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コタンBBS

違星北斗研究会
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 間違い発見  [返信] [引用]

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る


この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 02:03 [449]





 平取での在所  [返信] [引用]
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬〜10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 八重子や吉田ハナらと教会でいっしょだったとすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ているのではないか。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 01:58 [448]





 無題  [返信] [引用]
「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日


有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事


 これでしょうね。

 


 

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 00:07 [447]





 北斗の姿  [返信] [引用]
 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ


 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう


 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 
管理人  ++.. 2008/11/28(金) 16:44 [431]

 
 それぞれの人の短歌について、いろいろ思うところを書きたいと思います。まず、山上草人の短歌です。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる

 夕日の中で真っ赤に染まった北斗のやつれた姿や表情が絵が浮かんでくるようです。
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

 北斗にはひげの濃さを気にする短歌もあり、元気な頃の北斗は、毎日ひげをあたっていたのだと思います。しかし、闘病生活の中で、ひげも伸び放題になっていたのでしょう。「アイヌになって」というのは、もちろん、アイヌである北斗に向って「アイヌになつて」という意味は、複雑なものがあります。読み手である山上草人がどういう意味を込めたのかは不明です。

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

 これは、そのまま、北斗の言葉でしょう。胸の苦しさを、コロポックルに肺を蹴られていると譬え、最後に「畜生!」とは、なんとも北斗らしいと思います。

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

 これも、北斗らしい。かつての心の輝きを失って、欲望に突き動かされる同族たちへの怒り。もちろん、滅びてしまへとは反語です。
 読み手の余市の山上草人とは誰なんでしょうか。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

 北斗の死の直後から、遺稿集を編んでやりたいという人がいたのということですね。旧かな遣いで「染むだ」は一瞬読み方に迷いますが、現代表記では「染んだ」ということですね。

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

 クレグールは消毒液のクレゾールのことでしょう。古田謙二の証言にも、北斗の死後、消毒液の匂いのプンプンする部屋に入り、枕もとのボストンバッグから日記を取り出した、というようなものがあり、この短歌とも一致します。
 現在読むことのできる北斗の日記には、「歪んでいる」というようなところはあるとは思わないのですが、確かに闘病中に北斗が金田一に送った手紙は、あるいは歪んでいるといわれても仕方ないようなところも見られました。
 こういう「歪んでいる」という部分は、編集した古田謙二や希望社の編集者にカットされてしまったのかもしれません。
 
  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

 この内容の日記も、現在の遺稿集には見つからないですね。同じような内容の短歌はあります。

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 これは日記にありますね。
 
  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

 これは、北斗の日記の絶筆の短歌の一つ「いかにして「我世に勝てり」と叫びたるキリストの如安きに居らむ」のことですが……。
 北斗は「神なんかいないいない」と言ってたんですね。 バチラー八重子たちにも同じようなことを言っていたのでしょうね。「キリスト教ではアイヌは救えない」というのが北斗の持論でした。
 一方で、北斗は国柱会の信者になったりもしていましたが、仏教徒だからという意味で神を否定している感じでもないですよね。国柱会については、それに関する北斗自身の記述がありませんので、信仰が一過性のものだった可能性もあります。
 北斗の辞世の短歌に関しては、私は「どうやったら、キリストみたいに、自分の死ぬ前に、『私は世界に勝った』と言えるんだよ、そんなことあるかよ、畜生!」っていう意味だと思っています。
 この山上草人は、そういう取り方じゃなく、「ほら、やっぱり神様キリスト様のことを書いているじゃないか」っていう意味にとっているんじゃないでしょうか。山上さんはクリスチャンなのかもしれない。
 もしかして、「古田謙二」? 違うか。

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

 これは北斗が並木凡平の歌を愛唱していたということでしょうか。では言い寄ったとはどういうことだろう?
 察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

 この日記はいつの日記だろうか。日記には淋しいという言葉はけっこうあるし、失われてしまっている日記かもしれない。

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 北斗の死の直後から、歌碑を造りたいという人はいたんですね。結局は死後40年近くたった昭和43年、それも余市ではなく平取に建ちます。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 17:58 [432] [引用]

 

