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コタンBBS

違星北斗研究会
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 北斗の墓について  [返信] [引用]
北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。

 
管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:46 [467]

 
「北海道の研究7」を確認したところ、「アイヌの送葬習俗」(原田喜世子)という論文の中に、各地のアイヌの墓標に関する記述があり、「樺太西海岸地域」の墓標の特徴について述べたところに、次のような記述がありました。

 加えて、その他道内では、余市の違星北斗氏の墓標に×印がつけられているが、股木に見事な彫刻が施されていることから、これもこの系統に属してよいと考える。
 


 文脈をだいたい説明しますと、樺太西海岸地域の真岡・多蘭泊・大泊のアイヌの墓標は、北海道では余市町や紋別市渚滑に類似の墓標の分布が認められ、道内の他の地域には見られないといったことが書いてあります。
 
 なるほど、この文面通り、北斗の墓がこのようなものであったとすると、北斗が余市の違星家の墓に葬られていなかった理由もわかる気がします。
 余市の墓は1943年に亡くなった甚作から入っています。おそらく甚作の死後に梅太郎が「本家」の墓として建てられたものでしょう。墓碑銘にアイヌプリで葬られた北斗が入っていなくてもおかしくはないと思います。

 ただ、その墓が本当に違星北斗の墓なのか、それとも違星家の墓なのか。別ルートでの確認が必要だとも思います。 

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:51 [468] [引用]

 
 奥付によれば、原田氏は1958年生まれ。
「北海道の研究7」は昭和60(1985)年の発行。

 原田氏は「北斗の墓」を自分の目で見たのか、それとも史料で見ただけなのかはわかりませんが、もし実物を見たのであれば、すくなくとも1980年代ぐらいまで、北斗の墓標は存在していたということになります。
 

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:17 [469] [引用]

 
 Tさんからのメールにあったのですが、墓地の下の石材屋さんが、何か知っていたかもしれないですね。

 あるいは、地元の郷土史家の方に聞いてみたら何か知っているかもしれない。
 それから……もしかしたら、違星北斗のものかどうかは別として、単なる「余市アイヌの墓標」として、資料が残っている可能性もなきにしもあらずですね。
 こんど行った時に聞いてみよう。

 あと……原田氏ご本人に伺うのが一番早いかもしれませんね。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:23 [470] [引用]





 北斗帖  [返信] [引用]

 メルマガの最終原稿を書いていて気づいたのですが、最初の希望社版「コタン」には「私の短歌」とだけあり、「北斗帖」のタイトルは84年版でつけられたものです。

 もちろん、「北斗帖」とは北斗の死後の遺稿の中にあった墨書自選歌集の名前ですが、これは未発見なので、「コタン」の「私の短歌」=墨書自選歌集「北斗帖」というのは、じつは北斗の意図ではなく、84年版編集者による編集なのだということに気づきました。

 つまり、現在青空文庫などで流布している「北斗帖」の他に、墨書自選歌集としての「北斗帖」があり、それはかならずしもコタン版とは一致しないということ。

 もう一つ、「私の短歌」というタイトルは、歌集にではなく、「私の歌はいつも論説の……」という、北斗による自作解題の文章につけられたものである可能性がある(高い?)ということ。

 と、こんなこと書いてる間に、メルマガの原稿をなんとかしなくっちゃ。

 
管理人  ++.. 2009/02/23(月) 03:36 [461]

 
↑の件、わかりにくいので整理すると。

つまり順番として

(1)墨書の「北斗帖」があり(詳細不明)、

(2)希望社版(1930年)コタンに「私の短歌」「俳句」があり、

(3)84年版コタンにおいて、「私の短歌」「俳句」を一つの章とし、その冒頭にはじめて「北斗帖」のタイトルが付される。(ただし、その内容が(1)の墨書版北斗帖と同一である保証はない)。

