Title: 【出産報告】11週流産、20週人工死産後の出産
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2007年に長男出産後、 2010年2月、10週で繋留流産と診断されたのち、 手術を受ける前に自宅で完全流産。
その後、また流産したらという不安と恐怖を抱えながらも妊娠。 何とか安定期にさしかかり、胎動らしきものを感じはじめた17週にうっすら出血し受診。
出血自体は問題ないものの、羊水が少なく、詳しい検査をする必要があると、いったん帰され、同日午後に再度受診。 胎児の腎臓、膀胱が確認できない、小さいからエコーで見えないだけなのか、ないのかわからない、とのこと。 詳しく調べる必要があるので、胎児の成長を待って2週間後にMRI検査をす受けることに。
結果は変わらず、腎臓がなく尿が作られないため、羊水が減っている。 そして、羊水を飲むことで肺の機能を発達させていくため、 産まれてきたとしてもおなかの中から出た瞬間息ができずになくなってしまう。 もしくは、胎内で死んでしまうだろう、とのこと。
おなかの中で元気に動いている我が子。 妊娠継続するのか、あきらめるのか、心が引き裂かれる思いがしながらも、妊娠継続の選択肢を選ぶ勇気も時間的余裕もありませんでした。
人工死産をすると決めてからは、早いほうがよいと言われたのですが、おなかの我が子との思い出を作りたくて、少し時間をいただきました。 ディスニーランドに行ったり、動物園に行ったり、イチゴ狩りに行ったり、家族で写真もたくさん撮りました。 病気を早く見つけていただいたおかげで、息子との最後の時間を楽しい思いで作りの時間に費やすことができました。
前回の流産からおよそ1年後の2011年1月25日、 22cm、230gで産まれてきた次男。 産声を上げることはなかったけれど、てのひらに乗るほど小さいのに、爪もちゃんとあって、目も口も鼻もちゃんとあって。 一生懸命生きようとしているのに、命の終わりを私が決めてしまって、本当にごめんね。
次の妊娠が怖いという気持ちは変わらなかったけれど、 どうしても兄弟をつくりたかった。 そのために次男の命を終わらせてしまったんだから、と、 次の妊娠には自分でも意外なほど前向きに取り組めました。 そこで後ろ向きになってしまったら、次男にも申し訳ないという気持ちが強かったのかもしれません。
2011年7月に妊娠がわかり、受診。 出産予定日が確定する予定の受診日に、次男の解剖の結果を受け取りました。 そこに書かれていた内容は、次男の病気が、遺伝が関係するタイプのものである可能性があるというものでした。 また同じ、産声のない出産をしなければいけないのか。 心拍が確認されたばかりの、まだ初期流産の危険性もある時期、 遺伝子検査をしていないので、確定診断ではない、 長男も無事に産まれている、大丈夫、大丈夫、と、必死に自分に言い聞かせ、動揺しないように努めました。
そして、何も知らないままではなく、きちんと知ろう、知って頑張ろう、と胎児診療専門の病院を紹介してもらい、遺伝子カウンセリングと胎児診療を受けました。 同じ病気を発症してしまう可能性は、最大で25パーセント。 この病気自体が5000人に1人とか、2万人に1人といわれている病気だったので、25パーセントという数字はとてつもない高確率に思えましたが、75%は大丈夫なんだ、と思えました。 今思うと、自分でもびっくりするくらい前向きでした。 次男の力とおなかの赤ちゃんの力が支えてくれていたのだと思います。
同じ病気を発症してしまったら、治療のしようがないので、注意深く観察していくしかありません。 出産予定の病院での検診に加え、胎児診療科のある病院で月一のエコー検査に全額自費で通いました。
20週の時、無事に腎臓と膀胱が確認され、一安心。 次男の時と比べると、おなかのふくらみかたが全然違います。 狭いおなかの中で苦しい思いをさせていたんだなぁと、そう思うと涙が止まりませんでした。
同じ症例で、26週で発見されている方もいるため、念のため、 30週まで胎児診療科に通いました。 そちらを卒業後、やっと、出産に対する実感がわいてきました。 予定日より2週間早く、2012年、2月22日に 2695g、46cmの、 私にとってはとっても大きな!女の子を出産することができました。 産まれる直前、「赤ちゃんの心拍が戻らない」という助産師の声が聞こえてきましたが、 スタッフの皆さんの真剣な顔を見ていたら、自然と大丈夫、助けてくれる、と思えました。
悲しくつらい出産が、私に強さを養ってくれたと思っています。 赤ちゃんが泣いてくれることが、こんなにうれしいことなんだと思いながら、毎日過ごしています。
辛くてどうしようもなくなったとき、何度もこちらの皆さんの体験談を読ませていただき、みんな乗り越えてきたんだ、私も乗り越えなきゃ、とがんばることができました。
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