 札幌の上元芳男による短歌。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 この上元芳男氏は、作曲家・指揮者、音楽教育に活躍された方のようですね。北海道内の学校の校歌を多数作曲しています。
 

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 18:39 [433] [引用]

 
 幾春別の木芽伸一の短歌。

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

 当時、アイヌは新聞上でも公然と「滅びゆく民族」として語られていました。それは金田一京助のように、アイヌに対して理解や同情がある(と自分では思っている)和人であっても、アイヌは滅びゆくものだ、という認識が前提としてありました。それに反抗したのが北斗であったわけです。

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 さて、これはどう読むべきか。
 北斗に妻子があったことはすでに明らかにはなっていますが、この読み手がそれを知っていてそう書いたのか。
 「おもはれて」は「思はれて」なのか、泣きくれて「面腫れて」なのか。
 やっぱり、素直に読めば、北斗の妻子のことが「思われて」ということなんだろうな。

 読み手の木芽さんは歌人で、1930年、「秋風の道」という歌集をだしているようです。幾春別は現空知支庁三笠市。当時は炭鉱で栄えていたようです。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:05 [434] [引用]

 
その他、北斗関連の記事。

1924年9月27日 

<余市より/晋風」<余市の句会で、晋風が違星北斗と出会ったこと、同句会で違星北斗が「落林檎石の音して転けり」と詠んだ句を出したことなどが、『小樽新聞』で紹介された>

 これは「にひはり」大正13年11月号に掲載されている余市にひはり句会のことですね。小樽新聞にも掲載されていたんですね。晋風は勝峰晋風です。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:24 [435] [引用]

 
山上草人のことを調べようと、「余市文教発達史」を入手。

しかしながら、ヒントはつかめず。「後志歌人伝」にも載っていない。無名の人だったんだろうか……。

ただ、全く関係ないことで、この本は役に立ちそう。北斗の友人だった鍛冶照三が先生だったとか、北斗に影響を与えた島田先生の人となりとか、いろいろと役にたつことが書いてあります。

管理人  ++.. 2008/12/05(金) 13:22 [436] [引用]

 
>  察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

 これは違うようです。
 また、「余市文教発達史」にも名前は見あたりません。
(ここには関係ないけど、北斗と親があったという鍛冶照三は余市の先生でした)。

管理人  ++.. 2008/12/25(木) 23:09 [444] [引用]

 
山上草人と古田謙二は同一人物なのかどうか。

古田謙二の号は冬草。山上草人も「草」がついているけど……どうなんだろう。

ちなみに、「上山」草人は日本初のハリウッドスター。この山上草人とは関係ないか。もしくはそれももじった名前なのかもしれないが……あと、山上宗二(やまのうえ・そうじ)という茶人(千利休の弟子)がいるけど……わかりませんね。

北海道に行ったら、地元の資料を探してみよう。


管理人  ++.. 2009/01/09(金) 12:05 [445] [引用]

 
読み直していたら、もう一編あった。

小樽新聞1929年3月21日の短歌欄に

「何気なく古新聞を手に取れば死んだアイヌの歌が眼をひく」

という、江部乙の本吉心星による短歌が載ったようです。

北斗の名前は出ていないですが、これもまた北斗でしょう。

管理人  ++.. 2009/01/12(月) 19:58 [446] [引用]





 メルマガに原稿  [返信] [引用]
「[本]のメルマガ」というメールマガジンに違星北斗の短文を書きました。出版・書店関係のメールマガジンです。

毎月5日,15日、25日発行のうち、25日版に3回連載されます。

通しのタイトルは「アイヌの歌人・違星北斗の青春と死を巡って」(だったかな?)です。

12/25 第1回「成宗の一夜」
1/25 第2回「コタン巡歴」(仮)
2/25 第3回「違星北斗の死と青春をめぐって」(仮)

なんだか青くて恥ずかしいタイトルですが、私の中では「青春」「死」がそれぞれ北斗を読み説く重要なキーワードかと思いますので。

下手な文章で恐縮なのですが……。

興味がある方は、下のアドレスをご参照ください。登録すればメールで送られてきます。(ホームページにも最新号が掲載されています)。

[本]のメルマガ
http://back.honmaga.net/

 
管理人  ++.. 2008/12/21(日) 00:49 [443]