(4)青空文庫等で公開され、「北斗帖」=『コタン』掲載の歌句集「私の短歌」「短歌」ということになった。

 つまり、現在の「北斗帖」は北斗が「北斗帖」と呼んでいたものと同一ではない可能性が高い。
 現在のものは、84年版の編集者によって便宜上つけられた「北斗帖」(=「私の短歌」「俳句」)が青空文庫で切り分けられ、一人歩きしたものであるといえます。

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 18:47 [466] [引用]





 年譜にミス  [返信] [引用]
年譜を時期ごとに分割したときに、間違いをしていて、それを残したままでした。すみません。

内容的なことではなく、昭和2年の10月〜12月の掲載情報などが「余市時代」と「行商時代」の両方に重複していたというケアレスミスです。

直しましたので、プリントされている方がいらっしゃれば、差し替えいただければ幸いです。

 
管理人  ++.. 2009/02/15(日) 00:30 [460]





 朝日新聞 「北のことば抄」  [返信] [引用]
平成20年7月19日 朝日新聞北海道総合面

「北のことば抄」

 平取に浴場一つ欲しいもの
 金があったら建てたいものを
 滅亡に瀕するアイヌ民族に
 せめては生きよ俺の此の歌
(違星北斗 「コタン」=『北海道文学全集 第十一巻』=立風書房)
 金田一京助は随筆「違星青年」に「彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えて行った違星生」と追悼しているが、1901(明治34)年に余市で生まれ、29(昭和4)年に28歳の若さで没した。アイヌ民族三大歌人の一人といわれる。社会主義思想を持ち、民族の解放と自覚を訴えつづけて倒れたが、短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響によるところが大きい。故郷の余市に句碑、二風谷には歌碑が建っている。

 
管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:07 [457]

 

 極めて短い文ですが、正しくないところが2点。
(3点かな)。

(1)違星北斗は社会主義思想を持っていた。

 ……そんなバカな。
 こんなことが書いてあるのは湯本喜作の「アイヌの歌人」ぐらいですが……あの本はちょっと……。
 そもそも「コタン」を読んだ人であれば、北斗の思想に社会主義思想がこれっぽっちもない(むしろ好きではなかった)ことがわかるはずです。
 そもそも、民族解放と社会主義って、あんまり合わない気がしますが。

(2)28歳で没→27歳で没。

(3)短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響→短歌は八重子に会う前から詠んでおり、あまり影響を受けていないようです。


管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:16 [458] [引用]

 
 これ、記名記事だったんで、どうせ、若い新聞記者が適当に調べて書いたんだろうと思って、あえて名前を書かなかったんですが……。 
 これ書いた人、ものすごい偉い先生じゃないですか。
 
 K原N彦センセッ、いろいろ間違ってますよッ!
 
 
 

管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:25 [459] [引用]





 北斗死後80年  [返信] [引用]
 本日、1月26日は、北斗の命日です。
 今年は没後80年でした。

 参加者がゼロでしたので、お墓参りは私だけで行いました。

 25日、午後2時。
 
 だんだんと雪がつよくなってくる中、余市の違星家のお墓へ。
 
 私の考えが甘かった。北海道をなめていました。

 ……この時期にお墓参り、無理でした。

 お墓は観音像の、ちょうどまっすぐ後ろあたりですが、山の斜面のお墓には、「雪原」を超えていかねばならないのでした。

 とても、そこまではいけないので、観音様にお花を捧げ、はるか彼方のお墓を拝んできました。
 

 墓に来て 友になにをか 語りなむ. 言の葉もなき 秋の夕暮れ

            ――バチラー八重子が北斗の墓で詠んだ歌

 
管理人  ++.. 2009/01/26(月) 23:54 [455]

 
クリックで拡大表示 ( .jpg / 41.3KB )

