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コタンBBS

違星北斗研究会
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 考現学入門  [返信] [引用]
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 古書店で今和次郎の「考現学入門」を買って読んでいたら、「郊外風俗雑景」という記事があり、大正14年11月の阿佐ヶ谷駅周辺の調査結果がありました。
 ちょうど、北斗がこのあたりをうろうろしていた頃の調査ですね。

 その中に、阿佐ヶ谷駅前の商店街の地図があります。
 
 以前、西川光次郎の「自働道話社」の場所について、
 
 「自働道話」に乗っていた自働道話社(西川光次郎宅)へのアクセス方法には「阿佐ヶ谷の駅を出て、右へ3町、湯屋の前を右に曲がり、二町ばかりいきし所」とあるのですが、そうなると、駅から人は東向きに出て、南に約300m、西に約200m行くことになりますね。
 むしろ、成宗に近い。


 と書きましたが、やはり思った通りでした。
 東向きに出て、右(南)に歩き、湯屋の前を右(西)へ。

 この商店街は、北斗が西川のところに向かう時、何度も通り、時には買い物や食事もしたであろう商店街なんでしょう。

 偶然というか、なんというか。
 今和次郎という人が北斗と同じ時代に東京にいて、たまたま北斗がうろうろしていた時代の東京の郊外の「現代」を克明に遺してくれていることに、本当に、感謝します。

 和次郎が考現学を始めた頃と、北斗が東京に来たのが同じ頃で、調べているのも北斗のいたあたりだということに、運命的なものを感じます。

 もっといえば、日本民俗学の揺籃期に北斗は立ち会っているわけですね。柳田国男の元に、金田一やら今和次郎やら中山太郎やらがいて、そのほとんどは、やがて自分の考えを持って袂を分かってしまうわけですが、北斗はその分かれる前の学者たちの会合にひょっこり顔を出しているわけです。たった1年半しか東京にいなかった北斗だのに。

 北斗は、日本民俗学の黎明期を見た証人でもあったわけです。

 
管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:32 [496]

 
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これは昭和6年の阿佐ヶ谷駅。

(すぎなみ学倶楽部 http://www.suginamigaku.org

管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:42 [497] [引用]

 
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ついでに、北斗のいた頃の新宿。
管理人  ++.. 2010/05/07(金) 01:53 [498] [引用]





 ごぶさたです  [返信] [引用]
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転勤、お引越しとのこと、お疲れ様でございました。
わたしは病状も安定しつつあり、やっとまた北斗に向かう意欲が出てきました。
さて、今月の講談社文芸文庫で川村湊先生編で「現代アイヌ文学作品選」が刊行されました。知里幸恵、真志保はもちろん、バチェラー八重子、森竹竹市、もちろん北斗、そして萱野先生まで、かなり網羅した書籍になっています。
まだわたしは入手していませんが絶対買います!!

ちなみに高円寺ですと駅にある都丸書房がなかなかお気に入りでした。人文社会系が強いです。

 
しおどあやこ(ヴァンペルト)  ++.. 2010/03/13(土) 20:04 [489]

 
補足です。
mixiコミュにも同じ情報を流してますので、そちらもあわせてごらんいただければ幸いです。

しおど  ++.. 2010/03/13(土) 20:07 [490] [引用]

 
しおど様

 お久しぶりです。
 早速購入いたしました。

 北斗は「私の短歌」「俳句」のみの収録でした。
 解説も、あまり北斗のことには踏み込んでいませんが、このような形で大正以降のアイヌの文学の流れが、一冊でわかる本が、手に入りやすい形で出版されるのはありがたいですね。

 ここから、北斗や他の方に興味を持ってくれる人が出てくれると嬉しいです。

 残念なのは、文中にあるアイヌ語への解説があまり充実していないことでしょうか。
 
 あと、北斗の生誕地「余市市」って書いてあるんですが、「余市」って市になったのでしょうか……?
 

管理人  ++.. 2010/03/15(月) 13:11 [491] [引用]

 
>  北斗は「私の短歌」「俳句」のみの収録でした。

購入しましたがまだちゃんと読んでいません。短歌がないのはチョット残念かな…。

>  解説も、あまり北斗のことには踏み込んでいませんが、このような形で大正以降のアイヌの文学の流れが、一冊でわかる本が、手に入りやすい形で出版されるのはありがたいですね。

ありそうでなかった一冊ですからね。>アイヌ文学アンソロ

>  残念なのは、文中にあるアイヌ語への解説があまり充実していないことでしょうか。

そこに関しては、一般のちょいマニアック読書好きを想定して文芸文庫は作られていると思うので、岩波とかで補足してほしいってことじゃないかと思います。

>  あと、北斗の生誕地「余市市」って書いてあるんですが、「余市」って市になったのでしょうか……?