 北斗80年忌  [返信] [引用]
北斗の80年忌についての詳細。25日(命日前日)と26日(80年忌当日)の両日に行いますので、都合のよい方にご参加ください。

(1)25日(日曜)コース

日時 2009年1月25日(日)
   午後1時 
場所 JR余市駅集合

※当日参加可能。
※雨天決行。荒天の場合は中止の可能性あり。
※基本的には徒歩、路線バスを使用。
※最低決行人数1名。
 
 コース 

 余市駅

 ↓ 徒歩

 美園墓地

 ↓ 徒歩

 北斗句碑(余市水産博物館)

 ↓ 徒歩

 北斗生家跡(旧コタン)

 以下、希望者あれば

 ↓ 路線バス
   (北斗の卒業した大川小学校を通過)

 フゴッペ洞窟(休館中で入れません)。
 ただ、北斗が論文に書いたのはこの「洞窟」ではなく、その脇の崖壁にあった古代文字で、現在は磨滅して見ええません。
 
 こんな感じでしょうか。
 フゴッペや水産博物館などが軒並み冬期休館なのはつらいですね。

 他にも余市にはニッカの工場とか宇宙記念館とか、いろいろ面白いところはあります。

 
管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:03 [440]

 
(2)26日(月曜)コース

日時 2009年1月26日(月)
   午前8時 
場所 JR余市駅集合

※当日参加可能。
※雨天決行。荒天の場合は中止の可能性あり。
※基本的には徒歩。
 
 コース 

 8:00 余市駅

 ↓ 徒歩

 9:00 美園墓地
  (北斗の死亡時刻は朝9:00とされています)

  ↓ 徒歩

 北斗句碑(余市水産博物館前)

 ↓ 徒歩

 北斗生家跡(旧コタン)
 
※水産博物館・フゴッペ洞窟は冬期休館中。
 句碑は屋外にあるので見られるそうです。

管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:18 [441] [引用]

 
 両日とも、事情により予定コース変更はあると思っていただければ幸いです。
 
 メインの墓参は無宗教での献花、もしくは各自任意の形式で行うのがよいかと思います。
 特にセレモニー的なことは考えておりません。各自手を合せるぐらいでよいかと思います。

 北斗自身はアイヌ文化との接点がほとんど失われた世代でした。違星家は曹洞宗の檀家で、北斗自身は日蓮系の国柱会に出入りしていましたが、これについては一時的なものであった可能性もあります。
 また、北斗は「神を頼まない」「自分の信念を本尊にして突き進む」てなことを言っていました。

 そういう意味でも、各自がそれぞれの信念信条で、北斗を思う時間になればよいかと思います。

 

管理人  ++.. 2008/12/18(木) 10:48 [442] [引用]





 ヤフー百科事典  [返信] [引用]
Yahooが百科事典サービスを開始。
違星北斗の項目もあり。
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違星北斗(いぼしほくと) (1902―29)

歌人。本名滝次郎。北海道後志(しりべし)支庁余市(よいち)町の生まれ。祖父万次郎は、1872年(明治5)、東京に開かれた開拓使仮学校に選ばれて生徒として派遣されたアイヌの一人。北斗は小学校卒業後、造材人夫をしながら歌を詠み、さらに自らもアイヌ研究を志し、上京して金田一(きんだいち)京助に会ったこともある。1927年(昭和2)には、日高支庁平取(びらとり)町の聖公会の幼稚園でバチェラー・八重子の仕事に協力する一方、売薬行商をしながらアイヌに対する差別を告発する歌をつくる。遺稿集『コタン』(1930)には、北斗のアイヌとしての怨念(おんねん)がにじんでいる。

アイヌとして生きて死にたい願もてアイヌ絵を描く淋(さび)しい心

[執筆者:藤本英夫]

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http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%95%E6%98%9F%E5%8C%97%E6%96%97/

日本大百科全書(小学館)を底本としており、執筆者は故・藤本英夫先生。

情報としては、目新しいところはありません。


 
管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:39 [437]

 
「怨念」か。

 北斗は怨念とかルサンチマンとかからは遠い気がするけれども、北斗の病中書簡を持っておられた藤本先生が書かれているので、一回りしてやはり「怨念」なのかもしれない。



管理人  ++.. 2008/12/14(日) 22:42 [438] [引用]

