だったのかもしれませんね。
 

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 21:53 [422] [引用]

 
 道立図書館のリファレンス係の方、こんな面倒なことを調べていただいてありがとうございました。
管理人  ++.. 2008/11/07(金) 22:05 [423] [引用]

 

 だったら、曜日が違っているのはどうしてなんだろう?

 あるいは曜日だけ見れば、吐血したのが25日ではなく23日というのも考えられるけど。三と五を書き写し間違えた? 3と5?

 いずれにせよ、日記の現物がないと、わかりませんね。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/08(土) 02:01 [424] [引用]





 朝日新聞戦前紙面検索  [返信] [引用]

 図書館で、戦前の朝日新聞のCDROMを見てきました。

1 希望社について、こんな記事がありました。
 

 教化団「希望社」に皮肉にも争議 全社員結集して立つ」

「希望」の巧な言葉と、パンフレットとで、全国の地方男女に呼びかけ、向上欲に燃える二十萬の社友を擁し一大王国を形造つてゐる市外西大久保の希望社理事長後藤静香氏に対し、社友結束して後藤氏の不徳行為と、その待遇改善その他を掲げて今ストライキに移らんとの、穏やかならぬ形勢を示してゐる

 社主を非難する三つの理由
 古傷洗ひ立てらる


 
管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:14 [412]

 

 この3つの理由とは、

1、希望社の小間使いである17歳の少女と関係を持ち、少女が嫁いだあとも関係を続けていたという不倫行為があり、その行為を恐喝していた暴力団が検挙されたために発覚した。

2 棒給の減額したにもかかわらず、本人は豪奢な生活を送っているとして、会計の公開を迫られた

3 上記2点に対しての謝罪と引退、待遇改善をもとめたが、後藤は「この種の罪は誰人にもあることで……」云々と言い訳し、今まで偶像崇拝をしていた社員の激怒を買ったということです。

 この記事の後半には「人間味があつていゝ」の標題とともに、後藤静香の談話があります。曰く、人間にありがちな過ちであり、辞職しようとも思ったが、翻って考えると、過ちを反省して向上してゆくことに人間味もあるものだ、社員たちが自分を偶像視したのは間違いで、このような人間味があるところがわかれば一層尊敬する気にもなるだろう、
 などと空気の読めない発言をしてしまいます。

 こういうわけで、神のごとく若者たちに慕われた後藤静香の没落のカウントダウンがはじまったわけですね。


管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:35 [413] [引用]

 
先の記事が朝日新聞東京版、昭和6年9月19日夕刊

時間が前後しますが同9月19日朝刊には

「後藤氏を詰り/希望者社員の飛檄」

昭和8年4月11日夕刊2面

「希望社々長の後藤氏召喚/使途不明の金数萬円」

昭和8年4月23日夕刊2面

「後藤希望社々長/つひに収容/詐欺横領の嫌疑濃厚」

 ……という残念なことになってしまい、ついには解散します。
 
 北斗が死んでからの希望社には、ろくなことがありません。北斗が尊敬してやまなかった後藤静香です。北斗が生きていたら、どう思ったでしょうか。
 
 私は、後藤静香の書くものは非常によいと思います。 人格も憎めません。いわゆる「いい人」すぎるんですよ。そしてとても「KY」で、こういうダメな自分がもう一度立ち直るところを見てくれ、なんて言っちゃう。人を信じすぎてしまっている。不倫が見つかって、「人間味があっていい」なんて言っちゃう。
 後藤本人は、あくまでそれも含めて自分なんだ、なんて言ってるけど、彼をカリスマだ、神様だと見ていた人々は、一気にマインドコントロールが解けてしまう。

 勝手に崇拝して幻想を抱き、盛り上がったのだけれど、ある時嫌な部分を見てしまい、急に冷めて、100年の恋からさめて、逆に大嫌いになってっていう。なんだか、若い恋のようでもあるし、旬な時にはもてはやし、飽きられるとポイ捨てする現代のマスコミのようでもあるかな。