なってないです!なってないですよ!!
誤植です!余市は「町」です。http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/


しおど  ++.. 2010/03/21(日) 15:41 [492] [引用]

 
明治33年/1900年
7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。戸数125戸、人口7,482人。

沿革でもこうなってますよ。ずっと町です。
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/history/yoichinoayumi/nenpyou.htm

しおど  ++.. 2010/03/21(日) 15:44 [493] [引用]

 

あ、「短歌」は入っています。

草風館版でいうところの「北斗帖」が「私の短歌」ということで、北斗の文章とともに入っています。

余市市については、ケアレスミスですね。

「アイヌの姿」が入っていないのはどうなんでしょうかね。
 やはり、小林よしのりとその取り巻きみたいな人たちが恣意的にミスリーディングし易いから省いたのかもしれません。


管理人  ++.. 2010/03/22(月) 14:23 [494] [引用]

 
> 「アイヌの姿」が入っていないのはどうなんでしょうかね。
>  やはり、小林よしのりとその取り巻きみたいな人たちが恣意的にミスリーディングし易いから省いたのかもしれません。

それもあるかもしれませんね。
あとは川村先生は文学畑なので、純粋に文学作品の質という面を重視で作品を選ばれているのかもしれません。
民俗学者や歴史家が編纂したら、また変わっていたかもしれませんけれど。


しおど  ++.. 2010/03/22(月) 19:33 [495] [引用]





 要整理案件  [返信] [引用]
 秋から転勤、会社のトラブルと、ドタバタしっぱなしでしたが、ようやく一息ついて、北斗の方に戻ってきました。
 
 自宅の机や本棚も、引越の時にとりあえずのかたちでやったまま、とても研究ができる状況ではなかったのですが、ようやくやりやすいように整理しました。


1 沖縄教育の「ウタリクスの先覚者・中里徳太郎氏を偲びて」 入力

2 早川勝美 「違星北斗の歌と生涯」再読

3 年表の見直し

4 その他、「コタン文庫」の整理など。

 徐々にやっていきます。

 今年こそは何らかの形でまとまった形にしたいものです。



 
管理人  ++.. 2010/02/07(日) 16:32 [488]





 北斗の人形が!  [返信] [引用]
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これ、見に行きたかったです。

北斗の人形が展示されていたんですね。
ポスターでもど真ん中にいますし。
察するに、北斗上京時の姿ですかね。

けっこう、WEB上にこの展覧会の記事があって、
写真もたくさんあるんですが、
北斗のものは一枚もない。残念です。


この方の作品集があるみたいなんですが、
北斗は載っているのかなあ。



http://www4.ocn.ne.jp/%7eotarubun/bungakukan/kikakuten/kikaku.html

 
管理人  ++.. 2010/01/27(水) 18:44 [485]

 
高円寺のブックカフェ高円寺書房で
「一葉のめがね」という高山美香さんの作品集を購入。

残念ながら北斗は載っていなかったけど、面白い本でした。

気になるのは、北斗の人形と、その展示された文章が知りたい。

 この展示会のネット上の感想には北斗と中原中也について「東京時代に二人は親交があったとかなかったとか」「北斗と中也の接点が阿佐ヶ谷とは」といったような書き込みがあったのですが……マテヨ。


 夢は夢としておいといて……
 ちょっと、可能性としては薄いんじゃないかなあ。

 どういう書かれ方をしていたのか、気になりますね。

管理人  ++.. 2010/02/04(木) 01:28 [487] [引用]





 東京に転居  [返信] [引用]
 仕事の都合で、東京に越してきました。

 それほど意識はしていなかったのですが、いくつかの偶然が重なって、たまたま新居に選んだのは中央線沿線、杉並区高円寺。

 そう。北斗が東京に着いて最初にたずねた西川光次郎のいた「阿佐ヶ谷」や、金田一京助を訪ねた「成宗」(現・成田)の近く。
 そして、北斗が働いていた新宿にも中央線で一本。

 北斗が高尾山に遠足に行ったときに使ったのも、中央線。

 なんだか、感動ですね。
 ほんとに。

 あんまり、時間がないのですが、ぼちぼち、北斗の東京を調べていきたいとおもっています。

 
 