 その後、余市の図書館で調べもの。
 病床の北斗の姿を歌に詠んだ山上草人の正体を突き止めようとしましたが、結局わかりませんでした。
 
 写真は夕闇の余市川。
 対岸の奥のあたりが、北斗の生まれ育ったコタンのあったあたりです。

 
 余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下        
                              北斗

管理人  ++.. 2009/01/27(火) 00:04 [456] [引用]





 というわけで  [返信] [引用]
冬の北海道に行ってきます。

1/24〜27の3泊4日です。

お墓参りのは1/25、26とも参加者が「ゼロ」ということで、自分一人で行ってきます。

まあ、マイペースな「調査」がメインになり、ちょっと気は楽です。

また報告します。
 


 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 22:16 [450]

 
道立図書館にて、資料調べ。

(1)「汎北海道」創刊号(昭和29年12月1日発行、汎北海道社、東京)に北斗の記事あり

「アイヌ民族の二つの星 文博知里氏と歌人北斗」

 無記名記事。

(2)「山音」48号(昭和44年10月10日発行、山音文学会、虻田郡豊浦町)

 「違星北斗の歌と生涯」 早川勝美。

 北斗の評伝です。
 さすが早川勝美さんです。
 この方は余市でご遺族に詳細に調査していますので、何点か未見の情報がありました。 

・ガッチャキ行商の時、
《箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた北斗の姿は、忘れようとしても忘れる事の出来ない思い出となった」と語るのは北斗を知る一老人の述懐であり彼の記憶の中にいまなお生きている北斗の姿である。》
 という証言。

・《酒のめばアイヌもシャモも同じだテ
    愛奴のメノコ嗤っています
 この短歌一首は、昭和三十九年八月二十六日、北斗の最後まで良く面倒をみた彼の遠縁にあたる海津トキ氏(余市町大川町番外地在住、八十七歳)所蔵のもので、ワラ半紙に、毛筆で書いたものであった。作歌月日は、昭和三年七月とあるだけで、日時は明瞭ではない。》

 海津氏は「梅津」氏の間違いです。
 この歌自体はコタンに収録されていますが、こういう
半紙が現存していた、ということですね。

・北斗をモデルにした創作として、
《「墓穴」大沼貞雄(昭27・7「瓶風」10号)》
 というのがあるらしい。

・北斗の生年月日について

《「コタン「違星北斗遺稿集」所載の年譜をみると「明治三十四年生れ」とあるだけで月日は明らかにされていない。「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る毎津トキ氏は記憶によると「十二月の暮れも明けた頃」であったとしている。現在余市町役場に保存の「除籍原簿」によると「出生、明治三十五年一月一日」とある》

 とあります。
 トキさんの「十二月の暮れも明けた頃」というのはよくわかりませんが、まあ暮れは暮れということなんでしょうね。あと、「「コタン」の年譜が北斗自ら記してあったものである」というのは、なかなか魅力的な記述です。本当なら、昭和5年版のコタンの「年譜」もまた、北斗の「遺稿」であるということです。そういうことなら、もっと尊重する必要ありますね。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 22:46 [451] [引用]

 
(4)小樽新聞

・大正13年9月27日

 勝峰晋風の「余市より」という記事。
 「にひはり」の勝峰晋風が余市の句会に参加し、北斗に出会ったことが書いてあります。

《(前略)出席者に北斗子を見たのはうれしかった、北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうという気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨にうたれたのである、この句会にも
  落林檎 石の音して転けり   
                 北斗
の如き、既に月並みを脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくてしたしく談話し得なかったのを遺憾とする(後略)》

 つまりは、上京前の大正13年の8月の時点で、すでに「アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやう」という思想を持っていたということですね。
 文中の如翁は奈良直弥先生の俳号。