 もちろん、不倫をした後藤静香が悪いのですが。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 19:01 [414] [引用]

 
 不倫は後藤本人も認めていますが、金銭については、どうなんだろう。

 あんまり後藤が豪奢な生活をしていたというのは本当かどうかわかりません。
 確かに、急激に発展し続けた組織ですから、イケイケドンドンでやってきて、ある時を境に社友が増えなくなり、その経営が息詰まってくるというのはわかる気がする。
 希望社の雑誌を見ていると、たしかに資金繰りがまずくなって、けっこういいのか?っていうことがある。定期購読している雑誌が、いきなり予告なしに雑誌名が変わったり、取っていた雑誌が他の雑誌に変えられてたりもする。そういうところを見ると、やはり資金繰りが悪くなっていったんだろうと思う。
 
 ただ、穿った見方をすると、時代的に、こういう大きな思想団体を潰しておきたいという当局、たとえば特高なんかの思惑があったとかいうことはないだろうか? もちろん、希望社は思想的にはアカではないけれども、一人の人間を頂点にして何十万人もの人間が団結しているような組織があるのは、やっぱり当局としては看過できないのではないのか、などと考えてもしまう。
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 20:46 [415] [引用]

 
 ま、でもやはり、資金繰りに困ってと言うことなのかもしれないですね。 

 この後藤静香の事件、なんか最近の小室哲哉事件とかぶるんですよね。

 作るものは良い。人の心を打つ。
 でもって、一世を風靡する。
 いろいろと事業に手を出す。
 人気が落ちる。資金繰りに困る。
 やってはいけないことをする。
 で、こうなる、ということですね。

 なるほど。

管理人  ++.. 2008/11/07(金) 15:17 [421] [引用]





 北斗はいつ短歌をはじめたか  [返信] [引用]
 北斗がいつから、短歌を詠み始めたかは、はっきりわかっていません。

 ただ「北斗はバチラー八重子の影響で短歌を詠み始めた」という本も多いですが、それは間違いです。

 現在確認できる一番古い短歌は自働道話大正十三年十一月号に掲載された次の一首。
 
  外つ国の花に酔ふ人多きこそ
  菊や桜に申しわけなき


 現在確認できる、上京前の短歌としてはこの一首のみです。
 では、本格的に短歌を作り始めたのは、やはりバチラー八重子の影響なのかというと、そうでもないようです。

 大正14年5月1日、伊波普猷は「目覚めつつあるアイヌ種族」で北斗のことを書いていますが、その時すでに北斗は短歌を詠んでいました。

 違星君はあまり上手ではないが和歌でも俳句でも川柳でも持つて来いの方です。
 と、書いています。もちろん、この時点で北斗はバチラー八重子とは会ったことがなく、一度手紙をやりとりしたのみです。

 では、その手紙で八重子から短歌を勧められた可能性があるではないか、という考えもできなくもないですが、これも違うと思うようです。

 大正15年3月5日の釧路新聞に、北斗のことが紹介されています。北斗がまだ歌人として有名になる前で、一人のアイヌ青年として紹介されています。
 昔は和人への敵愾心に燃えていたが、青年団に入ったことによって、人間愛を知り、今は東京の西川光次郎の元で社会事業に従事している、というような内容です。
 この記事の中に、次のような記述があります。

 是は此の青年の告白で復讐心に燃えて居た時代にノートに書き付けた歌と此の頃の感想を陳べた歌とを相添て道庁の知人の許に寄せて来たが是等は学校の先生、青年指導の任にある人々には何よりの参考資料だ

 つまり、道庁の役人に送られてきたノートには、青年団に入る前の、「復讐心」に燃えていた頃の短歌と、青年団に入り、「人間愛」を知ってからの短歌が書かれているということです。是等とあるので2冊あるのかもしれません。
 この通りだとすると、東京に来る前の余市時代、青年団に入る前からけっこうな短歌を作っていたということになります。

