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違星北斗研究会
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 グーグル書籍検索で「違星北斗」を検索してみた  [返信] [引用]

 グーグルに「書籍検索」というものがあり、アメリカの図書館の蔵書の「中身」が検索できるようになっています。
 アメリカの図書館といっても、英語だけじゃなく、アメリカの図書館の中に所蔵されている日本語の本の中身も日本語で検索できるようになっており、結構すごいことになっております。

 私としては当然のことながら、「違星北斗」で検索してみました。
 いろいろと出てきました。

 ただ、たとえば「違星」と検索しても、その名前の前後の20文字程度しか出てこない、あるいはその本の中に「違星」という言葉が含まれているということしかわからない、といったものですので、結局はその本をどこかで探して読まなければならないのですが。

 また、スキャナで取り込んで、OCR(文字認識ソフト)文字化しているのですが、文字認識の精度が低く、正しく「違星」と認識されている場合もあれば、「連星」「迫星」など、違った文字として読まれてしまっているのもあり、似た文字をいろいろ試しながら、現在、そのリストを作っているところです。

 その作業の中で、ちょっとした発見がありました。

1 河野広道の年譜の中に北斗の名前が。 

 http://books.google.co.jp/books?id=1xAEAAAAMAAJ&q=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&dq=%E9%80%A3%E6%98%9F%E3%80%80%E5%8C%97%E6%96%97&lr=&num=100&as_brr=0&pgis=1

「1928年(昭和3年24歳)1月 違星北斗氏と対談する」

 これは、父親の河野常吉に、余市の違星氏より聞き取りがあり、このときの対談の内容が「アイヌの秘密数件」という記事なのですが、息子の河野広道も一緒にいたのでしょうか。もしくは、広道が取材し、常吉の名前で発表されたのかもしれません。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kounotsunekiki.htm
 

 
管理人  ++.. 2008/10/25(土) 21:01 [402]

 
で、この検索によって見つかった文書を図書館で見てきました。

上の1に続き、新発見をいくつか。

2 『伊波普猷全集』 第十巻に、北斗の記述あり。


『奄美大島民族誌』「跋」

 奄美大島を訪れたことのある人は、其の住民(中略)を見て、アイヌを聯想したであらう。
(中略)
 一昨年の秋頃であつたか、アイヌ学会のあつた時、(中略)晩餐の時、私の向ひに眼のへこんだ毛深い青年が坐つてゐたのを見て、大島の人とばかり思つてゐたところが、あとでこの青年が違星[北斗]といふアイヌであると聞いて吃驚した。そして其の演説を聴くに及んで、其の発音や語調が大島の人のそれにそつくりだつたので、二度吃驚した。私がまのあたりアイヌを見て、其の話を聞いたのは、此が初めてだつた。違星君には其の後も屡〃会つて、其の発音や語調を観察したが、彼がアイヌの部落中で、最も日本化した余市のアイヌで、しかもその母語を全く話すことが出来ないと聞いたので、其の発音や語調は、ことによると、近所にゐる和人の影響を受けたものか、さもなければ、彼の個人的の特徴ではないかと思つて、他のアイヌのそれを聞く機会を待つてゐた。昨年の秋、アイヌ向井山雄を歓迎する為に、アイヌ学会が開かれた時、私は半ば好奇心に駆られて、出席して見た。向井氏は胆振の有珠の酋長の子で、バッチラー師の下で働いてゐる宗教家であるが、その顔附が大島の上流社会の紳士そつくりだつた。しかも其の発音や語調が、違星君のより一層大島的であるのを聴いて、面白いと思つた。これは恐らく今日まで何人も気づかなかつたことであらう。かくもかけ離れた所に居る両民族の間に、かくも著しい類似の存するのは、たゞ不思議といふの外はない。これは果して偶然の一致だらうか。(後略)



管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:28 [405] [引用]

 