・昭和4年3月2日

 山上草人の短歌が載った同じ回に、次のような短歌がありました。

《幌武意 加藤未涯

 眼をとぢてコタンの歌を口にせば
 命ほろびたひとの尊とさ     》

 これも北斗のことでしょうね。

・昭和4年3月4日

《文芸消息

 ▲違星北斗遺稿集 本道が生んだ唯一のアイヌ歌人違星北斗は既報の如く病死したので友人余市小学校古田謙一君は近くその遺稿集を出すべく準備中  》

 なるほど、死の1ヶ月後の時点で、遺稿集の発行は紙面でアナウンスされていたんですね。
 古田謙一は謙二の間違い。


管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:15 [452] [引用]

 
・昭和5年9月27日

「違星北斗遺稿『コタン』を読む」稲畑笑治

 『新短歌時代』では、北斗を高く評価していた(というより、北斗に心酔していたという感じさえする)稲畑笑治の、「コタン」の紹介ですね。
 後日、詳しく紹介しますが、新発見としては、以下のような記述があります。

《仆るゝまで彼の胸中は亡びゆく民族解放運動の熟火に燃えていた。同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン族の解放運動へ奮起すべき念願を蔵して焦燥と悲憤の瞳を閉ぢたのである。》

 これは、ビックリですね。北斗は、アイヌ以外の北方少数民族とも連携を考えていたのです。
 北斗が生れた余市コタンは、樺太アイヌとの交流が深いコタンでしたし、樺太に出稼ぎにも行っていたので、自然に視野が広くなったのかもしれませんね。

《又、手宮洞窟の「古代文字」に就いても世評の妄夢を一掃すべくアイヌとしての土俗学的見地よりうん蓄を公開すべく研鑽を重ねて居た》

 これも……フゴッペだけでなく、手宮洞窟の古代文字についても書く気があったということですね。
  

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:36 [453] [引用]

 
・北斗ではない「北斗」さんの作品

 昭和4年1月17日 

「北海俳壇」に「札幌」の「北斗」さんより

《枯れ木の葉ポプラの枝の残りをり》の俳句。

 違星北斗ではないでしょう。おそらく……。当時、北斗は寝たきりでしたから、札幌に行けるわけはありません。
 しかし……妙にしっくりくる感じもありますね。シチュエーションとしては、O・ヘンリの「最後の一葉」みたいですが。古田謙二が北斗について書いた文章に「落葉」というのもありますし。
 
 もう一人。

 昭和4年1月1日

「新川柳」

 「帯広」の「北斗星」さんから。

 《寂しさの心にひとり火をいぢり》

 違星北斗っぽい気もしますので、もしかしたら……と思いましたが、これも違うでしょう。帯広ですし、北斗ならサビシイは「淋しい」と書くでしょうし。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:49 [454] [引用]





 間違い発見  [返信] [引用]

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る


この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 02:03 [449]





 平取での在所  [返信] [引用]
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬〜10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 八重子や吉田ハナらと教会でいっしょだったとすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ているのではないか。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 01:58 [448]





 無題  [返信] [引用]
「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」より。

《1926.07.27 「有馬博士一行/アイヌ結核調査」〈8月1日から、日高地方で、北海道帝国大学医学部の有馬博士と助手2名が、「アイヌの結核調査」に当たる予定になっていることが、『小樽新聞』で報じられた。》

 これは、北斗の日記のこの記述と関係しますね。

八月十一日 水曜日


有馬氏帰札、曰く
一、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事
二、当面の問題としては経済的発展が第一である事


 これでしょうね。

 


 

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 00:07 [447]





 北斗の姿  [返信] [引用]
 「アイヌ史新聞年表『小樽新聞』(大正期II・昭和期I)編」という本を入手。
 これは、國學院短期大学コミュニティカレッジセンターが刊行しているもので、明治時代からの小樽新聞の中で、アイヌに関する記述を集めた目録の3冊目にあたる本です。
「大正期II・昭和期I編」は、大正11年から昭和5年を収録しています。
 ちょうど、北斗が活躍した頃のものになるので、北斗に関する記載はないかと探してみたら、大変な発見がありました。