 もちろん、バチラー八重子の影響もあったでしょうし、それ以上に実は、金田一から若き日にともにあった啄木の話をよく聞いたそうですから、その生々しい話の刺激もあって、上京後に本格的に短歌を作り始めたのだと思います。
 
 ところで、その道庁の役人に送った北斗のノートとやらは、どこにいってしまったのでしょうね。
 実はまだ道庁のどこかにあったりして。

 
コタン管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:55 [418]

 
道庁云々で思い出したのですが、「目覚めつつあるアイヌ種族」の中に、次のような所があります。

あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。

 この岡村千秋の知り合いの内務長官に送った「署名」と関係あるんでしょうか?
 この寄せ書きされた画は、写真に撮ってあったようで、伊波は「沖縄教育」の又吉康和にも焼き増しして送っているようですので、道庁にも写真を送ったのかもしれません。
 この署名が後日、ひはり句会に持って行った「『東京アイヌ学会』で知名の士から『よき書』をしてもらった記念のまくり」だと思いますので、オリジナルは北斗が持っていたということでしょうね。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:14 [419] [引用]

 
大正15年の北海道庁の内務部長は百済文輔。
直前に東京府の内務部長をしていたので、岡村千秋とも知り合いだったのかもしれません。

その後も奈良県、群馬県の知事、台湾総督府殖産局長、小倉市長などを歴任したようです。

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 01:45 [420] [引用]





 グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた  [返信] [引用]

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている日本語の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみました。
 いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

1 河野広道の年譜の中に北斗の名前が。 

 http://books.google.co.jp/books?id=1xAEAAAAMAAJ&q=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&dq=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&lr=&num=100&as_brr=0&pgis=1

「1928年(昭和3年24歳)1月 違星北斗氏と対談する」

 これは、父親の河野常吉に、余市の違星氏より聞き取りがあり、このときの対談の内容が「アイヌの秘密数件」という記事なのですが、息子の河野広道も一緒にいたのでしょうか。もしくは、広道が取材し、常吉の名前で発表されたのかもしれません。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kounotsunekiki.htm
 

 
管理人  ++.. 2008/10/25(土) 21:01 [402]

 
で、この検索によって見つかった文書を図書館で見てきました。

上の1に続き、新発見をいくつか。

2 『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。


『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)



管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:28 [405] [引用]

 

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が出会ったアイヌ学会は3月19日なので、「一昨年の秋頃」というのは間違いでしょうね。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日
)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまうのです。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm

 
 

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:39 [406] [引用]

 
3 『大正期人物年表 大正13〜大正15・昭和1年』日外アソシエーツ

 これはいい本だ。文学者やら軍人やら、いろんな人が、何年何月ごろ何をしていたかが書いてある。
 欲しい。
 北斗に関係した金田一京助や伊波普猷も載っている。

 たとえば、伊波普猷の大正14年3月19日はこう書いてある。

伊波普猷(50歳)
 3月19、東京アイヌ学会(第2回)高橋富士見軒永楽クラブにて開催され、招待通知を受けて出席。金田一京助の「アイヌの現状」と題する講演、アイヌ青年違星滝次郎の講話を聞き感銘する。以後、数度にわたり違星、伊波を訪問し交流する。
 また、この講演座談会の模様を又吉康和あての書信の形をとり、「目覚めつつあるアイヌ種族」と題して『沖縄教育』(14年6月、146号)に発表、これまでの自己のアイヌ観を是正、アイヌ人の正しい認識を呼びかける。
 

 まあ、目新しいところはとくにないのですが、永楽クラブの場所とか、招待通知なんていうことまで書いてあってちょっと嬉しいです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:07 [407] [引用]

