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 新短歌時代より(2) 
第2巻2号(昭和3年2月)

五十人集

(前略)

○              高根一路
遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ

薬売るけなげなアイヌのその歌をこゝろしみ/゛\口にしてみる

(後略)

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昭和三年口語歌壇予想暦

(前略)

十月三十日

 違星北斗、「正義の前に立った確信」といふ気持で、フゴツペの鉄道沿線を掘ると、中から「誇大坊主」(古代文字)のミイラ現れ「淋しい気持」に変る。

(後略)

※これは、まあ各同人の「未来予想」で、冗談記事のようなものですね。

 
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:30 [61]

 
「歌の作り方に就て(二)」 福田義正

(前略)一体に燕麦とか憂鬱とかのやうな音読の文字は強く響くから、次のやうに前後に強い言葉を据えて均衡を保つことが大切であると思ふ。
(中略)
 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今何處にゐる
(中略)
 これらの歌はよくリズムが整調されてゐて一読ピンとくるではないか。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:07 [63]

 
第2巻6号(昭和3年6月)

さらば小樽よ小樽の人々よ    福田義正
(前略)
 思へば―。百余日にわたる小樽の冬ごもりは私にも楽しかつた。景山医学士夫妻の厚意をうけて望月病院内に起居したことは幸であつた。昼は毎日大きな風呂敷包みを背負つて雑誌を売りに歩いた。私の売る雑誌は至る所で歓迎せられた。並木凡平さんをはじめ、勝見茂、後藤勇、石田さだを、渡部剛、村木雄一、園田朱一、岡野陽子、種田嘉代子等の諸君は私の商売のためにも一方ならず力を尽くしてくれた。然るに私は何等報ることなく立去らうとしてゐる。また裏切り者の名を負うのか。苦しい。諸君よ、許してくれ。
 夕方になると病院に帰つて、景山先生の乗る橇の後押しをして走つた。大男の橇を押す姿は可笑しかつたか、通りすがりの女学生などよくゲラゲラ笑つたりした。それでも患者の家に行けば労を犒つてくれるのでうれしかつた。汗を拭きながら肩で息をしてゐる者にとつて、一杯の渋茶も涙がこぼれるほどうれしかつた。往診から帰つて火の気のない冷たい食堂で飯を食ふとあとは自由に遊ぶ時間であつた。ある晩は景山夫妻の部屋に行つて、ある晩は薬剤師青木朗々の部屋に行つて、たいていは短歌の研究をしあつた。愉快な談笑の声が更けてゆく夜の空気をゆすつた。
 一月十七日の晩だつたと思ふ。小樽に於ける最初の口語歌雑誌「橄攬樹」の編輯者渡邊要君の来訪を幸に、その歓迎会をかねて病院内で短歌会を開いた。凡平さんがヤケドのため出席されなかつたのは残念だつたが、会する者十七八名なかなかの盛会でうれしかつた。その前後であつたか、治療助手の原草之介も歌を作る。川村看護婦も作る。入院患者にまで共鳴者があつた。違星北斗君が来て寝食を共にしたのもその頃であつた。
(後略)
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:24 [65]

 
※上の文章が書かれたのは五月四日。
 ここにも、新発見の北斗の足取りがありますね。

 昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:32 [66]

 
第2号7号(昭和3年7月)

漫歌十人一首 明圓政二
――怒りつぽい人読むべからず――

(前略)
   違星北斗さんへ
おゝアイヌ強いアイヌよどこにゐる出てこい出てこいもう一度たて
(後略)
管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:19 [67]

 
第六回 新短歌座談会 
 
 大友秋牧 稲畑笑治 後藤勇 石田さだを 近藤輝越 美津井勇 野村保幸 並木凡平

(前略)

(凡)どうです彗星的に現れた彼の違星北斗君に就いてなにか。
(輝)違星さんの作品に就いて近ごろ非常に幻滅を感じてきました。
(笑)同感々々。
(美)未見ですが歌を通して見た違星君は大変に大和民族的なねつ情のある歌人だと思つてゐます、だが最近の作品のどれもが極端に誇張し過ぎてゐてさつぱり駄目ですね一時は中村孝助氏とともに注目された人ですのに。
(さだ)そう、僕なんかも一時作品には感心させられましたが此の頃の作品はどうも好きになれません。
(保)なぜ違星さんがはじめて歌壇に現出したころのような自然らしい歌が近ごろ生れないのかと不思議に思つております。
(凡)彼の処女作「握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声」当時の詩的情感が今日枯死した感のあるのは甚だ物足りない。民族的偏見と、議論の一説に近い叫びを余りに強く悪どく出しすぎてるの感がある然し理論のしっかりした点は将来期待していゝと思ふ。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:55 [68]

 
>昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

 景山病院じゃなくて、望月病院ですね。
管理人  ++.. 2005/10/31(月) 23:52 [70]



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