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コタンBBS

違星北斗研究会
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 NHK「いちょう団地」  [返信] [引用]

 今日、NHKで放送していた

 「ヒューマン ドキュメンタリー 大きな いちょうの 木の下で〜いちょう団地に生きる子どもたち」

 という番組を見ました。

 神奈川県の「いちょう団地」にはベトナムやラオス、カンボジア出身で、難民として日本にやってきた親たちと、彼らの日本生まれの子供たちが多く暮らしている。また、帰国した中国残留孤児の孫たちもいる。

 その子供たちは、日本で生まれ、ずっと自分が「日本人」だと思って育ってきた。
 しかし、ある時に、自分はそうではないのか?と思い始める。
 彼らの親たちはうまく日本語が喋れず、子供たちは母国語を話せない(あるいは話したがらない)。
 一番コミュニケーションが必要であるはずの親と子の間に、「だんだんと言葉が通じなくなってくる」という巨大な壁が立ちはだかってくる。

 そんな中、教師は教室に子供たちの親と同じ難民の女性を呼び、彼女がどのようにして故郷を後にしたのかということを語らせる。子供たちに自分のルーツに目を向けさせるために。

 ・・・とても興味深い番組でした。
 
 
 カメラが映し出す子供たちのアイデンテイティのありようが、北斗が語る彼の「子供時代」を思い起こさせました。
 
 ただ、知里幸恵の「その時歴史は動いた」の時にも感じたような、製作者の影がちらつくような構成への違和感はありましたが、まあ、そういうことはおいといても、非常に考えさせられる番組でした。 

 
管理人  ++.. 2009/07/16(木) 02:22 [475]





 歴史地理教育  [返信] [引用]
O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

 
管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:14 [462]

 
さてさて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。
 キャプションは

 違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)
 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。
「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここに出てくるものでしょうね。
 
 

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:26 [463] [引用]

 
クリックで拡大表示 ( .jpg / 51.8KB )

 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:33 [464] [引用]

 
さてさて。

北斗の未確認文書がある場所がわかりました。
見てみたいものですね。

しかし、沖縄は遠い……。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:47 [465] [引用]

 

 いろいろとありまして、ご報告が遅れました。

 沖縄県立美術館博物館の方から、閲覧させていただきました。
 
 「沖縄教育」第146号(大正14年6月1日発行)
です。

 伊波普猷の「目覚めつゝあるアイヌ種族」が掲載されている同じ号に、

 ・違星北斗の「アイヌの墨絵とアイヌ学会のよせ書き」(口絵)

 ・巻末の「雑纂」という扱いで、違星北斗の

  「ウタリ、クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」
  (アイヌ 違星北斗)
 
 ・同じく「雑纂」に

  「『アイヌ神謡集』の序」(アイヌ 知里幸恵女)

 があります。

 また、「編輯後記」にも北斗の文に関する文章があります。

  

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 21:50 [473] [引用]

 
まず、寄せ書きですが、

一番上に
「大正十四年三月十九日
 第二回東京アイヌ学会
 ヲ開催シ違星氏ノ講話
 ヲ聴キ遙ニ在道一万
 五千ノアイヌ同胞ニ敬意
 ヲ表ス
    東京アイヌ学会

    金田一京助」

 とあり、

 その下に中山太郎の漢詩、
 「君与相対芸窓下 
  半宵清談恙古
   あづま人 中山太郎」
(下線部、達筆すぎてよくわかりませんので自信なし)

 「蘆田伊人」
 「柳田国男」
 「松宮春一郎」
 「宮本勢助」
 「早川孝太郎」
 「坪***」?
 「松本芳生」
 「丸山二郎」
 「杉**人」?
 「灰野庄平」
 「内藤吉之助」
 「濱田三*」
 「*川*三を」?
 「岡村千秋」
 「宮**義」?
 「三上*人」?