 これは、内容的には「目覚めつつあるアイヌ種族」と一致しますね。
http://www.geocities.jp/bzy14554/mezame.htm

 ただ、伊波普猷と北斗が出会ったアイヌ学会は3月19日なので、「一昨年の秋頃」というのは間違いでしょうね。
 その次に書いてある、向井山雄の出たアイヌ学会のことは、金田一から北斗への手紙(昭和2年4月26日
)にも書いてあります。
 向井山雄は大暴れしてしまうのです。
 http://www.geocities.jp/bzy14554/tegamikindaichi.htm

 
 

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 22:39 [406] [引用]

 
3 『大正期人物年表 大正13〜大正15・昭和1年』日外アソシエーツ

 これはいい本だ。文学者やら軍人やら、いろんな人が、何年何月ごろ何をしていたかが書いてある。
 欲しい。
 北斗に関係した金田一京助や伊波普猷も載っている。

 たとえば、伊波普猷の大正14年3月19日はこう書いてある。

伊波普猷(50歳)
 3月19、東京アイヌ学会(第2回)高橋富士見軒永楽クラブにて開催され、招待通知を受けて出席。金田一京助の「アイヌの現状」と題する講演、アイヌ青年違星滝次郎の講話を聞き感銘する。以後、数度にわたり違星、伊波を訪問し交流する。
 また、この講演座談会の模様を又吉康和あての書信の形をとり、「目覚めつつあるアイヌ種族」と題して『沖縄教育』(14年6月、146号)に発表、これまでの自己のアイヌ観を是正、アイヌ人の正しい認識を呼びかける。
 

 まあ、目新しいところはとくにないのですが、永楽クラブの場所とか、招待通知なんていうことまで書いてあってちょっと嬉しいです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:07 [407] [引用]

 
4 早川勝美に「違星北斗の歌」という文章があり、「山音」48号に掲載されているらしい。

5 『北海道文学散歩 道央編』(木原直彦)によると、向井豊明に「うた詠み」という違星北斗を取り扱った短編小説があるらしい。

 →探したら「うた読み」収録されている本がありました。
  野火書房『新文学の探究』に収録。

 さっそく読んでみました。
 おおざっぱに言いますと、主人公は北海道で教師をしているのですが、アイヌ、それも違星北斗を主題とする文学をやりたいと考えていて、そのためにも仲間を集めて文学会をつりたいと願っているところ、K党の活動家に、党に入れば仲間がたくさんできて文学会を作れるといわれて、党員になってしまう、だけれども、けっきょくそれは幻想であったと気づき、党を離れるというような筋書きです。
 北斗のことも、よく調査されて、書かれていると思いながら読んでいたのですが、それもそのはず、北斗の研究をされていた谷口正氏が協力しているようです。
 
 作者の向井豊昭氏は、昭和8年生まれですが、25年間北海道で教師をされていたそうで、この作品はその時期に書かれたもの。70年代初頭ごろかと思います。
あと、96年に四谷ラウンド文学賞を獲られて、60代で中央の文壇に登場されたという遅咲きの方です。
 残念ながら今年6月にお亡くなりになったそうです。

管理人  ++.. 2008/10/29(水) 23:31 [408] [引用]

 
6 『柳田國男研究集成』に北斗の足跡が。
 
 けっこう、びっくりです。

 「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 (前略)
 この年の五月二十七日もお誘いをうけて、北方文明研究会に行ったが、当日は台湾帝大総長幣原坦博士、フィンランド大使のラムステッド博士も出席され、金田一京助、中道等、樋畑雪湖、松本信広、今和次郎、三淵忠彦、有賀喜左右衛門、岡村千秋、谷川磐雄の諸氏に御紹介して下さった。この日は鈴木・中道・今氏など東北出身の方々を囲んで男子のみによってなされる職業やオシラ様の話が中心であった。この日金田一先生はアイヌ人の違星という青年を連れて来られた。この人は間もなく二十七才の若さで亡くなったが、この青年について、金田一先生がお書きになった昭和四年四月十五日の東京日日新聞の切抜きを保存している。
(後略)


