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コタンBBS

違星北斗研究会
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 コタン  [返信] [引用]
希望社版コタン(昭和5年)はたまにヤフオクに出るのですが、いつも結構高い。

私が持っているのは古書店で2万円でした。最近は一万円前後でしょうか。

私の持っているコタンは、傷みが激しく、今にも崩れそうなので、
新しいのを(というか、80年前の本なので、古いんですが)探していました。

ところが、こないだヤフオクで出品されていたのを見て驚きました。

500円から!

なんとも、もったいないというか、ありがたいというわけで、入札。

結局、2000円で落札できました。


それにしても開始価格500円とは……。

 
管理人  ++.. 2009/12/27(日) 02:58 [483]





 無題  [返信] [引用]
江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり


江口カナメが北斗について言及している短歌あるとは。
見落としていました。

 
管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:16 [481]





 日本巫女史  [返信] [引用]
北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節
(略)
アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)
〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。

 
管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:36 [471]

 
(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 このHPはすごい。「日本巫女史」が全文掲載されていて、検索したら引っかかりました。

 中山太郎は、北斗と親しかったようで、よく手紙のやりとりもしていました。
 北斗から「承った」ということですが、在京中に中山にカムイシロシの話をしたのか、手紙で伝えたのかはわかりませんね。
 でも、フゴッペの話が出ていないところを見ると、もしかしたら東京時代に語った話かもしれませんね。
 だとしたら、北斗のアイヌの遺跡への興味は、上京前からすでにあったということになります。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:51 [472] [引用]

 
ご引用有難う御座います。
電子テキスト化については自分が発案したのですが、いつのまにテキスト化分が追い越されまして、たちゃな氏の精力ぶりには脱帽せざるを得ませんです。逆に此方は校正に回ってます。

もし、ご覧に頂く頃、何か誤植を発見しましたら、是非ご一報お願い致します。では。

浦木裕 [URL]  ++.. 2009/08/15(土) 13:08 [479] [引用]





 山上草人とは  [返信] [引用]

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……


 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。


 ところが、

 
管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:45 [476]

 

 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。


管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:48 [477] [引用]

 
古田謙二(冬草)=草人は1983(昭和58)年9月30日に84歳で亡くなられています。

84年版コタンに「落葉」が掲載される直前です。あの文章は亡くなられる直前のものなのかもしれません。

遺稿集は、ネット上でpdfでも公開されています。

管理人  ++.. 2009/08/02(日) 01:05 [478] [引用]





 NHK「いちょう団地」  [返信] [引用]

 今日、NHKで放送していた

 「ヒューマン ドキュメンタリー 大きな いちょうの 木の下で〜いちょう団地に生きる子どもたち」

 という番組を見ました。

 神奈川県の「いちょう団地」にはベトナムやラオス、カンボジア出身で、難民として日本にやってきた親たちと、彼らの日本生まれの子供たちが多く暮らしている。また、帰国した中国残留孤児の孫たちもいる。

 その子供たちは、日本で生まれ、ずっと自分が「日本人」だと思って育ってきた。
 しかし、ある時に、自分はそうではないのか?と思い始める。
 彼らの親たちはうまく日本語が喋れず、子供たちは母国語を話せない(あるいは話したがらない)。
 一番コミュニケーションが必要であるはずの親と子の間に、「だんだんと言葉が通じなくなってくる」という巨大な壁が立ちはだかってくる。

 そんな中、教師は教室に子供たちの親と同じ難民の女性を呼び、彼女がどのようにして故郷を後にしたのかということを語らせる。子供たちに自分のルーツに目を向けさせるために。

 ・・・とても興味深い番組でした。
 
 
 カメラが映し出す子供たちのアイデンテイティのありようが、北斗が語る彼の「子供時代」を思い起こさせました。
 
 ただ、知里幸恵の「その時歴史は動いた」の時にも感じたような、製作者の影がちらつくような構成への違和感はありましたが、まあ、そういうことはおいといても、非常に考えさせられる番組でした。 

 
管理人  ++.. 2009/07/16(木) 02:22 [475]





 歴史地理教育  [返信] [引用]
O先生から教えて頂きました。

歴史地理教育2009年3月号(増刊号)
「まるごと学ぶ北海道 ――アイヌ・歴史・暮らし――」に、「沖縄教育」誌に掲載された違星北斗の未発見文書に関連する記事があるとのことで、取り寄せて読んでみました。