 そして、はしっこの方に

 「所見異所聞異
  此心同此理同
    *人 伊波普猷」
 
 とあります。

 北斗のサインは「※北斗生」
(正確には「※」の左右の点はありません。違星家のエカシシロシ、家紋です)。

 
 読めない字だらけでもうしわけありません。
 今後、気合いを入れて解読していきます。
 
 

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 23:38 [474] [引用]





 北斗の墓について  [返信] [引用]
北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。

 
管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:46 [467]

 
「北海道の研究7」を確認したところ、「アイヌの送葬習俗」(原田喜世子)という論文の中に、各地のアイヌの墓標に関する記述があり、「樺太西海岸地域」の墓標の特徴について述べたところに、次のような記述がありました。

 加えて、その他道内では、余市の違星北斗氏の墓標に×印がつけられているが、股木に見事な彫刻が施されていることから、これもこの系統に属してよいと考える。
 


 文脈をだいたい説明しますと、樺太西海岸地域の真岡・多蘭泊・大泊のアイヌの墓標は、北海道では余市町や紋別市渚滑に類似の墓標の分布が認められ、道内の他の地域には見られないといったことが書いてあります。
 
 なるほど、この文面通り、北斗の墓がこのようなものであったとすると、北斗が余市の違星家の墓に葬られていなかった理由もわかる気がします。
 余市の墓は1943年に亡くなった甚作から入っています。おそらく甚作の死後に梅太郎が「本家」の墓として建てられたものでしょう。墓碑銘にアイヌプリで葬られた北斗が入っていなくてもおかしくはないと思います。

 ただ、その墓が本当に違星北斗の墓なのか、それとも違星家の墓なのか。別ルートでの確認が必要だとも思います。 

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:51 [468] [引用]

 
 奥付によれば、原田氏は1958年生まれ。
「北海道の研究7」は昭和60(1985)年の発行。

 原田氏は「北斗の墓」を自分の目で見たのか、それとも史料で見ただけなのかはわかりませんが、もし実物を見たのであれば、すくなくとも1980年代ぐらいまで、北斗の墓標は存在していたということになります。
 

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:17 [469] [引用]

 
 Tさんからのメールにあったのですが、墓地の下の石材屋さんが、何か知っていたかもしれないですね。

 あるいは、地元の郷土史家の方に聞いてみたら何か知っているかもしれない。
 それから……もしかしたら、違星北斗のものかどうかは別として、単なる「余市アイヌの墓標」として、資料が残っている可能性もなきにしもあらずですね。
 こんど行った時に聞いてみよう。

 あと……原田氏ご本人に伺うのが一番早いかもしれませんね。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:23 [470] [引用]





 北斗帖  [返信] [引用]

 メルマガの最終原稿を書いていて気づいたのですが、最初の希望社版「コタン」には「私の短歌」とだけあり、「北斗帖」のタイトルは84年版でつけられたものです。

 もちろん、「北斗帖」とは北斗の死後の遺稿の中にあった墨書自選歌集の名前ですが、これは未発見なので、「コタン」の「私の短歌」=墨書自選歌集「北斗帖」というのは、じつは北斗の意図ではなく、84年版編集者による編集なのだということに気づきました。

 つまり、現在青空文庫などで流布している「北斗帖」の他に、墨書自選歌集としての「北斗帖」があり、それはかならずしもコタン版とは一致しないということ。

 もう一つ、「私の短歌」というタイトルは、歌集にではなく、「私の歌はいつも論説の……」という、北斗による自作解題の文章につけられたものである可能性がある(高い?)ということ。

 と、こんなこと書いてる間に、メルマガの原稿をなんとかしなくっちゃ。

 
管理人  ++.. 2009/02/23(月) 03:36 [461]

 
↑の件、わかりにくいので整理すると。

つまり順番として

(1)墨書の「北斗帖」があり(詳細不明)、

(2)希望社版(1930年)コタンに「私の短歌」「俳句」があり、

(3)84年版コタンにおいて、「私の短歌」「俳句」を一つの章とし、その冒頭にはじめて「北斗帖」のタイトルが付される。(ただし、その内容が(1)の墨書版北斗帖と同一である保証はない)。