 しまった。
 図書館の閉館時間が迫っていたので、急いでコピーしてもらったら、このページしかコピーされてなくて、これが大正14年なのか、15年なのかがわからない。

 もう一度、確かめに行かなくては。

 この沢田四郎作という人は、医学博士で、民俗学者、柳田國男の教えを受けた方ですね。

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%df%b7%c5%c4%bb%cd%cf%ba%ba%ee

 あれ、おかしいな。昭和2年に柳田に出会ったのであれば、その前年に北海道に帰った北斗とは会っていないはず。
 もしかして、ここに出てきたのは、北斗じゃない「違星」さんなのか? 

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:11 [409] [引用]

 
あとは、メモ

7 『新宿・大久保文士村界隈』という本に、希望社のことが詳しく書いてあった。

8 近代アイヌ教育制度史資料(小川正人)によると、山田伸一氏に「違星北斗伝への試み」という論文があるらしい。


それにしても……、グーグルの「ブック検索」は非常に使える。

アメリカの大学が日本語の書籍を日本語で電子化して検索可能にしてくれたおかげなのだけれど、もしこれが日本でも本格稼働したら、もう、いろいろ大変なことになるかもしれない。

管理人  ++.. 2008/10/30(木) 00:20 [410] [引用]

 
>  「柳田先生の思い出」沢田四郎作

 図書館に行って、もう一度全文を読んできました。

 結論からいうと、これは大正15年の5月27日です。

 先の引用の前に、次のような文章があります。

 十五年四月十日消印の柳田先生のおハガキを頂戴した。

 これは、結構、重要な記述です。
 ある意味大発見です。私的には。

 なぜなら、これまで北斗の東京時代のうち、大正14年の秋から大正15年の春にかけての北斗の行動の記録はみつかっていなかったのです。

 ですので、私は北斗は生活に埋没していたのか、恋愛でもして研究や勉強から離れていたのか、あるいは「国柱会」の宗教活動にハマってしまっていたのか、等々と勝手な想像をしていました。

 でも、この記述が正しいなら、金田一京助の招きでいろいろな学会に行き、勉強を続けていた
 
 北斗は大正15年も「北斗」だった。そういうことになります。
 
 それからもうひとつ。
 北斗が日本民俗学の泰斗である柳田國男とも面識があった、ということがわかります。それに「考現学」の今和次郎とも。
 
 

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 18:00 [411] [引用]

 

 沢田四郎作は、大正15年に初めて柳田國男に手紙を書き、いろいろな会に誘われるようになったそうで、その中の一つが、北斗と出会った北方文明研究会だったようです。
 昭和2年というのは、初めて一人で柳田邸を訪ねた日だということのようです。

 この沢田四郎作などは、関西の人ですが、私の好きな民俗学者・宮本常一とも親しかったようで、こういうふうに別々の興味が、ある時ひとつにつながっていくといのが、こういった研究をすることの醍醐味のようなきがします。

管理人  ++.. 2008/11/01(土) 21:02 [416] [引用]

 
うん。大正15年5月27日で間違いないですね。

 柳田國男の年表でもそうなっておりますので。

 ちなみに、会に来ていて、北斗が会ったフィンランド大使ラムステッド氏は、学者としても有名な人で、宮沢賢治とも会って話をしています。フィンランドの彼の蔵書の中に宮沢賢治の本が2冊あったそうです。北斗の痕跡もないのかな。
 

管理人  ++.. 2008/11/04(火) 00:29 [417] [引用]





 ゴーマニズム宣言  [返信] [引用]

 現在発売中の小学館のSAPIO 11/12号に掲載されている小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」において、アイヌ問題が取り上げられ、その中で違星北斗が登場しています。
 その内容について、気になる点や違和感がないわけではないですが、まだ1回目ですので、しばらく読んでから書いてみようと思っています。
 

 
管理人  ++.. 2008/10/26(日) 21:19 [404]





 永劫の象とは  [返信] [引用]

 昭和3年2月29日、違星北斗は幌別で友人の死を知ります。

 二月廿九日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。  
 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。
 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

    永劫の象に於ける生命の
    迸り出る時の嬉しさ  

 あの歌を思い出す。    

    永劫の象に君は帰りしか
    アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 この「永劫の象」とは何か。
 「象」はエレファントの象ではないだろう。かたち、イメージ、イデアの「象」だろう。
 じゃあ、永遠の象とはなんだろう?