 
 逆に言うと、私は活字になっている北斗の遺稿集のテキストの中には「怨念」は感じられない。上山草人の読んだ日記原本にあった「歪んだ」考えは、遺稿集の編者によってカットされている。

 藤本先生は、病中書簡にある北斗の「怨み節」をご存じなので、こういう読み方をし、こういう書き方になったのではないでしょうか。推測ですが。

管理人  ++.. 2008/12/16(火) 18:40 [439] [引用]





 覚え書き  [返信] [引用]
朝日新聞CD-ROMより

・松宮春一郎、1933(昭和8)6月18年没。59歳。
 肩書きは中央大学事務部長となっている。

逆算すれば明治7年ぐらいの生まれか。
北斗より27歳ぐらい年上。
北斗が出会った松宮は、出版人だったけど、ここでは大学の役員のようになっている。本当に北斗の出会った松宮と同一人物だろうか。

・高見沢清、1932(昭和7)年3月9日没。56歳。

東京府市場協会の役員で、北斗の上京を世話し、公私ともに面倒を見た人も、意外と早く亡くなっている。

『北海道文学散歩II』によれば、

「山音」48号に早川勝美の「違星北斗の歌」という文章があるらしい。読みたい。

 
管理人  ++.. 2008/11/23(日) 00:54 [429]

 
「山音」は道立図書館にあり。

管理人  ++.. 2008/11/23(日) 01:01 [430] [引用]





 地元の人はまだまだ北斗を知らないけれど・・・  [返信] [引用]
先日実家の余市町で余市町主催の読書体験コンクール一般の部で地元の男性が違星北斗「悲痛な叫び」という作品で最優秀だったということで、両親に頼んで授賞式に行ってもらいました。(何か北斗の話が聞けるかな?と思い)ついでに私は千葉在住なもので父が役場関係者に聞いて、資料を探してもらい、三冊送ってもらいました。その中にアイヌの歌人、コタン(84年遺稿)北方文芸があったのです。余市図書館(私は千葉在住なもので)の蔵書です。2年前にも帰省した際に北斗の墓参りにいったのですが、郷土史家の方に案内されたがわからず、とても残念でした。また来年帰省したとき、フゴッペ洞窟の資料も合わせて調べたいとおもいます。
 
chopper  ++.. 2008/11/18(火) 16:19 [427]

 
 chopperさん、こんばんわ。
 コンクールでについては、全然知りませんでした。
 読んでみたいですね。
 北方文芸に関しては、1月に余市図書館に行って確認してみたいと思います。

 郷土史家の方、Aさんですね。
 私もAさんに聞いたら「わからなかった」と言われて、レンタルサイクルに乗って一人で探しに行ったんですよ。
 それで、墓地(小さな山が墓地になっています)があったんで「ここかな?」って思って10分ぐらいうろうろしていたら、違星家のお墓を偶然みつけてしまったんです。

 ただ、なぜか北斗の「滝次郎」という名前が墓石には刻まれていなかったんで、もしかしたら他に北斗の入った墓があるのかもしれませんが……。
 
 1月にはこのお墓に参りたいと思います。

 関西人なので、北海道の雪を未体験なので、とても心配ですが。

 北斗が論文を書いたフゴッペの古代文字は、今は消えてしまっていますが、洞窟の裏の線路際の壁がそうだと思います。 

管理人  ++.. 2008/11/20(木) 18:29 [428] [引用]





 はじめまして  [返信] [引用]
北方文芸10月号(昭和45年9に近代アイヌ文学三人集で北斗を知りました。最近ではhttp://www.yukai.jp/~eddy/homepage/haiku/index.html にも北斗を見つけ感激しています。いつも拝見させていただいてます。
 
chopper  ++.. 2008/11/17(月) 18:32 [425]

 
chopper様

 いつもご覧頂いてありがとうございます。

 北方文芸10月号にも北斗のことが掲載されているのですね。図書館で探してみたいと思います。
 リンク先の方は、北斗の短歌を英訳されておられますね。とても興味深いです。
 今後ともよろしくおねがいいたします。

管理  ++.. 2008/11/18(火) 09:05 [426] [引用]








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