(4)青空文庫等で公開され、「北斗帖」=『コタン』掲載の歌句集「私の短歌」「短歌」ということになった。

 つまり、現在の「北斗帖」は北斗が「北斗帖」と呼んでいたものと同一ではない可能性が高い。
 現在のものは、84年版の編集者によって便宜上つけられた「北斗帖」(=「私の短歌」「俳句」)が青空文庫で切り分けられ、一人歩きしたものであるといえます。

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 18:47 [466] [引用]





 年譜にミス  [返信] [引用]
年譜を時期ごとに分割したときに、間違いをしていて、それを残したままでした。すみません。

内容的なことではなく、昭和2年の10月〜12月の掲載情報などが「余市時代」と「行商時代」の両方に重複していたというケアレスミスです。

直しましたので、プリントされている方がいらっしゃれば、差し替えいただければ幸いです。

 
管理人  ++.. 2009/02/15(日) 00:30 [460]





 朝日新聞 「北のことば抄」  [返信] [引用]
平成20年7月19日 朝日新聞北海道総合面

「北のことば抄」

 平取に浴場一つ欲しいもの
 金があったら建てたいものを
 滅亡に瀕するアイヌ民族に
 せめては生きよ俺の此の歌
(違星北斗 「コタン」=『北海道文学全集 第十一巻』=立風書房)
 金田一京助は随筆「違星青年」に「彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えて行った違星生」と追悼しているが、1901(明治34)年に余市で生まれ、29(昭和4)年に28歳の若さで没した。アイヌ民族三大歌人の一人といわれる。社会主義思想を持ち、民族の解放と自覚を訴えつづけて倒れたが、短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響によるところが大きい。故郷の余市に句碑、二風谷には歌碑が建っている。

 
管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:07 [457]

 

 極めて短い文ですが、正しくないところが2点。
(3点かな)。

(1)違星北斗は社会主義思想を持っていた。

 ……そんなバカな。
 こんなことが書いてあるのは湯本喜作の「アイヌの歌人」ぐらいですが……あの本はちょっと……。
 そもそも「コタン」を読んだ人であれば、北斗の思想に社会主義思想がこれっぽっちもない(むしろ好きではなかった)ことがわかるはずです。
 そもそも、民族解放と社会主義って、あんまり合わない気がしますが。

(2)28歳で没→27歳で没。

(3)短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響→短歌は八重子に会う前から詠んでおり、あまり影響を受けていないようです。


管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:16 [458] [引用]

 
 これ、記名記事だったんで、どうせ、若い新聞記者が適当に調べて書いたんだろうと思って、あえて名前を書かなかったんですが……。 
 これ書いた人、ものすごい偉い先生じゃないですか。
 
 K原N彦センセッ、いろいろ間違ってますよッ!
 
 
 

管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:25 [459] [引用]





 北斗死後80年  [返信] [引用]
 本日、1月26日は、北斗の命日です。
 今年は没後80年でした。

 参加者がゼロでしたので、お墓参りは私だけで行いました。

 25日、午後2時。
 
 だんだんと雪がつよくなってくる中、余市の違星家のお墓へ。
 
 私の考えが甘かった。北海道をなめていました。

 ……この時期にお墓参り、無理でした。

 お墓は観音像の、ちょうどまっすぐ後ろあたりですが、山の斜面のお墓には、「雪原」を超えていかねばならないのでした。

 とても、そこまではいけないので、観音様にお花を捧げ、はるか彼方のお墓を拝んできました。
 

 墓に来て 友になにをか 語りなむ. 言の葉もなき 秋の夕暮れ

            ――バチラー八重子が北斗の墓で詠んだ歌

 
管理人  ++.. 2009/01/26(月) 23:54 [455]

 
クリックで拡大表示 ( .jpg / 41.3KB )

 その後、余市の図書館で調べもの。
 病床の北斗の姿を歌に詠んだ山上草人の正体を突き止めようとしましたが、結局わかりませんでした。
 
 写真は夕闇の余市川。
 対岸の奥のあたりが、北斗の生まれ育ったコタンのあったあたりです。

 
 余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下        
                              北斗

