| TOP | ホーム | 携帯用 |

コタンBBS

違星北斗研究会
名前  
Mail   URL
タイトル   簡単タグ入力
添付  
フォームに保存  プレビュー     削除キー(半角英数字) 



 ウタリ之友  [返信] [引用]
ウタリ之友に、北斗に関する記述がありました。

-------------------
ウタリ之友 九月号 一九三三年九月一〇日

 幌別だより      タンネ・ヘカチ

 いつも「ウタリの友」をお送下さりまして有難う御座います。
 何か御礼にも と思ひましてもルンベンである僕は何も出来ませんので申訳なく思って居ります。毎月戴く「ウタリの友」を見ますとみんな知った人ばかりなので つひ懐かしさの余り筆を取らうと思ひますが、一日々々と延びて締切の日を越えたり、筆不精のため遅れたりで毎日過して来ました。今日は雨模様の静かな日です。久しぶりに落ちついた心で教会の辺りを歩いてみました。土手にはクローバーやチモシーなどの牧草が綺麗に生えてゐて 処々に月見草が優しくうなだれてゐます。土手の中には南瓜が一面に這ってゐます。あそこには苺が沢山つくられてあって八重先生がいつもレーキやホーをもって草を取ったり、藁を敷いたりしてゐたのでした。西側の一隅にはアスパラガスの一群に野菊が混って仲よく茂ってゐます。僕が小学校に通ってゐた頃は畑もよく耕されて雑草のない黒土に茎の太いアスパラガスが元気よく延びてゐたものでした。あれからもう六・七年の年月を過してゐます。主人無き古き教会の土手の片隅にアスパラガスは 冬に眠り春に目覚めては培ふ人の再び訪れる日を待ちわびてゐたのでせう。しかし教会の門柱が朽崩れても 裏のシグナルの上に北斗七星がいく夜かまたゝいても去った人々は再び訪れてくれませんでした。
 そのうちにアスパラガスの根もとには いつしか野菊やノコギリ草が混りました。今ではアスパラガスはそれらの雑草と仲よく暮す事が楽しみなのでせう。細くすらりとした姿で野菊の白い小花の中にふさ/\とした葉を垂れてゐます。
 僕は遠い少年の日を思ひ乍ら 赤や青のガラスを填めた小窓を見てゐました。いつか八重先生が札幌へお出でになった留守でした。学校から帰ってきた春野さんが二三人の子供を連れて来て 礼拝堂の高い屋根に梯子をかけて雀の仔を沢山とりました。軒からは藁や毛がバラ/\落ちました。春野さんはその雀の仔をみんな子供達に分けてやってから、僕の方を見て笑い乍ら内へ入りました。ある時はまた豊君が豚の餌を買ひに行っての帰り途で、石花菜(キラズ)を山盛りに入れた箱をひっくりかへした事もありました。井戸のつるべが落ちた時 死んだ違星さんが僕のうちへ釣[瓶]を借りに来た事もクリスマスの劇で僕が大工さんになって恥しかった事も みんな楽しい思ひ出です。あの頃の人々は皆何処かへ行って了ひました。僕だけが毎朝トマト畑から古い教会を眺めて暮してゐます。
(一九三三年九月四日)
------------
(出典は「アイヌ民族近代の記録」草風館より)

 作者のタンネ・ヘカチは佐藤三次郎。
 どこかで聞いた名前だと思ったら、知里真志保に「違星北斗のような短歌は作るな」と言われた人だった。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/fujimoto.html



 
管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:06 [536]

 
で、肝心の北斗ですが、最後の方に、佐藤三次郎の家に井戸の「釣瓶」を借りに来る人として登場。

 東京から北海道に戻ってすぐの頃の幌別教会時代のエピソードではないかと思います。
 この文章は在りし日の幌別教会を中心としたアイヌコミュニティを写したものですね。
 バチラー八重子、北斗、知里真志保ときたら、「豊さん」はもしかしたら、「豊年健治」ではないかと推測します。

 雀の子を取った春野さんも、どこかで聞いたことがある名前。
 どこだろう?