 掲載されている「違星北斗に出会った伊波普猷」(近藤健一郎、全2ページ)によると、

 沖縄県教育会機関誌『沖縄教育』第一四六号(一九二五年六月)にアイヌ青年違星北斗による「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」という論考が掲載されている(沖縄県立博物館・美術館所蔵)。この論考は『沖縄教育目次集』(那覇市企画部市史編集室、一九七七年)に掲載されていたものの、雑誌の所蔵が不明であったため原文は知られずにいた。

 なるほど。この「沖縄教育」に関しては、沖縄の図書館の蔵書検索をしてみたりしてたんですが、見つかっていませんでした。あるところには、やっぱりあったんですね。

 北斗の言葉も引用されています。

「アイヌが日本化することを無上の光栄とするは誠に美しい人情であつて真にそうある可きでありますが、それがためにアイヌ自身を卑下するに至つては遺憾千万である。アイヌを卑下しては永遠にアイヌ民族の名を挙げることは出来ない。アイヌ自身が自重して進むことである」

 
管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:14 [462]

 
さてさて。

「歴史地理教育」のこの記事には、一枚の写真が掲載されています。
 キャプションは

 違星と伊波が出会ったアイヌ学会(1925年)において、違星による墨絵に出席者が寄せ書きしたもの。
「伊波普猷」の名も見える(『沖縄教育』)
 
 
 とあり、細長い紙の下の方に囲炉裏端に座っているアイヌ男性の絵があり、上の方に小さくて判読できないですが、寄せ書きがしてあります。

 これは、伊波の「目覚めつつあるアイヌ種族」にも書かれている寄せ書きでしょう。
「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集』より)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あとで金田一君が違星君は画も中々上手であるといつて、アイヌの風俗をかいた墨絵を二枚程出しましたが、なるほどよく出来てゐました。博文館の岡村千秋氏が、北海道の内務部長に自分の友人がゐるが、この絵に皆で賛を書いたり署名をしたりして、奴におくつてやらうぢやないか、さうしたら、アイヌに対する教育方針を一変するかも知れないから、といつたので、中山氏が真先に筆を走らして、「大正十四年三月十九日第二回東京アイヌ学会ヲ開催シ違星氏ノ講話ヲ聴キ遙ニ在道一万五千ノアイヌ同胞ニ敬意ヲ表ス」と書き一同の署名が終りました。私は所見異所聞違此心同此理同といふ文句を書添へました。(中略)先日博文館の編輯局に寄つた時、違星君の絵に皆で寄せ書きをしたものゝ写真を貰つて来ましたので、一枚送つて上げますから、雑誌の口絵にでもして下さい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここに出てくるものでしょうね。
 
 

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:26 [463] [引用]

 
クリックで拡大表示 ( .jpg / 51.8KB )

 掲載されている写真は小さいくてわかりにくいのですが、描かれている絵は、かつて余市の水産博物館でいただいたこの写真の絵とほぼ同じ図案です。(寄せ書きのほうは墨絵なので、すこし感じがちがいますが)。
 こちらの絵には「カムイコニモック(神占)」と書かれていますので、占いの儀式の絵でしょう。北斗がサインをするときの絵のレパートリーの一つなのかもしれません。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:33 [464] [引用]

 
さてさて。

北斗の未確認文書がある場所がわかりました。
見てみたいものですね。

しかし、沖縄は遠い……。

管理人  ++.. 2009/04/25(土) 22:47 [465] [引用]

 

 いろいろとありまして、ご報告が遅れました。

 沖縄県立美術館博物館の方から、閲覧させていただきました。
 
 「沖縄教育」第146号(大正14年6月1日発行)
です。

 伊波普猷の「目覚めつゝあるアイヌ種族」が掲載されている同じ号に、

 ・違星北斗の「アイヌの墨絵とアイヌ学会のよせ書き」(口絵)

 ・巻末の「雑纂」という扱いで、違星北斗の

  「ウタリ、クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」
  (アイヌ 違星北斗)
 
 ・同じく「雑纂」に

  「『アイヌ神謡集』の序」(アイヌ 知里幸恵女)

 があります。

 また、「編輯後記」にも北斗の文に関する文章があります。

  

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 21:50 [473] [引用]

 
まず、寄せ書きですが、

一番上に
「大正十四年三月十九日
 第二回東京アイヌ学会
 ヲ開催シ違星氏ノ講話
 ヲ聴キ遙ニ在道一万
 五千ノアイヌ同胞ニ敬意
 ヲ表ス
    東京アイヌ学会