管理人  ++.. 2009/01/27(火) 00:04 [456] [引用]





 というわけで  [返信] [引用]
冬の北海道に行ってきます。

1/24〜27の3泊4日です。

お墓参りのは1/25、26とも参加者が「ゼロ」ということで、自分一人で行ってきます。

まあ、マイペースな「調査」がメインになり、ちょっと気は楽です。

また報告します。
 


 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 22:16 [450]

 
道立図書館にて、資料調べ。

(1)「汎北海道」創刊号(昭和29年12月1日発行、汎北海道社、東京)に北斗の記事あり

「アイヌ民族の二つの星 文博知里氏と歌人北斗」

 無記名記事。

(2)「山音」48号(昭和44年10月10日発行、山音文学会、虻田郡豊浦町)

 「違星北斗の歌と生涯」 早川勝美。

 北斗の評伝です。
 さすが早川勝美さんです。
 この方は余市でご遺族に詳細に調査していますので、何点か未見の情報がありました。 

・ガッチャキ行商の時、
《箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた北斗の姿は、忘れようとしても忘れる事の出来ない思い出となった」と語るのは北斗を知る一老人の述懐であり彼の記憶の中にいまなお生きている北斗の姿である。》
 という証言。

・《酒のめばアイヌもシャモも同じだテ
    愛奴のメノコ嗤っています
 この短歌一首は、昭和三十九年八月二十六日、北斗の最後まで良く面倒をみた彼の遠縁にあたる海津トキ氏(余市町大川町番外地在住、八十七歳)所蔵のもので、ワラ半紙に、毛筆で書いたものであった。作歌月日は、昭和三年七月とあるだけで、日時は明瞭ではない。》

 海津氏は「梅津」氏の間違いです。
 この歌自体はコタンに収録されていますが、こういう
半紙が現存していた、ということですね。

・北斗をモデルにした創作として、
《「墓穴」大沼貞雄(昭27・7「瓶風」10号)》
 というのがあるらしい。

・北斗の生年月日について

《「コタン「違星北斗遺稿集」所載の年譜をみると「明治三十四年生れ」とあるだけで月日は明らかにされていない。「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る毎津トキ氏は記憶によると「十二月の暮れも明けた頃」であったとしている。現在余市町役場に保存の「除籍原簿」によると「出生、明治三十五年一月一日」とある》

 とあります。
 トキさんの「十二月の暮れも明けた頃」というのはよくわかりませんが、まあ暮れは暮れということなんでしょうね。あと、「「コタン」の年譜が北斗自ら記してあったものである」というのは、なかなか魅力的な記述です。本当なら、昭和5年版のコタンの「年譜」もまた、北斗の「遺稿」であるということです。そういうことなら、もっと尊重する必要ありますね。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 22:46 [451] [引用]

 
(4)小樽新聞

・大正13年9月27日

 勝峰晋風の「余市より」という記事。
 「にひはり」の勝峰晋風が余市の句会に参加し、北斗に出会ったことが書いてあります。

《(前略)出席者に北斗子を見たのはうれしかった、北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうという気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨にうたれたのである、この句会にも
  落林檎 石の音して転けり   
                 北斗
の如き、既に月並みを脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくてしたしく談話し得なかったのを遺憾とする(後略)》

 つまりは、上京前の大正13年の8月の時点で、すでに「アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやう」という思想を持っていたということですね。
 文中の如翁は奈良直弥先生の俳号。

・昭和4年3月2日

 山上草人の短歌が載った同じ回に、次のような短歌がありました。

《幌武意 加藤未涯

 眼をとぢてコタンの歌を口にせば
 命ほろびたひとの尊とさ     》

 これも北斗のことでしょうね。

・昭和4年3月4日

《文芸消息

 ▲違星北斗遺稿集 本道が生んだ唯一のアイヌ歌人違星北斗は既報の如く病死したので友人余市小学校古田謙一君は近くその遺稿集を出すべく準備中  》

 なるほど、死の1ヶ月後の時点で、遺稿集の発行は紙面でアナウンスされていたんですね。
 古田謙一は謙二の間違い。


管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:15 [452] [引用]