 ちなみに。
 ここに住むことになったのは、家人の希望と、あとは猫が飼える部屋がなかなかなくて、たまたまあったのが高円寺だったということです。
 

 80年前に北斗がうろうろしていたあたりなんですね。

 これからは、東京での北斗の足跡を暇を見つけて調査していきたいと思います。

 

 

 
管理人  ++.. 2009/09/22(火) 13:01 [480]

 
で、日曜日に自転車に乗って阿佐ヶ谷を探検してきました。

まず、北斗が北海道からの二日間の道中、牛乳一杯のんだだけで、上京後最初に訪れたという、西川光次郎の自働道話社の住所。

 東京府杉並町阿佐ヶ谷678ですが、古地図と現代の住宅地図を照らし合わせてみましたところ、これは現在の住所でいうと、おそらく、ここではないかと推測します。

 http://maps.google.co.jp/maps?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4ADRA_jaJP346JP346&q=%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%8D%97%E3%80%803%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%94%EF%BC%8D%EF%BC%93&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

 杉並消防署の、それも訓練場のあたりか。

 けっこう、中央線の阿佐ヶ谷駅からは遠いんですね。

 「自働道話」に乗っていた自働道話社(西川光次郎宅)へのアクセス方法には「阿佐ヶ谷の駅を出て、右へ3町、湯屋の前を右に曲がり、二町ばかりいきし所」とあるのですが、そうなると、駅から人は東向きに出て、南に約300m、西に約200m行くことになりますね。
 むしろ、成宗に近い。

 その成宗といえば、金田一京助が住んでいたところ。
 金田一を訪ねて農村地帯だった成宗を訪ねて行った北斗は途中で田んぼに落ちて泥だらけになったりしながらも、夜の8時にようやく金田一宅をさがしあて、その夜に運命的な会談をするわけです。
 その会談の行われた金田一京助自宅は「杉並町成宗332」。
 これは現在の成田東四丁目。

 自転車で「たぶんこのあたりかな」と思いながら走っていると、突然見覚えのあるお名前の表札(「国語の神様」としてテレビでおなじみの)があり、やはり、このあたりかと思いました。
 
 北斗のころとは違って、田んぼなどまったくない、閑静な住宅地ですね。
 
 

管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:48 [482] [引用]

 
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 あと、成人の日あたりの休日に、散歩がてら徒歩で新宿へ。北斗が上京後住んだと思しき、東京府市場協会の高見沢邸のあった場所にも行ってきました。、

 大正末の「淀橋町角筈316」は、現在の新宿区西新宿。

 新宿中央公園の西の十二社通り、十二社池の上のバス停の近くの路地を西に少し入ったところ。

 東には東京都庁のビルが聳える、東京副都心のど真ん中です。
 でも、このあたり、北斗がいた大正14年には、広大な浄水場がひろがっていたんですね。今の中央公園、東京都庁とその周辺のビルはぜんぶ、浄水池だったんですね。玉川上水から引き入れた水を浄化して上水道にしていたようです。

 近くにお店があったので、買い物ついでに聞いてみましたが、80年前のことはわからない、とのこと。

 あきらめて帰ろうとしたら、「角筈コミュニティセンター」に図書館が。いろいろと郷土資料を探してみました。

 行きは歩いて来ましたが、帰りはさすがにつかれたので電車で帰りました。

管理人  ++.. 2010/02/04(木) 00:46 [486] [引用]





 81年前  [返信] [引用]
 昨日、1月26日は、北斗の81回目の命日でした。

 81年前の昭和4年1月26日の朝、北斗は帰らぬ人となったのでした。

 北斗の親戚のトキさんという女性によると、

 (前略)雪の降る寒い日だった。わしが炉に火を入れようとした時だった。タケが死んだといって梅(北斗の兄梅太郎のこと)がいってきた。わしは夢中で冷たいのも知らないで、ハダシのままタケの家に行った。一つも口を聞かなかった。

 小樽新聞によると、亡くなったのは朝の9時でした。


 ああ。
 情けないことに、昨日が命日だということを、すっかり忘れていました。
 
 気づいたのが日付が変わってからだ。
 いかに北斗から心が離れているかということだろうな。
 なんとも、情けない。 
 

 
管理人  ++.. 2010/01/27(水) 01:15 [484]





 コタン  [返信] [引用]
希望社版コタン(昭和5年)はたまにヤフオクに出るのですが、いつも結構高い。

私が持っているのは古書店で2万円でした。最近は一万円前後でしょうか。

私の持っているコタンは、傷みが激しく、今にも崩れそうなので、
新しいのを(というか、80年前の本なので、古いんですが)探していました。

ところが、こないだヤフオクで出品されていたのを見て驚きました。

500円から!