 
4 早川勝美に「違星北斗の歌」という文章があり、「山音」48号に掲載されているらしい。

5 『北海道文学散歩 道央編』(木原直彦)によると、向井豊明に「うた詠み」という違星北斗を取り扱った短編小説があるらしい。

 →探したら「うた読み」収録されている本がありました。
  野火書房『新文学の探究』に収録。

 さっそく読んでみました。
 おおざっぱに言いますと、主人公は北海道で教師をしているのですが、アイヌ、それも違星北斗を主題とする文学をやりたいと考えていて、そのためにも仲間を集めて文学会をつりたいと願っているところ、K党の活動家に、党に入れば仲間がたくさんできて文学会を作れるといわれて、党員になってしまう、だけれども、けっきょくそれは幻想であったと気づき、党を離れるというような筋書きです。
 北斗のことも、よく調査されて、書かれていると思いながら読んでいたのですが、それもそのはず、北斗の研究をされていた谷口正氏が協力しているようです。
 
 作者の向井豊昭氏は、昭和8年生まれですが、25年間北海道で教師をされていたそうで、この作品はその時期に書かれたもの。70年代初頭ごろかと思います。
あと、96年に四谷ラウンド文学賞を獲られて、60代で中央の文壇に登場されたという遅咲きの方です。
 残念ながら今年6月にお亡くなりになったそうです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:31 [408] [引用]

 
6 『柳田國男研究集成』に北斗の足跡が。
 
 けっこう、びっくりです。

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 (前略)
 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。
(後略)


 しまった。
 図書館の閉館時間が迫っていたので、急いでコピーしてもらったら、このページしかコピーされてなくて、これが大正14年なのか、15年なのかがわからない。

 もう一度、確かめに行かなくては。

 この沢田四郎作という人は、医学博士で、民俗学者、柳田國男の教えを受けた方ですね。

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%df%b7%c5%c4%bb%cd%cf%ba%ba%ee

 あれ、おかしいな。昭和2年に柳田に出会ったのであれば、その前年に北海道に帰った北斗とは会っていないはず。
 もしかして、ここに出てきたのは、北斗じゃない「違星」さんなのか? 

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:11 [409] [引用]

 
あとは、メモ

7 『新宿・大久保文士村界隈』という本に、希望社のことが詳しく書いてあった。

8 近代アイヌ教育制度史資料(小川正人)によると、山田伸一氏に「違星北斗伝への試み」という論文があるらしい。


それにしても……、グーグルの「ブック検索」は非常に使える。

アメリカの大学が日本語の書籍を日本語で電子化して検索可能にしてくれたおかげなのだけれど、もしこれが日本でも本格稼働したら、もう、いろいろ大変なことになるかもしれない。

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:20 [410] [引用]

 
>  「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 図書館に行って、もう一度全文を読んできました。

 結論からいうと、これは大正15年の5月27日です。

 先の引用の前に、次のような文章があります。

 十五年四月十日消印の柳田先生のおハガキを頂戴した。

 これは、結構、重要な記述です。
 ある意味大発見です。私的には。

 なぜなら、これまで北斗の東京時代のうち、大正14年の秋から大正15年の春にかけての北斗の行動の記録はみつかっていなかったのです。

 ですので、私は北斗は生活に埋没していたのか、恋愛でもして研究や勉強から離れていたのか、あるいは「国柱会」の宗教活動にハマってしまっていたのか、等々と勝手な想像をしていました。

 でも、この記述が正しいなら、金田一京助の招きでいろいろな学会に行き、勉強を続けていた
 
 北斗は大正15年も「北斗」だった。そういうことになります。
 
 それからもうひとつ。
 北斗が日本民俗学の泰斗である柳田國男とも面識があった、ということがわかります。それに「考現学」の今和次郎とも。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:00 [411] [引用]

 

 沢田四郎作は、大正15年に初めて柳田國男に手紙を書き、いろいろな会に誘われるようになったそうで、その中の一つが、北斗と出会った北方文明研究会だったようです。
 昭和2年というのは、初めて一人で柳田邸を訪ねた日だということのようです。

 この沢田四郎作などは、関西の人ですが、私の好きな民俗学者・宮本常一とも親しかったようで、こういうふうに別々の興味が、ある時ひとつにつながっていくといのが、こういった研究をすることの醍醐味のようなきがします。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 21:02 [416] [引用]