 
・昭和5年9月27日

「違星北斗遺稿『コタン』を読む」稲畑笑治

 『新短歌時代』では、北斗を高く評価していた(というより、北斗に心酔していたという感じさえする)稲畑笑治の、「コタン」の紹介ですね。
 後日、詳しく紹介しますが、新発見としては、以下のような記述があります。

《仆るゝまで彼の胸中は亡びゆく民族解放運動の熟火に燃えていた。同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン族の解放運動へ奮起すべき念願を蔵して焦燥と悲憤の瞳を閉ぢたのである。》

 これは、ビックリですね。北斗は、アイヌ以外の北方少数民族とも連携を考えていたのです。
 北斗が生れた余市コタンは、樺太アイヌとの交流が深いコタンでしたし、樺太に出稼ぎにも行っていたので、自然に視野が広くなったのかもしれませんね。

《又、手宮洞窟の「古代文字」に就いても世評の妄夢を一掃すべくアイヌとしての土俗学的見地よりうん蓄を公開すべく研鑽を重ねて居た》

 これも……フゴッペだけでなく、手宮洞窟の古代文字についても書く気があったということですね。
  

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:36 [453] [引用]

 
・北斗ではない「北斗」さんの作品

 昭和4年1月17日 

「北海俳壇」に「札幌」の「北斗」さんより

《枯れ木の葉ポプラの枝の残りをり》の俳句。

 違星北斗ではないでしょう。おそらく……。当時、北斗は寝たきりでしたから、札幌に行けるわけはありません。
 しかし……妙にしっくりくる感じもありますね。シチュエーションとしては、O・ヘンリの「最後の一葉」みたいですが。古田謙二が北斗について書いた文章に「落葉」というのもありますし。
 
 もう一人。

 昭和4年1月1日

「新川柳」

 「帯広」の「北斗星」さんから。

 《寂しさの心にひとり火をいぢり》

 違星北斗っぽい気もしますので、もしかしたら……と思いましたが、これも違うでしょう。帯広ですし、北斗ならサビシイは「淋しい」と書くでしょうし。

管理人  ++.. 2009/01/24(土) 23:49 [454] [引用]





 間違い発見  [返信] [引用]

旅に出てアイヌ北斗の歌思ふ こヽがコタンかしみ/゛\と見る


この短歌はずっと並木凡平のものかと思っていましたが、小樽新聞の紙面をみたら、間違っていることに気づきました。
 これは石狩の齋藤輝子の作品でした。

 この歌の後ろに並木凡平の名前があったのですが、凡平はその次の短歌の作者でした。
 修正しておきます。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 02:03 [449]





 平取での在所  [返信] [引用]
北斗の平取での住所については、情報がいろいろありますが、おおよそ次の二カ所に絞られます。

(1)「忠郎」氏宅。

 大正15年7月。北斗が北海道に戻り、幌別のバチラー八重子に、アイヌの信仰を持っている家庭を紹介して欲しいと頼んだ。(金田一宛・違星北斗書簡)
 平取で、平取教会の岡村神父夫妻に「忠郎」氏を紹介してもらった。(「違星君の平取入村時の思い出」)

 
(2)義経神社下のバチラー八重子が管理する借家。

 もともとブライアント女史の家だったところで、八重子が譲り受け、吉田ハナが管理していた。
  
 で、これは(1)が1926(大正15)年、(2)がおそらく翌年の1927(昭和2)年の住所ではないかとと思います。
 
 北斗は昭和2年に約3ヶ月の空白期間がある。(8月中旬〜10月下旬)

 バチラー八重子が平取に異動するのが昭和2年。
 八重子や吉田ハナらと教会でいっしょだったとすればやはり昭和2年も北斗は平取に来ているのではないか。

 
管理人  ++.. 2009/01/23(金) 01:58 [448]








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