 長らく考えてきました。
 永劫とは?

 キリスト教だろうか、それとも、北斗が東京時代に帰依した国柱会。その経典である法華経だろうか。
 それとも……

 哲学か。

 かもしれない。
 北斗は西田幾太郎の『善の研究』を読み込んでいました。
 哲学で「永劫」……「永劫回帰」。

 ニーチェか。
 そうかもしれない。
 というか、よくわからない。

 永劫。永劫の象。

 本当に「象」でいいのだろうか。
 北斗にはよく誤字、同音異字の間違いがある。

 永劫の「ぞう」か?
 
 永劫の「像」? そういう像があったのか?
 「蔵」? 
 もっと、哲学的な概念的な言葉。
 「相」か?

 「永劫の相」……なんかありそう。
 検索してみると、あった。

「永劫の相」スピノザ。

 スピノザか。スピノザなのか?
 北斗はスピノザを読んでいたのか?

 本当かどうかはわからないけれども、本当だったら、これはちょっと驚き。
 スピノザ、読んでみるか。

 
管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:21 [392]

 
ウィキペディアを流し読みしただけだけど、スピノザの「神」の考え方は、北斗に近いようだ。

《スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。》ウィキペディア

 次に、北斗と親交が深かった古田謙二の言葉。

 北斗が東京から帰って来た頃のことである。
 道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
 と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
(中略) 
 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
 即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです
 そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したいといい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
 ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。(古田謙二「『アイヌの歌人』について」)


 やっぱり似てる。
 北斗=西田幾太郎≒スピノザ?

 勉強勉強。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:32 [393] [引用]

 
 やっぱりそうだ。
 西田幾太郎の『善の研究』の中では、「スピノーザ」が多く言及されている。
 『善の研究』を読んだ北斗であれば、「スピノーザ」に手を伸ばしたというのは想像に難くない。
 「永劫の象」は「永劫の相」の書き間違いなのか、あるいは、北斗の手にした古い訳では「永劫の象」となっていたのかもしれない。
 北斗が入手したであろう「スピノーザ」の本を調べてみよう。

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:51 [394] [引用]

 
これかな。

岩波文庫 スピノーザ 『哲学体系』

昭和2年12月15日初版発行

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w24448735

昭和2年末の発行だと、ちょっと時期的に微妙かもしれないけど、とりあえず入札してみた。
 

管理人  ++.. 2008/10/21(火) 19:54 [395] [引用]

 
×西田幾太郎
○西田幾多郎

 勉強。勉強。

管理人  ++.. 2008/10/22(水) 00:06 [396] [引用]

 

「永劫の相」よりも「永遠の相」の方が、よく使われているみたいだ。
 永遠の相で検索するとめちゃくちゃ引っ掛かります。

「永遠の相のもとに」というような使われ方をしていることが多く、そういう題名の本もあるようだ。

 「時と永遠の相における生」
 http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/mhayashi/Psalm90.htm

 この使われ方は、件の豊年健治君の短歌

「永劫の象に於ける生命の
 迸り出る時の嬉しさ」

 での使われ方に似ている。

 ウィキペディアにも、

 「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」

 手元に届いたスピノーザ(小尾範治訳)の「哲学体系」(エチカ)では、「理性の性質には、物を永遠の形式の下で知覚することが有る」となっている。永遠の形式。永遠のかたち。永劫の象。

 なんとなくわかるけど、まだうまく説明はできない。 

管理人  ++.. 2008/10/26(日) 00:43 [403] [引用]








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