    金田一京助」

 とあり、

 その下に中山太郎の漢詩、
 「君与相対芸窓下 
  半宵清談恙古
   あづま人 中山太郎」
(下線部、達筆すぎてよくわかりませんので自信なし)

 「蘆田伊人」
 「柳田国男」
 「松宮春一郎」
 「宮本勢助」
 「早川孝太郎」
 「坪***」?
 「松本芳生」
 「丸山二郎」
 「杉**人」?
 「灰野庄平」
 「内藤吉之助」
 「濱田三*」
 「*川*三を」?
 「岡村千秋」
 「宮**義」?
 「三上*人」?

 そして、はしっこの方に

 「所見異所聞異
  此心同此理同
    *人 伊波普猷」
 
 とあります。

 北斗のサインは「※北斗生」
(正確には「※」の左右の点はありません。違星家のエカシシロシ、家紋です)。

 
 読めない字だらけでもうしわけありません。
 今後、気合いを入れて解読していきます。
 
 

管理人  ++.. 2009/06/04(木) 23:38 [474] [引用]





 北斗の墓について  [返信] [引用]
北斗の墓について、Tさんからメールをいただき、ご教示いただきました。
以下、その概要です。

 ・清文堂発行の『北海道の研究7』という本に、
  北斗の墓標を見たという人の話がある。

 ・見事な彫刻が施された股木の墓標とあるので、
  北斗はアイヌプリで土葬されたのではなないか。

 ・土葬されたのであれば、現在もそのままである
  可能性は低いので、改葬時に無縁仏になったのかも
  しれない。

ということでした。
Tさん、ありがとうございます。

なるほど、「アイヌプリ」で土葬されたということは、これまで考えたことがなかったのですが、
あれだけ民族の文化に誇りを持っていた北斗ですから、
彼自身、そういう希望を持っていたかもしれないですね。

それに、北斗の父の甚作や、兄梅太郎はアイヌの文化や
儀式によく通じていたようで、北斗の死後にも彼らが行った儀式の記録が残っています。
ですから、実際アイヌプリで北斗を送ることは可能だったのではないかと推測します。

十分ありえますね。

 
管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:46 [467]

 
「北海道の研究7」を確認したところ、「アイヌの送葬習俗」(原田喜世子)という論文の中に、各地のアイヌの墓標に関する記述があり、「樺太西海岸地域」の墓標の特徴について述べたところに、次のような記述がありました。

 加えて、その他道内では、余市の違星北斗氏の墓標に×印がつけられているが、股木に見事な彫刻が施されていることから、これもこの系統に属してよいと考える。
 


 文脈をだいたい説明しますと、樺太西海岸地域の真岡・多蘭泊・大泊のアイヌの墓標は、北海道では余市町や紋別市渚滑に類似の墓標の分布が認められ、道内の他の地域には見られないといったことが書いてあります。
 
 なるほど、この文面通り、北斗の墓がこのようなものであったとすると、北斗が余市の違星家の墓に葬られていなかった理由もわかる気がします。
 余市の墓は1943年に亡くなった甚作から入っています。おそらく甚作の死後に梅太郎が「本家」の墓として建てられたものでしょう。墓碑銘にアイヌプリで葬られた北斗が入っていなくてもおかしくはないと思います。

 ただ、その墓が本当に違星北斗の墓なのか、それとも違星家の墓なのか。別ルートでの確認が必要だとも思います。 

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 23:51 [468] [引用]

 
 奥付によれば、原田氏は1958年生まれ。
「北海道の研究7」は昭和60(1985)年の発行。

 原田氏は「北斗の墓」を自分の目で見たのか、それとも史料で見ただけなのかはわかりませんが、もし実物を見たのであれば、すくなくとも1980年代ぐらいまで、北斗の墓標は存在していたということになります。
 

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:17 [469] [引用]

 
 Tさんからのメールにあったのですが、墓地の下の石材屋さんが、何か知っていたかもしれないですね。

 あるいは、地元の郷土史家の方に聞いてみたら何か知っているかもしれない。
 それから……もしかしたら、違星北斗のものかどうかは別として、単なる「余市アイヌの墓標」として、資料が残っている可能性もなきにしもあらずですね。
 こんど行った時に聞いてみよう。

 あと……原田氏ご本人に伺うのが一番早いかもしれませんね。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 00:23 [470] [引用]