 
うん。大正15年5月27日で間違いないですね。

 柳田國男の年表でもそうなっておりますので。

 ちなみに、会に来ていて、北斗が会ったフィンランド大使ラムステッド氏は、学者としても有名な人で、宮沢賢治とも会って話をしています。フィンランドの彼の蔵書の中に宮沢賢治の本が2冊あったそうです。北斗の痕跡もないのかな。
 

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:29 [417] [引用]





 ゴーマニズム宣言  [返信] [引用]

 現在発売中の小学館のSAPIO 11/12号に掲載されている小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」において、アイヌ問題が取り上げられ、その中で違星北斗が登場しています。
 その内容について、気になる点や違和感がないわけではないですが、まだ1回目ですので、しばらく読んでから書いてみようと思っています。
 

 
管理人  ++.. 2008/10/26(日) 21:19 [404]





 永劫の象とは  [返信] [引用]

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

 長らく考えてきました。
 永劫とは?

 キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。
 それとも……

 哲学か。

 かもしれない。
 北斗は西田幾太郎の『善の研究』を読み込んでいました。
 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。

 ニーチェか。
 そうかもしれない。
 というか、よくわからない。

 永劫。永劫の象。

 本当に「象」でいいのだろうか。
 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。

 永劫の「ぞう」か?
 
 永劫の「像」? そういう像があったのか?
 「蔵」? 
 もっと、哲学的な概念的な言葉。
 「相」か?

 「永劫の相」……なんかありそう。
 検索してみると、あった。

「永劫の相」スピノザ。

 スピノザか。スピノザなのか?
 北斗はスピノザを読んでいたのか?

 本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。
 スピノザ、読んでみるか。

 
管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:21 [392]

 
ウィキペディアを流し読みしただけだけど、スピノザの「神」の考え方は、北斗に近いようだ。

《スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。》ウィキペディア

 次に、北斗と親交が深かった古田謙二の言葉。

 北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
(中略) 
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したいといい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。(古田謙二「『アイヌの歌人』について」)


 やっぱり似てる。
 北斗=西田幾太郎≒スピノザ?

 勉強勉強。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:32 [393] [引用]

 
 やっぱりそうだ。
 西田幾太郎の『善の研究』の中では、「スピノーザ」が多く言及されている。
 『善の研究』を読んだ北斗であれば、「スピノーザ」に手を伸ばしたというのは想像に難くない。
 「永劫の象」は「永劫の相」の書き間違いなのか、あるいは、北斗の手にした古い訳では「永劫の象」となっていたのかもしれない。
 北斗が入手したであろう「スピノーザ」の本を調べてみよう。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:51 [394] [引用]

 
これかな。

岩波文庫 スピノーザ 『哲学体系』

昭和2年12月15日初版発行

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w24448735

昭和2年末の発行だと、ちょっと時期的に微妙かもしれないけど、とりあえず入札してみた。
 

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:54 [395] [引用]

 
×西田幾太郎
○西田幾多郎

 勉強。勉強。

管理人  ++.. 2008/10/22(水) 00:06 [396] [引用]

 

「永劫の相」よりも「永遠の相」の方が、よく使われているみたいだ。
 永遠の相で検索するとめちゃくちゃ引っ掛かります。

「永遠の相のもとに」というような使われ方をしていることが多く、そういう題名の本もあるようだ。

 「時と永遠の相における生」
 http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Psalm90.htm

 この使われ方は、件の豊年健治君の短歌

「永劫の象に於ける生命の
 迸り出る時の嬉しさ」

 での使われ方に似ている。

 ウィキペディアにも、

 「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」

 手元に届いたスピノーザ(小尾範治訳)の「哲学体系」(エチカ)では、「理性の性質には、物を永遠の形式の下で知覚することが有る」となっている。永遠の形式。永遠のかたち。永劫の象。

 なんとなくわかるけど、まだうまく説明はできない。 

管理人  ++.. 2008/10/26(日) 00:43 [403] [引用]








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