 
 

管理人  ++.. 2011/04/10(日) 04:10 [537] [引用]





 『アイヌの啄木』に反対します!  [返信] [引用]
違星北斗のことを「『アイヌの啄木』と言われている」と平気で書く人がいるが、どうなんですかね。

誰が言い始めたのかもわかりませんが、北斗のことを少しでも知っていて、啄木のことも少しでも知っていたら、とてもそんな呼び方はできないんじゃないかと。

そりゃ、キャッチーかもしれませんけど。




ここだけの話。
北斗は石川啄木のような人間ではありませんよ。
対極でしょう。

啄木のことも、北斗のこともよく知る金田一京助がそれを言ったんだったら、まあ、いいでしょうが、私が知る限り、金田一京助にそんな発言はない。

啄木ファンには悪いけど、金輪際、『アイヌの啄木』と呼ぶのはやめてほしいもんだな。

 
管理人  ++.. 2011/03/02(水) 02:37 [532]

 
呼吸をする度に細工物のように上手い素晴らしい短歌をこさえることのできる

石川啄木と、一人で民族の未来を背負って起った違星北斗とでは

あまりにも立ち位置が違いすぎるんじゃないのかなぁ。

別に、啄木をどうこういうつもりはないんですが。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:00 [533] [引用]

 
でも……やっぱり……悪く書いちゃうけど、啄木という名前は、どうも「ダメ人間」というイメージが強すぎるんだ。それは、北斗を通じて金田一京助の生涯を知っているから余計にそう思うのだろうけど。

「アイヌの啄木」なって書いてありがたがっちゃう人は、とてつもなくだらしない啄木の存在がいかに金田一の研究の障害になったかを知らないんだろうな。もちろん、金田一の研究にはいろいろな問題があったのだけれど、それはひとまず置くとして。


管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:16 [534] [引用]

 
ちなみに、金田一京助は違星北斗のことを

「知里幸恵を男にしたような」

と譬えています。

こっちのほうが痛快な譬えだと思うのは私だけでしょうか。

管理人  ++.. 2011/03/02(水) 03:19 [535] [引用]





 名前  [返信] [引用]
違星北斗には名前が3つある。

戸籍上は「瀧次郎」だが、本来は「竹次郎」で、代書屋が聞き間違えたまま、登録してしまったのだ。

(現代ではそうでもないかもしれないが、余市の方言は「イ」音と「エ」音の混同というのがあるようで、それは古老の方と話していても感じたし、北斗自身もよくイ音とエ音の書き違えている)。

で、彼は和人の前では「瀧次郎」、家族や、コタンの人々からは「竹次郎」、「タケ」と呼ばれていた。

彼の父や祖父の時代には、和人名とアイヌ名の両方を持っていたが、さすがに北斗の世代の余市ではそういうことも少なかったようだ。
ただ、図らずしも、北斗の中には和人社会での名前「瀧次郎」と、アイヌ社会での「タケ」が同居することになった。
 
 一つの体に二つの名前。
 一つの言葉に多くの意味。

 多くのアイヌと同様、彼は和人社会とアイヌ社会という二つの社会で、多面性を持たざるをえなかったし、彼の場合はそれを名前によって使い分けざるを得なかった。

 後年、彼は北斗と号することになる。
 その引き裂かれた二つの名前を統合したのだ。

 彼はまた、当時蔑称的に用いられていたアイヌという言葉に、新しく良い概念を込めようとした。我アイヌ、何を恥じることがあろうかと。

 言葉の意味は、時代によって変わっていく。
 また、人為的に変えられる。
 のちに言葉を武器に戦っていくのには、この三つの名前を持つことと無関係ではないと思う。

 
管理人  ++.. 2011/02/08(火) 11:11 [531]








     + Powered By 21style +