 北斗帖  [返信] [引用]

 メルマガの最終原稿を書いていて気づいたのですが、最初の希望社版「コタン」には「私の短歌」とだけあり、「北斗帖」のタイトルは84年版でつけられたものです。

 もちろん、「北斗帖」とは北斗の死後の遺稿の中にあった墨書自選歌集の名前ですが、これは未発見なので、「コタン」の「私の短歌」=墨書自選歌集「北斗帖」というのは、じつは北斗の意図ではなく、84年版編集者による編集なのだということに気づきました。

 つまり、現在青空文庫などで流布している「北斗帖」の他に、墨書自選歌集としての「北斗帖」があり、それはかならずしもコタン版とは一致しないということ。

 もう一つ、「私の短歌」というタイトルは、歌集にではなく、「私の歌はいつも論説の……」という、北斗による自作解題の文章につけられたものである可能性がある(高い?)ということ。

 と、こんなこと書いてる間に、メルマガの原稿をなんとかしなくっちゃ。

 
管理人  ++.. 2009/02/23(月) 03:36 [461]

 
↑の件、わかりにくいので整理すると。

つまり順番として

(1)墨書の「北斗帖」があり(詳細不明)、

(2)希望社版(1930年)コタンに「私の短歌」「俳句」があり、

(3)84年版コタンにおいて、「私の短歌」「俳句」を一つの章とし、その冒頭にはじめて「北斗帖」のタイトルが付される。(ただし、その内容が(1)の墨書版北斗帖と同一である保証はない)。

(4)青空文庫等で公開され、「北斗帖」=『コタン』掲載の歌句集「私の短歌」「短歌」ということになった。

 つまり、現在の「北斗帖」は北斗が「北斗帖」と呼んでいたものと同一ではない可能性が高い。
 現在のものは、84年版の編集者によって便宜上つけられた「北斗帖」(=「私の短歌」「俳句」)が青空文庫で切り分けられ、一人歩きしたものであるといえます。

管理人  ++.. 2009/04/30(木) 18:47 [466] [引用]





 年譜にミス  [返信] [引用]
年譜を時期ごとに分割したときに、間違いをしていて、それを残したままでした。すみません。

内容的なことではなく、昭和2年の10月〜12月の掲載情報などが「余市時代」と「行商時代」の両方に重複していたというケアレスミスです。

直しましたので、プリントされている方がいらっしゃれば、差し替えいただければ幸いです。

 
管理人  ++.. 2009/02/15(日) 00:30 [460]





 朝日新聞 「北のことば抄」  [返信] [引用]
平成20年7月19日 朝日新聞北海道総合面

「北のことば抄」

 平取に浴場一つ欲しいもの
 金があったら建てたいものを
 滅亡に瀕するアイヌ民族に
 せめては生きよ俺の此の歌
(違星北斗 「コタン」=『北海道文学全集 第十一巻』=立風書房)
 金田一京助は随筆「違星青年」に「彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えて行った違星生」と追悼しているが、1901(明治34)年に余市で生まれ、29(昭和4)年に28歳の若さで没した。アイヌ民族三大歌人の一人といわれる。社会主義思想を持ち、民族の解放と自覚を訴えつづけて倒れたが、短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響によるところが大きい。故郷の余市に句碑、二風谷には歌碑が建っている。

 
管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:07 [457]

 

 極めて短い文ですが、正しくないところが2点。
(3点かな)。

(1)違星北斗は社会主義思想を持っていた。

 ……そんなバカな。
 こんなことが書いてあるのは湯本喜作の「アイヌの歌人」ぐらいですが……あの本はちょっと……。
 そもそも「コタン」を読んだ人であれば、北斗の思想に社会主義思想がこれっぽっちもない(むしろ好きではなかった)ことがわかるはずです。
 そもそも、民族解放と社会主義って、あんまり合わない気がしますが。

(2)28歳で没→27歳で没。

(3)短歌は敬慕していたバチェラー八重子の影響→短歌は八重子に会う前から詠んでおり、あまり影響を受けていないようです。


管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:16 [458] [引用]

 
 これ、記名記事だったんで、どうせ、若い新聞記者が適当に調べて書いたんだろうと思って、あえて名前を書かなかったんですが……。 
 これ書いた人、ものすごい偉い先生じゃないですか。
 
 K原N彦センセッ、いろいろ間違ってますよッ!
 
 
 

管理人  ++.. 2009/02/05(木) 00:25 [459] [引用]








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