1929年(昭和4)年1月30日に、余市の歌人・山上草人の短歌が掲載されています。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ
 

 北斗の闘病末期の姿を映した短歌です。
 
 また、北斗の死後の2月17日には、札幌の上元芳男による短歌が掲載されています。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 3月2日にも、山上草人の北斗に関する短歌が掲載されています。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ


 さらに、3月8日にも余市の山上草人による短歌があります。

  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう


 さらに、幾春別の木芽伸一による「違星北斗君の死をいたむ」と題された短歌

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 
管理人  ++.. 2008/11/28(金) 16:44 [431]

 
 それぞれの人の短歌について、いろいろ思うところを書きたいと思います。まず、山上草人の短歌です。

  夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる

 夕日の中で真っ赤に染まった北斗のやつれた姿や表情が絵が浮かんでくるようです。
 
  やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

 北斗にはひげの濃さを気にする短歌もあり、元気な頃の北斗は、毎日ひげをあたっていたのだと思います。しかし、闘病生活の中で、ひげも伸び放題になっていたのでしょう。「アイヌになって」というのは、もちろん、アイヌである北斗に向って「アイヌになつて」という意味は、複雑なものがあります。読み手である山上草人がどういう意味を込めたのかは不明です。

  この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

 これは、そのまま、北斗の言葉でしょう。胸の苦しさを、コロポックルに肺を蹴られていると譬え、最後に「畜生!」とは、なんとも北斗らしいと思います。

  忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

 これも、北斗らしい。かつての心の輝きを失って、欲望に突き動かされる同族たちへの怒り。もちろん、滅びてしまへとは反語です。
 読み手の余市の山上草人とは誰なんでしょうか。

  遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

 北斗の死の直後から、遺稿集を編んでやりたいという人がいたのということですね。旧かな遣いで「染むだ」は一瞬読み方に迷いますが、現代表記では「染んだ」ということですね。

  クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

 クレグールは消毒液のクレゾールのことでしょう。古田謙二の証言にも、北斗の死後、消毒液の匂いのプンプンする部屋に入り、枕もとのボストンバッグから日記を取り出した、というようなものがあり、この短歌とも一致します。
 現在読むことのできる北斗の日記には、「歪んでいる」というようなところはあるとは思わないのですが、確かに闘病中に北斗が金田一に送った手紙は、あるいは歪んでいるといわれても仕方ないようなところも見られました。
 こういう「歪んでいる」という部分は、編集した古田謙二や希望社の編集者にカットされてしまったのかもしれません。
 
  「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

 この内容の日記も、現在の遺稿集には見つからないですね。同じような内容の短歌はあります。

  金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ

 これは日記にありますね。
 
  「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

 これは、北斗の日記の絶筆の短歌の一つ「いかにして「我世に勝てり」と叫びたるキリストの如安きに居らむ」のことですが……。
 北斗は「神なんかいないいない」と言ってたんですね。 バチラー八重子たちにも同じようなことを言っていたのでしょうね。「キリスト教ではアイヌは救えない」というのが北斗の持論でした。
 一方で、北斗は国柱会の信者になったりもしていましたが、仏教徒だからという意味で神を否定している感じでもないですよね。国柱会については、それに関する北斗自身の記述がありませんので、信仰が一過性のものだった可能性もあります。
 北斗の辞世の短歌に関しては、私は「どうやったら、キリストみたいに、自分の死ぬ前に、『私は世界に勝った』と言えるんだよ、そんなことあるかよ、畜生!」っていう意味だと思っています。
 この山上草人は、そういう取り方じゃなく、「ほら、やっぱり神様キリスト様のことを書いているじゃないか」っていう意味にとっているんじゃないでしょうか。山上さんはクリスチャンなのかもしれない。
 もしかして、「古田謙二」? 違うか。

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

 これは北斗が並木凡平の歌を愛唱していたということでしょうか。では言い寄ったとはどういうことだろう?
 察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

  シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

 この日記はいつの日記だろうか。日記には淋しいという言葉はけっこうあるし、失われてしまっている日記かもしれない。

  ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

 北斗の死の直後から、歌碑を造りたいという人はいたんですね。結局は死後40年近くたった昭和43年、それも余市ではなく平取に建ちます。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 17:58 [432] [引用]

 

 札幌の上元芳男による短歌。

  風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

  アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ
 

 この上元芳男氏は、作曲家・指揮者、音楽教育に活躍された方のようですね。北海道内の学校の校歌を多数作曲しています。
 

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 18:39 [433] [引用]

 
 幾春別の木芽伸一の短歌。

  亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

 当時、アイヌは新聞上でも公然と「滅びゆく民族」として語られていました。それは金田一京助のように、アイヌに対して理解や同情がある(と自分では思っている)和人であっても、アイヌは滅びゆくものだ、という認識が前提としてありました。それに反抗したのが北斗であったわけです。

  泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

 さて、これはどう読むべきか。
 北斗に妻子があったことはすでに明らかにはなっていますが、この読み手がそれを知っていてそう書いたのか。
 「おもはれて」は「思はれて」なのか、泣きくれて「面腫れて」なのか。
 やっぱり、素直に読めば、北斗の妻子のことが「思われて」ということなんだろうな。

 読み手の木芽さんは歌人で、1930年、「秋風の道」という歌集をだしているようです。幾春別は現空知支庁三笠市。当時は炭鉱で栄えていたようです。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:05 [434] [引用]

 
その他、北斗関連の記事。

1924年9月27日 

<余市より/晋風」<余市の句会で、晋風が違星北斗と出会ったこと、同句会で違星北斗が「落林檎石の音して転けり」と詠んだ句を出したことなどが、『小樽新聞』で紹介された>

 これは「にひはり」大正13年11月号に掲載されている余市にひはり句会のことですね。小樽新聞にも掲載されていたんですね。晋風は勝峰晋風です。

管理人  ++.. 2008/11/28(金) 19:24 [435] [引用]

 
山上草人のことを調べようと、「余市文教発達史」を入手。

しかしながら、ヒントはつかめず。「後志歌人伝」にも載っていない。無名の人だったんだろうか……。

ただ、全く関係ないことで、この本は役に立ちそう。北斗の友人だった鍛冶照三が先生だったとか、北斗に影響を与えた島田先生の人となりとか、いろいろと役にたつことが書いてあります。

管理人  ++.. 2008/12/05(金) 13:22 [436] [引用]

 
>  察するに、山上草人は『新短歌時代』の同人なのかもしれませんね。余市で行われた歌会での出来事かもしれません。 

 これは違うようです。
 また、「余市文教発達史」にも名前は見あたりません。
(ここには関係ないけど、北斗と親があったという鍛冶照三は余市の先生でした)。

管理人  ++.. 2008/12/25(木) 23:09 [444] [引用]

 
山上草人と古田謙二は同一人物なのかどうか。

古田謙二の号は冬草。山上草人も「草」がついているけど……どうなんだろう。

ちなみに、「上山」草人は日本初のハリウッドスター。この山上草人とは関係ないか。もしくはそれももじった名前なのかもしれないが……あと、山上宗二(やまのうえ・そうじ)という茶人(千利休の弟子)がいるけど……わかりませんね。

北海道に行ったら、地元の資料を探してみよう。


管理人  ++.. 2009/01/09(金) 12:05 [445] [引用]

 
読み直していたら、もう一編あった。

小樽新聞1929年3月21日の短歌欄に

「何気なく古新聞を手に取れば死んだアイヌの歌が眼をひく」

という、江部乙の本吉心星による短歌が載ったようです。

北斗の名前は出ていないですが、これもまた北斗でしょう。

管理人  ++.. 2009/01/12(月) 19:58 [446] [引用]








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