なんとも、もったいないというか、ありがたいというわけで、入札。

結局、2000円で落札できました。


それにしても開始価格500円とは……。

 
管理人  ++.. 2009/12/27(日) 02:58 [483]





 無題  [返信] [引用]
江口カナメの「アウタリ」をぱらぱらめくっていたら、こんな短歌を発見。

  金なくて
  こどくをだきて一人して
  北斗に佐美雄コタンに死せり


江口カナメが北斗について言及している短歌あるとは。
見落としていました。

 
管理人  ++.. 2009/10/06(火) 01:16 [481]





 日本巫女史  [返信] [引用]
北斗が東京時代に親交のあった民俗学者・中山太郎の著書『日本巫女史』に北斗についての記載があります。

第一篇 第七章 第二節
(略)
アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
(略)
〔註二一〕
アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。

 
管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:36 [471]

 
(引用元HP)巫研 Docs Wiki
 http://docs.miko.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 このHPはすごい。「日本巫女史」が全文掲載されていて、検索したら引っかかりました。

 中山太郎は、北斗と親しかったようで、よく手紙のやりとりもしていました。
 北斗から「承った」ということですが、在京中に中山にカムイシロシの話をしたのか、手紙で伝えたのかはわかりませんね。
 でも、フゴッペの話が出ていないところを見ると、もしかしたら東京時代に語った話かもしれませんね。
 だとしたら、北斗のアイヌの遺跡への興味は、上京前からすでにあったということになります。

管理人  ++.. 2009/05/01(金) 01:51 [472] [引用]

 
ご引用有難う御座います。
電子テキスト化については自分が発案したのですが、いつのまにテキスト化分が追い越されまして、たちゃな氏の精力ぶりには脱帽せざるを得ませんです。逆に此方は校正に回ってます。

もし、ご覧に頂く頃、何か誤植を発見しましたら、是非ご一報お願い致します。では。

浦木裕 [URL]  ++.. 2009/08/15(土) 13:08 [479] [引用]





 山上草人とは  [返信] [引用]

北斗の闘病中の姿を描いた短歌を書き、小樽新聞に投稿した山上草人ですが、おそらく古田謙二でまちがいないようです。

 ある方から、古田冬草遺稿集がご遺族の方の手によって発行されたこと、その中に北斗の記事があるということを教えて頂きました。結局新しい情報はありませんでした。

 が……。
 その遺稿集に、古田謙二の雅号についての記述があり、余市時代には「冬草」ではなく、「草人」と名乗っていたと書いてありました。

 雅号のこと

 たしか大正の末か昭和の初め頃だったかと思う。余市町で教員をしていた時のことである。ある夏のこと、消防番屋の二階で俳句会があり、兄の裸人と連れだって出席した。
 その時、主催者から「あなたの雅号は……」と聞かれた。ところが、私はその時まで雅号というものを持っていなかったのである。突然の質問だったので一寸困ったが、少し考えて「草人」としておいて下さい、と答えてしまったのである。……私の兄は「裸人」であり私は裸人の弟だから人の一字を貰って「○人」としよう。それい私は礼儀作法もわきまえぬ野人だから「野人」位が適当だ。しかし、野人はあまりムキ出しだから野人と同じ意味で少し雅味のある「草人」でよろしかろう……


 と付けたそうです。
 
 ならば、状況的にも、やはり山上草人は古田謙二で間違いないでしょう。


 ところが、

 
管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:45 [476]

 

 数年間は草人を使っていたようですが、青木郭公の句誌「暁雲」に参加する時、他に草人という人がいたので、後から入会した古田が改号し、冬草という号にしたということです。何事にも熱中してしまうので、少し頭を冷やすように、冬という字を使ったとのことです。


管理人  ++.. 2009/08/02(日) 00:48 [477] [引用]

 
古田謙二(冬草)=草人は1983(昭和58)年9月30日に84歳で亡くなられています。

84年版コタンに「落葉」が掲載される直前です。あの文章は亡くなられる直前のものなのかもしれません。

遺稿集は、ネット上でpdfでも公開されています。

管理人  ++.. 2009/08/02(日) 01:05 [478] [引用]








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